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羨望

人生に絶望した。このまま生きていてもいいことは何も起きないとずっと思っていた。10年前のタカシは夢も希望も持たないどころか世界を冷ややかな目でしか見ることができない人間であった。普通の生活を過ごしたいのだけれど、厳しい現実がいつもタカシの理想の邪魔をする。どれだけ前を向こうとしても薄明かりすら灯らない道を前に、身動きが取れずただ呆然と立ち尽くしていた。

うまく夜も眠れずに、何度も明かりのない河川敷に足を運び、空ばかりを眺める日々。河川敷は真上に広がる空以外の景色がないため、何も考えなくて済む。川辺に適当に寝転がり、空に浮かぶ無数の星に「どうか普通の生活ができますように」と願いを込める。星に願いを込めたところで現状は何も変わらない。それでも何かに縋るしか方法はなくて。そして、川のせせらぎを聞きながらゆっくり目を閉じる。そこにある景色をただ純粋に楽しめる世界があればいい。でも、タカシには厳しい現実が待ち受けていた。

10年前のタカシは学生という身分にもかかわらず家族を養うために、昼夜問わず働き続けていた。タカシの家族構成は父と母、6人の兄弟がいる。人に優しくと育てられたタカシは兄弟にとても甘い節がある。穴の空いたスニーカーを半年ほど履き続け、笑われるとダメだからと弟のスニーカーを新調する。ごめんなさいという母の声に大丈夫だよと笑顔で返していたが、本当は普通の生活がしたかった。でも、親からの教えがタカシの本音を押し殺し続けていた。

父の収入だけでは到底家族を養えないため、タカシは昼夜問わず働き続けた。生きるためには金がいる。それは周知の事実なのだけれど、あまりにも厳しい現実を目の当たりにするには少し早かった。殆どの学生が学校を卒業してから自分のお金で生活をするようになる。けれど、タカシは学生ながら自分で稼いだお金を自分だけでなく、家族のためにも使っていた。まだ大人になりきれていない青年が世間に対して冷ややかな目になるのも無理はないのかもしれない。


周りの学生は、お金の心配を何もせずに悠々と過ごしていた。呑気なやつだ。世界はそれほど甘くない。もっと苦しめばいいと口には出さないが、タカシは常々思っている。学校に行くたびに「バイトだりぃ〜」とか「帰りにカラオケ行こうよ」といった耳障りの悪い言葉ばかりが聞こえてくる。「もう、うるさい」と喉元から出かけた。苛立ちの念を力いっぱいに握り締め、それでも気が治まらない。タカシは一目散に教室を飛び出して、屋上へと一気に階段を駆け上がった。

人生に絶望した。もう死んでやると何度も思いはしたものの、死ぬ勇気などさらさらない。空は広いのに視野があまりにも狭い。あるはずのものが見えず、ないものばかりを数える日々。この息がしづらい現実世界からいますぐ飛び出して、自由になりたい。ごくりと唾を飲み、屋上の端へと足を進ませる。屋上から見える景色に怯えを隠せず、怖いと囁く。死にたいわけではない。むしろ生きたいという感情だけが芽生えてくる。瞼の奥から込み上げてきた大粒の涙が変えられない現実を濡らしたのだけれど、何も変わらない。生きる希望を持てないタカシはなす術もなく、ただ途方に暮れていた。

他人に対する羨ましいが度を超えた瞬間に、怒りの感情が芽生えてくる。怒りをプラスに変えたいとは思うのだけれど、視界が狭くなったタカシには到底できない芸当だ。それがいつしか世界を冷ややかに見る目に変えてしまうきっかけとなった。どうせあいつらはと相手を平気で見下し、まるで自分が神にでもなったかのように錯覚する。「俺はあいつらとは違う」は、「本当はあいつらのようになりたかった」の裏返しである。相手を卑下する心は貧しいもので、そこにプラスの感情は一才芽生えない。むしろ幸福度が下がる一方で、まずますタカシの目はキツくなっていく。

日々の生活はとても厳しい状況だった。学校から家に帰って、すぐに仕事へと足を運ぶ。電車賃も惜しいため、ある程度の距離であれば自転車で向かう。ひとつの仕事では足らず、仕事が終わったその足でまた別の職場へと直行する。仕事が終わって、眠るのは深夜3時を過ぎる。そして、朝の8時には目を覚まして、また学校に登校する。いつしか学校に遅刻するようになって、周りから「遅刻魔」というあだ名をつけられた。遅刻をしたいわけでない。むしろみんなと同じように金のことを一切考えない楽しい生活がしたい。そうすれば学校に遅刻しなくても済む。


現状を打破するために、今の自分に何ができるのだろうか。近い将来周りの学生よりもいい暮らしをするためには成り上がるしかない。なけなしの金を握りしめて、本屋さんへと足を運ぶ。今の自分に必要だと思った本を立ち読みし、手元に置いておきたいと思った本を購入する。その晩、タカシはボールペンを片手に本を読み漁った。

役に立ちそうな知識と不必要な知識。貴重な時間を使って得たものを日常生活で役立てるために、知識を習得する。巷では本を読んだだけで満足する人がいると聞いた。それは意味がないと自分に言い聞かせ、本に書いていた内容を実践する。まず日々の仕事で本の知識が役立った。それに伴い、日常生活もまるで自分の見えていた世界が変わっていく。井の中の蛙であるタカシはまだ大海を知らない。まるで自分がすごいやつだという勘違いを犯し、相手を見下すようになる。

遊んでばかりのやつと俺はまるで違う生き物だ。今勉強に力を入れておけば、10年後のあいつらに間違いなく勝つことができる。それは事実なのかもしれないけれど、目を向けるべきは相手ではなく自分である。他人がどんな生き方をしていようが、自分には何の影響も及ぼさないし、及ぼされる程度の人間であったと、自分を顧みた方がよっぽど前向きだ。

就職活動を終え、社会人になった。ここで俺はあいつらとの差を見せつけると息巻いたものの、どの世界にも上には上がいる。社会人経験がない人間が、経験者に勝てるわけがない。希望からの絶望を経験して、タカシは自身の行動を反省した。もっと謙虚に、人への感謝を忘れないように生きる。誰かを卑下しても、それは自分より下の人間がいると安心したいだけ。そこからガムシャラに働き続けたタカシの生活はより充実したものとなった。

上司だけでなく部下からも愛される存在。当たり前なのかもしれないけれど、どんな状況であっても報連相を怠らずに、加えて謙虚に満ち溢れた言葉で対応してきた。社会人になり、家を出て1人の生活になったことで、裕福とまではいかないが、お金に困らない生活ができるようになった。二度と過去に戻りたいとは思えないけれど、過去の経験があったからこそ、周りに感謝できるようになったのだ。そう考えると人生に無駄は存在しないのかもしれない。

苦しかったあの日々から10年が経ち、タカシは10年前の自分が今の自分を見たら羨ましがるに違いないと思った。ふと思い立って、ずっと心の拠り所にしていた河川敷に久しぶりに足を運んでみた。10年前の自分が今の自分を見たときに、一体どのようなな感情を抱くのだろうか。そして、今の自分を10年後の自分が見たときにどのような感情を抱くのだろうか。過去の自分が羨ましくなる生き方をしていたい。そんなことを思いながら、沈みゆく真っ赤に燃える夕日を眺めていた。

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サトウリョウタ@毎日更新の人
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