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知っている人の役割

私は何かと発信することが多い。

noteしかり、Twitterしかり。

それは発信することが好きということもあるし、何より「自分がいいと思うものをより多くの人に届けることで、誰もが必要な時に必要な選択肢がとれる環境をつくりたい」という思いがあるから。

これは欲しいときに必要な選択肢がなかった過去と、欲しいときに救われた言葉を手に入れた過去があったから。


そういった一本の大きな軸がある中で、実はそれ以外にも発信を通じて実現したいことがある。

最近ある記事を読んでいて印象に残る、というか「自分の発信もこの視点だなぁ」と思う文章を見つけたので共有したい。

それが、

「知らないがゆえに発した言葉はそこに何ひとつ悪意がなくとも、ひどく人を傷つけることがある」

だ。

言葉というのは発することで知らず知らずのうちに誰かを傷つけている可能性がある。ここで難しいのが”加害者が加害者であるということを理解していないことが多い”ということ。

上記の言葉のように、何の悪意もなくただ思い思いに発した言葉が誰かの心を突き刺してしまっていることがあるのだ。

これってすごく残念なこと。その言葉によってダメージを受けている「被害者」はさることながら、そんなつもりはないのに誰かを傷つけてしまっている「望まぬ加害者」もすごくかわいそうだ。

じゃあ常に周りの顔色を伺って、安全に安全に言葉を選んでいけばいいかというとそれもいかがなものかと思う。もちろん配慮するという姿勢は必要なのだが、安全に安全に選んだ言葉は結局抽象的で、誰の心にも届かないことになりかねない。

言葉の塩梅、難しい。



世の中まだまだ知らないことだらけだ。

そして知らないがゆえに配慮が欠けてしまい、傷つけることがある。

全知全能になれたらそりゃ苦はしないが、そんなの現実的な話じゃない。知らないことがあったってしょうがない。

知らないことがあったってしょうがないのだが、それは「知らなくてもいい」とはイコールにならない

すごく微妙な違いなのだが、この感覚お分かりいただけるだろうか。改めて序列を確認してみたい。

ベストは全知全能であること。
それが難しいから「知らないことがあってもしょうがない」ということ。だから知っていることは多い方がいい。知っているから気づけるし、配慮できる。言葉選びが変わってくる。



じゃあどうやって「知ってる」を増やしていくのか。

もちろん自分自身から学ぶ姿勢は大切である。「知らない」の前提に立ち、日常で転がっている様々な情報を自らキャッチアップしていく。この姿勢は忘れたくない。

だけど他のアプローチもあると思う。それが、

「知っている人が伝えること」


だ。

「確かに」と思う人もいれば、「え、なんで?」と思う人もいるかもしれない。「え、なんで?」と思う姿勢は大切だ。そして「え、なんで?」と思ってもおかしくない。だって自分だけ知っていればいいじゃん、と思うから。わざわざ伝えるのも面倒くさいし、と思うから。

自分なりの「え、なんで?」に対するアンサーとしては、

”巡り巡って自分のためになるから”

とお答えしたい。

どういうことか。

冒頭で紹介した言葉を改めて確認したい。

「知らないがゆえに発した言葉はそこに何ひとつ悪意がなくとも、ひどく人を傷つけることがある」

自分はそうならないと思っているかもしれない。

でも私だったら自分にとって大事な人にもそうなってほしくないと思っている。自分にとっての大事な人が発した言葉が、知らず知らずのうちに他の誰かを傷つけていたらなんだか心苦しい。傷つけている可能性があるということに自分が気づいているならば、本当に大事な人だったら誠心誠意伝えるべきだと私は思っている。

それと同じく、その言葉が人を傷つけると知らないがゆえに第三者がその言葉を発し、その発せられた言葉によって自分の大事な人が傷つく可能性だってある。

自分にとって大事な人が傷つけられるのなんて絶対に嫌だ。

自分が知っていることを発することで、自分の大切な人を守ることにつながる。それが自分のためになる。

望まぬ加害者、被害者を生まないためにも、知っている人が伝えていくということは大事。これが私が発信しているもう一つの軸だ。



結局はお互い様。

知っている人が知っていることを伝えていく。知らない部分は自分で知る姿勢を忘れずに、かつ知っている人の声を拾っていく。

そうやって自分の中の「知らない」に気づき、「知りたい」と想い、「知っている」に変えていく。その姿勢を大切にしたい。そしてそのきっかけを与えられる人でありたい。



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塩浦良太
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