文章って、「料理」な気がする
文章って、「料理」なんだろうな。
そんなことをふと思った。
「どんなことをふと思ってんねん!」という感じだが、ふと思ったんだからしょうがない。
料理というのは、基本的に材料と材料の組み合わせによってつくられるものだ。カレーライスにはルーがあって、ジャガイモがあって、ニンジンがあって。お味噌汁にはワカメが入っていたり、豆腐が入っていたり、人によって中身は違う。
材料に関しても、ただ組み合わさればいいわけじゃない。いい素材であればあるほど、料理の質も高くなる。外国産のお肉より国産肉の方が美味しかったり、獲れて少し経った魚より新鮮な魚が美味しかったり。
でも、じゃあいい素材が集まれば料理も絶対美味しくなるかというと決してそんなことはなくて。素材同士の相性によっては、お互いを活かしあうものもあれば、お互い主張が激しくてお互いを打ち消し合うものだってある。
また料理には「調理工程」というものがある。何を入れて、何を焼いて、約順番は〇〇からで、、、みたいな。ここの順番も少し違うだけで全く違う料理になる。だから調理本というものが存在するのだ。
ここまで料理の話をしすぎた(笑)本題に入って。
文章をつくることも料理と一緒だと思うんだ。
文章というのは複数の単語によって構成されている。
単語の中には熟語もあれば、人名もあって、助詞助動詞もある。そういった複数の単語の組み合わせによって1つの文章が成立する。つまり単語が「材料」「素材」で、それによって完成された文章が「料理」というわけ。
単語の中にも素材の違いはある。意味は同じだけ言い方が違う言葉とか、日本語と英語とか。料理とちょっと違うのは何がいい素材かどうかはわからないこと。場面によって素材の持ち味は変わってくるから。
ただ料理と一緒なのは、単語にも相性はあるし、順番はあるということ。
単語をたくさん並べても繋がりがわからなかったり意味がない。順番があやふやだと、結局何を伝えたいのか分からなくなることだってある。体言止めや倒置法のように、あえて順番を変える、みたいなパターンもあるが。
料理も文章も、いい素材があれば良いというわけじゃないし、素材をたくさん集めればいいというわけでもない。
それぞれの素材が持つ意味を考えながら、素材同士の相性を考えながら、順番も考えながら調理・作成していく。そうすることによって、美味しい料理が出来るし、伝わる文章がつくられる。
まさに、文章って「料理」だ。