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発信出来る場があることにより、生まれる議論

Twitterに流れてきたある記事に目が止まった。

生まれつき骨が折れやすいという障害を抱え、車イスで生活をしている方が話の中心として書かれている。

「障害者と結婚するなんて、大変そう、、」という周囲の声を受ける中で、夫との関わりや苦悩などが本人の気持ちとともにありのままに綴られている。

ぜひ、ご一読していただきたい。
とても考えさせられる内容であった。

ただ私が今回この記事で取り上げたいことは、記事の内容に関してではない。

正直、「個人的な意見」であれば自由に書けるかもしれない。しかし専門家でもない私の意見よりも皆さん一人一人が読んで、そこでどう感じるかを大事にした方がいいと思っている。

今回取り上げたいのは、こういった「当事者の意見が発信される場がある」意義である。

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この上記の記事は、ハフポストで掲載されTwitterでも共有されており、私はTwitterで目にした。

実際のところ、記事が共有されているTwitterのコメント欄や引用ツイートの部分を見ると賛否両論の意見がある。

「共感できる」

といったようなコメントがある一方で、

「なんかモヤモヤする」

といったものもある。

もしかしたら賛否はわかれていない方が、明確でわかりやすいものなのかもしれない。しかし私は、賛否分わかれているからこそ様々な議論が生まれていると感じた。

そして様々な議論が生まれるからこそ自分の頭で、自分だったらその問題をどう考えるか、という「考える習慣」がつくのではと考える。

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当事者の発信 = 一次情報


の大切さを、私は大学の授業で実感してきた。

福島第一原発の事故から避難されてきた方のお話を聞き、立場や状況によって抱えている思いや苦悩、未来への展望は違う。もっと言えば、一人一人で置かれている状況は違う。

だけどメディアの良さでもあり注意しないといけないのは、「わかりやすさ」を追求してしまうところ。

目の前の情報で視聴者が理解できるように、あたかも同じ状況にある人は同じような思いを抱えていますよ、という捉え方によってはラベリングになってしまうこともある。

そして視聴者としては、わざわざ一次情報を手に入れることは大変だし、自分で調べようと思う人もなかなかいない。

だからメディアで取り上げられている、すでにわかりやすくなるように調理されている情報を、「そうなんだ」と受け入れてしまうと思っている。しかもそれが正しいと思っているから、なかなか自分の頭で考えよう、という気にはならないのが普通だ。

それによって問題の本質と、正しいと思っている情報に齟齬が生まれるケースがあるのではないかと感じる。


今回、一つの記事として当事者の意見が発信された。そしてその記事に対して、いろいろな方がコメントをされている。

この一連全てに意義があると考える。

まず記事が発信されることで、これまでは「〇〇とはこういうものだ」という、一種の"決めつけ"がされていたなかで、実際にその"決めつけ"に悩んでいる方がいるという事実を知ることが出来る。

その一方で、その記事に違和感を覚え、別の視点からコメントをする方もいる。

今までなら蓋をされて見えてこなかった部分が、発信の場があることにより浮かび上がってくる。

そして受け取る側としても、ただ受け取るのではなくて、自分の頭で考えて自分なりの考えを持つことが求められてくる。

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確かに、「誰でも発信できる」ということ自体にそもそも賛否がわかれる部分もある。

そこは一人一人が考えていかなければならない部分ではある。

だけど「誰でも発信できる」からこそ、今まで見えてこなかった部分も見えてくる。声を挙げやすくなってる部分もある。

情報量の多さは時に人を悩ませるが、情報が少ないことで勘違いや齟齬が生まれるくらいであれば多いにこしたことはない。

そしてますます便利になり「正解」が簡単に手に入る世界になりそうな中で、自ら考える必要がある、議論が生まれるような場所は大切になってくると私は考える。



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