“今”を詰め込んで
今朝、1本の映画を見た。映画はいつだって非現実の世界に連れて行ってくれるから毎日でも見ていたい。昔から自分ではない誰かの物語を見ることが好きだ。暇さえあれば、映画の世界に入り浸っていたいと思う。そのほかにも小説が好きで、リュックの中にはいつも小説が2冊ほど入っている。移動中やカフェで小説を読んで、非日常の世界を楽しむ。それが日常の些細な楽しみでもある。
非現実の世界はワクワクとドキドキを運んでくる。魔法が使えるファンタジーを見るたびに、魔法が使いたいと思うし、アクション映画を見るたびに、自分が強くなったとつい錯覚してしまう。恋愛映画を見るたびに、運命的な出会いを探してしまうし、サスペンス映画を見るたびに、犯人はあいつなんじゃないかと主人公になった気分で推理をする。
非現実の世界にいるときは、いつも現実世界にいなくなった感覚になるけれど、最近は自分の人生をもっと楽しみたいと思うようになった。人生を一編の映画だとして、どんな脚本を書けば、この映画は幸せな結末を迎えるんだろうとか、ここはちょっと壁につまづいておいた方がいいよなとか、お助けマンがピンチに現れるとかそういう展開を考えている時間が好きだ。
そのほかにも友達と遊ぶ時間を増やしたり、あわよくば好きな人と過ごす時間を大切にしたりだとかそういうことばかり最近は考えている。丁寧な暮らしに憧れがあった時期もあったけれど、別に丁寧な暮らしじゃなくていい。目の前に起こる出来事を楽しむことができれば、結論、それでいいんだと思う。
目の前の出来事をちゃんと味わうと決めてから、どんな映画を見るよりも、自分の目の前に広がる景色の方が綺麗だと思うようになった。朝起きた時にカーテンから差す陽の光。家の下の公園の木からこぼれ出る木漏れ日。仕事終わりに自転車を漕ぎながら見る河川敷の夕日。人の数が減った駅前から見える月の光。綺麗なものは日常の中にたくさん落ちていて、それを見つけられるかどうかはいつも自分次第だ。
そして、もし辛い出来事が起きてしまったときも、「これを乗り越えたらレベルアップできるんだろう」と前向きに捉えられるようになったし、どうやったら幸せになれるのかを考え、それを行動に移せるようにもなった。
難病になったことも自分にとって必要なことだったと捉えられるようになった気もする。以前までなら症状が悪化するたびに、「もう無理、死にたい」って死ぬ気もさらさらないのに、口走っていた。でも、今は「難病になってしまった」ではなく、「難病になった。じゃあどうすんのさ?」と考えるようにもなった。これまでずっと難病を生きづらさと考えていたんだけど、抱えていた生きづらさをうまく整理して、生きやすさへと昇華した方が、よっぽどかっこいいと思う。
そりゃもちろん苦しい時間もあるし、楽しい時間ばかりではないけれど、今をどうやって楽しむかを考えた方が幸せな時間は多くなる。幸せを求めればキリがないんだけど、それでも欲には勝てない。いつももっと幸せになりたいと思ってしまうし、楽しいことばかり追いかけてしまう。それって当たり前のことで、誰もが幸せな時間が多い方がいいと思っているはずだ。不幸になるために生まれてきた人間なんていないし、つい幸せばかりを追いかけてしまうのは自然なことだ。
今をもっと楽しむ。これまでそんな当たり前の事実を見落としている自分がいた。見落としてしまったものは仕方がないし、取り戻しようもない。今を楽しむのは今からでも全然遅くないし、20代のうちに気づけた自分はラッキーなのかもしれない。
「今」にたくさんのものを詰め込んで、酸いも甘いも嚙み分けたい。ふとしたときに過去を振り返っても、過去の気持ちに戻れる場合はあるけれど、過去には戻れない。だから、目の前で今起きている出来事をもっと楽しみたいと心から思う。
それでもやっぱり映画や小説、音楽は生活に欠かせない。映画や小説、誰かを想った歌。そいつには救われてばかりいるし、僕の生活にはなくてはならない存在だ。それに他の人が書いた歌や文章に泣いたり笑ったりしてしまうのは、今をちゃんと生きている証拠なんだろう。
とはいえ、人は両手分の幸せしか掴めない。たとえたくさんの幸せが目の前にあったところで、抱えきれない幸せは知らない間にこぼれ落ちてしまう。だから、両手分に詰め込んだ幸せをちゃんと味わいたい。そして、今という思い出をめいっぱい詰め込んだ花束を未来の自分に贈ろう。