「言語化」の言語化をして感じた変化
言語化言語化って言われて久しくなった。
私自身も大学時代に入ってから「言語化」に惹かれ、
「言語化」を得意にしようと努力し、
今ではすっかり「言語化」が好きになった。
いやでもちょっと待てよ。
そもそも「言語化」ってどういう意味なんだろう?
また哲学チックな悩みに入った。
辞書的な意味で言うと、
なるほどなるほど、、、でもどこか抽象的ではないか?
「言語化する力が大切」と言われながらも、
私たちはゴールも定めきれないまま、
力をつけようとしているんじゃないかと思った。
いわば「言語化」の言語化がされていないという。
とんだ特大ブーメラン。
でもそれはつまり、
いかに自分なりに定義できるかという意味合いにもなってくる。
きっとこれに正解ってなくて。
「あなたが身につけたい言語化はどんな力ですか?」
という、いわば言語化の登竜門みたいな試練なのかもしれない。
どうして今回この記事を書いているのか。
それは私なりに「言語化」の言語化内容が変わってきたのだ。
従来の言語化に対するイメージは、
例えば「感情」とか、例えば「しっかり」や「ちょっと」のような抽象的な言葉とか、例えば「努力」のような単語としては有名だけど定義は不明瞭な言葉とか。
そういった抽象的な子たちを、自分の言葉で具体的に表現できるようになること、それが自分にとっての言語化する力だった。
もちろんそこの部分の言語化力は引き続きつけたい部分ではある。
だけど最近は、それだけじゃないんじゃないかなって思うようになった。
今自分が思う言語化力は、
な気がしている。そこに難しさはいらなくて、場合によっては簡単な方がよくて。
前者との違いって、「ベクトルの向き先」なのかなって個人的に思う。
前者はどちらかというと、
いかに自分が言語化できるか、という自分に対してのベクトル。
一方で後者は、
いかに相手に伝わるように言語化できるか、という相手に対してのベクトル。
前者は自分が詳しく説明できるようになってればよくて、
後者は自分だけが理解している状態じゃ不十分で。
そうなってくると後者に必要になってくるのは単に「深掘りをする力」だけじゃなくて、別のものに言い換える「転用力」も欠かせない。
いかに相手の土俵で語れるか。みたいな。
どうしてこういった思考の転換になったかっていうと、やっぱり「働く」ということの影響は大きい気がする。
正直大学までの自分は、前者の自分にベクトルが向いた言語化にこだわっていたと思う。だって自己分析や自分のことをプレゼンするみたいな、「自分の深掘り」がメインだったから。
でも働くようになって伝えるべき相手、深掘りをする相手の影響範囲が広がった。
例えば就労支援を利用しているご利用者様。
例えば就職活動中の学生。
例えば自分たちの発信を受け取る一般聴衆。
一方的な「伝える」じゃ仕事として不十分で、
相手にどれだけ「伝わる」かが求められてくる。
そうなってくると自分の土俵だけで戦うのじゃ間に合わなくて、
いかに相手の土俵に立てるか、もっと言えば相手の土俵に立ったうえで自分の最高のパフォーマンスを披露できるかが求められてくるんだと思う。
「自分を知る」を目的とした言語化から、
「相手に伝わる」を目的とした言語化へ。
ちゃんと自分も少しずつ大人になっている感じがしてよかった。(笑)