見出し画像

立場が変われば「当たり前」も変わるのは当たり前

最近「正論」について記事にした。

正義とか正論とか、それらと似た感じでむしろより身近で聞くことが多い言葉「当たり前」。「当たり前」もまた難しい。

昨日こんなツイートをした。

ツイートをするにあたって「当たり前」ってなんだろう?と考えながらたどりついた1つの答え。我ながらしっくりきた答えでもある。

「相手の立場になって考えることが出来ます!」

就活とか個人の強みなどをアピールするときに耳にすることがあるこの言葉。そりゃ相手の立場に立てた方がいいけれど、ずっとこの言葉の言語化が出来なくてあまり自分の強みとして言うことは出来なかった。

『わかりあえないことから』平田オリザ著

大学時代、社会学の講義で初めて読んだ新書。それに触れた時、上記の言葉に衝撃を受けた。

「あ、わからないものを分かった気になるんじゃなくて、『わからないことがある』という前提に立つということが大事なんだ!」

そこから考え方が一気に変わった気がする。

話は戻って。「相手の立場に立てる」とはなんなのか。
上記の本に出会っていない私だったら、その言葉になんら違和感は覚えなかっただろう。「すごいですね!」ってなってただろう。

でも今の自分は、「どうすれば相手の立場に立てるんだろう?」とそっちの方が気になってしまう。


そうやって考えた上でたどりついたのが冒頭のツイート。

「当たり前」は人の数ほどある、ということ。

「うわ、安全策に逃げたな」と思われてもしかと受け止めたい。でも事実として本当にそうだと思っている。

立場が変われば「当たり前」も変わる。
そうじゃないだろうか。

プロ野球選手は野球の専門家である。したがってプロ野球選手にとっては野球のルールなんて「当たり前」だ。それをプロサッカー選手に伝えてもきっとサッカー選手の頭の上は?マークが並べるだろう。

これは逆も然り。

でもこれに対して例えばプロ野球選手がプロサッカー選手に対して、

「え、なんでこんなのも知らないの?「当たり前」でしょ?」

と言ってきたらサッカー選手はどう思うだろう。「いや、私にとっては当たり前じゃないよ」と思うだろう。そういうことだ。

わかりやすく説明したいがために、大胆な例となってしまった。

だけどこれと似たことを、我々はより身近な日常という舞台でしてしまっていないだろうか。

親が子どもだった頃の育ってきた環境と、今の子どもが育っている環境では「当たり前」が違う。だから当時の常識が同じように今当てはまるとは限らない。

裕福な家庭とそこまで裕福ではない家庭でもきっと「当たり前」は違う。

「当たり前」は世の中にたった一つだと誰かが決めたわけではないのに、まるで自分の中の「当たり前」が世の中のモノサシであるかのようにそのモノサシで相手を測ってしまっていることはないだろうか。
こっちは一生懸命伝えているのに、理解してくれない相手が悪いんだ、と思ってしまっていないだろうか。

これは私自身も、自分の胸に手を置きながら、問いかけながら文章を打っている。

何も相手の当たり前を理解しろ、と言っているわけではない。むしろ理解までするのは難しいと思っている。それこそ「わかりあえないことから」だ。でも想像は出来る。相手には相手の「当たり前」があると。それが想像できればきっと選ぶ言葉も変わってくる。それを繰り返していく中で、相手とチューニングを合わせていけばいいんじゃないか、って思う。


まずは自分の当たり前が世の中全員にとっての当たり前だとは思わないこと。置かれている環境、出会ってきた人、今いる立場等々、あらゆる条件によって「当たり前」は変わってくる。

加えて「自分は相手のことを100%理解出来ている」とは思わないこと。相手の100%は相手しか知らない。なんなら相手だって知らないかもしれない。わかった「つもり」になって勝手に解釈して話を進めないこと。知らず知らずのうちに齟齬が生まれかねない。

そして今から出来ること。
それは相手の立場などを把握したうえで、「じゃあそんな相手にとっての当たり前ってなんだろうか」と想像すること。考えた上で言葉選びをしていくこと。その上でちゃんと伝わったか確認をすること。この確認までがセット。


今回の記事は他でもない自分自身に向けて書いている。

「自分の思いが上手く伝わらないな」と思った時に帰ってくる場所として。

立場が変われば「当たり前」が変わってくるのは当たり前、ということを念頭に置いていきたい。

いいなと思ったら応援しよう!

塩浦良太
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!

この記事が参加している募集