「”準備魔”であること」とその使い分け
先日、共感できる記事を見つけた。
まずタイトルから惹かれて、内容も読んでみたら惹かれて。
「自分がいる世界で成功されていることだけがすべてじゃない」
「信じる神様を変えたんです。」
「私、とにかく「失敗上等」の精神なんです。」
そのどれもが「確かに」「なるほど」そういった声が漏れるくらい、そしておこがましいが自分のこれまでと重ね合わせられるくらい納得して読んでいた。
しかし、一か所”引っかかったところ”があった。
私、自分に期待していないんですよ。
「まぁ自分はこんなもんだろうな」って。
という部分。
私はむしろ逆だった。
自分自身に期待して、「自分なら出来る」「今は出来なくても出来るようになる」そう言い聞かせて、それを実現できるように行動していた。
「あ、この部分は違うんだ」
そう思い、読み進めていると次のように書かれていた。
自分に期待していなければ、失敗なんて気にならないはずですよね。でも自分に期待してないからこそすごい準備魔にもなれるんです。
なるほどな、と。考えていることは似ていた。
この記事でインタビューを受けている乃木坂46の山崎怜奈さんは、「自分に期待していないからこそ、一生懸命準備をして臨む」、つまり自分の才能を過信しないということだと思う。
自分の場合は、「自分に期待しているからこそ、自分の期待に応えるためにも徹底的に準備して臨む」、つまり自分の期待を裏切らないためのアプローチということだ。
入りの部分では違いはあったが、「準備魔」であるという部分では一緒だった。
こうやって最初の入りに「違い」があっても、結局たどり着くゴールは同じこともあるので面白いなと思うと同時に、最後まで文章を読むことの大事さを感じる。
・・・
「準備魔」に話を戻す。
準備は自分にとって、ある種の「精神安定剤」だった。そう考えるようになったのはいつからだろうか。気づいた頃からその癖がついていた。それは今も変わりはない。
”今”の自分には自信がないから準備をする。
後で「もっとこうしておけばよかった」と後悔しなくていいように、準備する。
準備をしっかりするって、結構周りから浮くことがある。
小さい頃は特にそうだった。
その思いは、
この記事にも書いてあるが、いかに楽してこなすか(実はその考えも重要だと気づいたのは最近の話)、ダルそうにやるのがカッコいい、そんな風潮の中で心配性の自分はひたすらに準備をしていた。
小さい頃にその習慣がついたのは、過去の自分に感謝している。
準備の重要性は年々身をもって痛感している。
・・・
これからの自分に対して。
いくら”準備が大事”だからと言ったって、そのせいで1歩目の反応が遅くなることだけはしたくない。
完璧を求めすぎて、気づいた頃にはその流れが過ぎていた、ということほどもったいないことはない。
だから準備をしすぎてもいけない場面もある。
そこの嗅覚。どう嗅ぎ分けるか。
もう場数、多く打席に立つしかない。
打席に立って、傾向を掴む。それに尽きる。
これからも”準備魔”でありつつ、使い分けにもこだわるということを大事にしたい。