サンタクロースの謎 読書日記vol.64
おはようございます!読書日記vol.64
「サンタクロースの謎」ということで
まだまだ暑さの続く季節ですが、サンタクロースについて書いていきます。
小さい頃はサンタさんからのプレゼントを楽しみに、
「サンタさんへの手紙」とか書いてた気がします。
また、「サンタさんからのプレゼント」をクリスマス前に
家の押し入れから発見してしまったこともあります笑
子供に渡すクリスマスプレゼントは
何故「親からのプレゼント」という形ではなく、
「サンタさんからのプレゼント」という形をとるのか?
また、世界中でその風習が根付いているのは何故なのか?
あまり考えたことなかったですが、不思議です。
そのような内容を書いていきます。
今回も「世界は贈与でできている」から抜粋・読書感想です。
前回までの記事はこちら(vol.57~)
名乗らない贈与者・サンタクロース
前回までの内容まとめ
贈与者は名乗ってはならない、
贈与は手渡す瞬間には気づかれてはならない。
名乗ってしまったら、返礼が可能になり交換に終わってしまう。
あるいは返礼が出来ない場合、呪いにかかり、自由を奪われてしまう。
前述のように「交換」や「呪い」を生まないようにするには
贈与者は名乗ってはいけない。。
このルールの条件を満たす、特別な存在。
それが「サンタクロース」です!
ぼくらは市場経済という交換の論理の真っただ中で、
贈与を成立させるためにサンタクロースを発明しました。
よくあるサンタさんのイメージは、
「コカ・コーラ」がPRのために作ったものとされています。
(諸説あり。以下、Wikipediaより引用)
「サンタクロースが赤い服を着ているのはコカ・コーラの広告によるものである」
というデマが出回っているが、これは誤りではないが誇張がある。
この噂を流したのは自分達の影響力を誇示したい
コカ・コーラ社とメディア、広告業界であると言われている。
米国コカ・コーラの広告にサンタクロースが初めて採用されたのは1931年。____18世紀以前の書籍の中には
「緑の衣服を着ているサンタクロース」や
「灰色のキリスト教伝播以前の精霊がなまはげのようにふるまう姿」
が視認でき、
少なくともコカコーラの広告が「サンタクロースの衣装を赤色」に標準化することに大きな影響力を持ち、
それが非キリスト教圏にも当然及ぶコカコーラの事業対象国に浸透した、
という解釈はあながち妙なものではない。
結果として
「アメリカやヨーロッパにおいても19世紀には既に赤い服を着たサンタクロースが主流だが統一はされていなかった。」
「ただしサンタクロースのモデルはシンタクラースであるが、シンタクラースは赤い衣装を身に着けていた。」
等と考えることができる。
国によっては、緑のサンタさんや、黒いサンタ、サーフィンするサンタ、
などいるそうです・・・!
サンタさんのモデルは「ミラ」という場所の「ニコラウス」という司教だという説が有力だそうです。
ニコラウスの残した逸話から
「夜中に家に入り込み、靴下の中にプレゼントを入れる」という現在のサンタクロースの風習が生まれた、とされています。
ニコラウスはオランダ語で「シンタクラース」というそうで、シンタクラースが広まっていく中で「サンタクロース」になったと言われているそうです。
著者は
____「遠い北の国からやってくる優しいサンタクロース」
というファンタジーは、資本主義が生み出した現代の神話なのです。
といいます。
なぜ、「サンタクロース」は世界中でここまで機能しているのか?
「サンタクロース」は世界中にいますよね。
前述のように、「資本主義が生み出した現代の神話」が世界中できちんと機能を続けています。
なぜか?
この答えは「贈与の仕組み」にある、と著者はいいます。
____サンタクロースという装置によって、
「これは親からの贈与だ」というメッセージが消去されるからです。
____贈与を差し出し、名乗ることなく、
すぐにその場を立ち去る差出人。
それは、返礼を不可能にするためだったのです。
だから贈与が次の受取人へとふたたび流れていくことが可能なのです。
この「サンタクロース」という名の「装置」によって、
親から子供への、見返りを求めない「純粋な贈与」が成立します。
親は「サンタは実は自分たちだ」ということを隠しますよね。
子供はいずれは「サンタは実は親だった・・・!」ということに気が付きますが、
そこには時間差があります。
その結果、子供は親に対して「負い目」を持つことがありません。
「親がサンタだった・・・!」と気づいたときには既に贈与は完了しているというわけだそうです・・!
このように「負い目」を感じる時間をスキップし、
次の受取人への贈与のフローをつくる「装置」として
「サンタクロース」は現在も世界中で機能しています。
親は名乗ることを禁じられているがゆえに
「これが私たちからのプレゼントだったといつか気づいてくれるといいな」という地点に踏みとどまることができます。
____贈与は差出人に「届いてくれるといいな」という節度を要求するのです。
贈与の呪いの正体は、その節度の無さ、祈りの不在だったのです。
贈与は届かないかもしれない。
贈与は本質的に偶然で、不合理なものだ___。
そう思えることが差出人に必要な資質なのです。
贈与者が名乗り、計らずしも受取人に「負い目」を与え「返礼」を求める「交換の論理」(市場経済)だと
その贈与(もはや贈与ではなく交換)は「届いて当たり前」となります。
純粋な贈与は「届いてくれるといいな」という「祈り」を込めたものであり
きちんと届くかどうかは受取人次第とも言えます。
受取人が返礼が不可能な場合に「負い目」に押しつぶされてしまうことを「贈与の呪い」と著者は言いますが、
この「呪い」には「祈り」がない。。
「贈与」だと言い張りながら「交換」を要求している状況だと言います。
(贈与の呪いについてはこちら↓)
世界は「贈与」で溢れている
贈与は本質的に偶然で不合理なもの。届くかどうかはわからない。
贈与者は「届いてくれるといいな」という「祈り」を持って贈与を贈ります。
贈与はそれが贈与である限り、
「私はすでに受け取っていたのだ」
「受け取り続けていた」
という気付きを必要とします。
____つまり、贈与は差出人の意図によって規定されるのではなく、
受取人に開かれている。
だとするならば、受取人が現れさえすれば、あらゆるものが贈与になります。
_____だから、そこには想像力が要請されます。
「贈与」は受取人が「受け取っていた」と気づくことで初めて「贈与」となり得る。
受取人の想像力次第、物事の捉え方次第で
一見すると不合理に思える事柄が「贈与」へと変わり、それに気づいた人がさらなる贈与を生み出すことができる。。
深いです。。
でも、世界や今の自分の生活、環境も
過去の誰かしらの「贈与」によって成り立っている。過去の贈与者の「祈り」に気づき、
返礼をしようという「負い目」(感謝)を持てた人だけが、
また未来に向けて「届くかはわからないけど、届くといいな」という祈りを込めた贈与を贈ることができる。。
著書のタイトルにもあるように「世界は贈与でできている」のですね・・・!
先人達の「見返りを求めない純粋な贈与」の積み重ねによって
今の世界はあるし、そうやって人間は進歩してきたんだな、ということを教えてくれます。
本書では、このあと
5章 僕らは言語ゲームを生きている
6章 「常識を疑え」を疑え
7章 世界と出会いなおすための「逸脱的思考」
8章 アンサング・ヒーローが支える日常
9章 贈与のメッセンジャー
と更に深堀していく内容が読みやすく面白く書いてあります!
興味の沸いた方は是非一読をおススメします!
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