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眠れない夜に沈む、物語を。
波にさらわれるように
いつもなら意識が遠のいていくのに
あかりを落とした部屋の中
時計の秒針の音だけが響く、夜
待っていても訪れない眠りを諦め
一冊の本を手に取る
黒のカバーには金色の満月が浮かび
星が輝いている
ベッドの上に座る彼女も
きっと眠れないのだろう
膝の上で本が開かれている
今のわたしのために
誂えられたかのような物語
なにしろ題名が
「眠れない夜のために」なのだから
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目次を開けば
十の夜が並んでいる
『空洞』と題された第一夜の闇に
身を沈める
昼の光の中では忘れていられるのに
しんとした夜の中に佇んでいると
自分の中身は虚ろで
紡ぐべきことばなど
本当は何も無いのでは
ふと、そんな不安に駆られてしまう
生活には空っぽが散らばっている。隙間の目立ってきたクッキー缶から顔をあげ、窓を見る。林立する高層ビルやマンションの窓が数えきれないくらいある。あの中だって空洞だ。無数の空洞が浮かぶ夜。
第一夜 空洞より
その空洞を一体何で埋めれば良いのだろう
深夜にクッキー缶を空にした彼女は
それを埋めるものを見つけたけれど
わたしはまだ見つけられない
ページをめくるたびに
夜は色合いを変えていく
それは黒だけではない
濃紺
鈍色
瑠璃
青褐
裏色
移りゆく色を感じながら
物語に寄り添う絵を見つめる
灯のように光る柿の実
その木の下で眠るひと
日記帖の上で舞う蝶と
三日月の下で回り続ける回転木馬
真夜中の遊園地では
華やかな歓声が踊り
降り注ぐ雨粒からは
哀しみや喜びが響く
夜の闇は優しい
見たくないものも
聞きたくないものも
全てを蔽い隠してくれる
そう思っていたけれど
月の光が透き通った眼差しで
すべてを照らし出した
旅人がいなくなっても、目にしたものは消えない。もう繡しい夜は戻ってこない。針と糸を手に取っても、わたしは世界を描けない。ここではないどこかの痛みを知ってしまったから。今もどこかで誰かが痛みにさらされているだろうから。
闇に目を凝らす。魔法の板はないけれど、夜は無数の痛みをよみがえらせる。
夜にあるのは、見えない恐ろしさではなく、見ようとしてしまう恐ろしさ。
漆黒の布に
不可視の刺繍糸を
ひと針ひと針
さしていく
描かれるのは
目を背け続けていた
誰かの
そして
自分の傷痕
痛みの深さをはかるようにして
てのひらを当てると
紅の糸がひとすじ垂れてくる
まばたきをすると
色を変じて、それは
金色の花布から下がる
濃紺のスピンとなる
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カバーを取り去った本の
この色の取り合せを
どこかで目にした
そう思う瞬間に意識が揺らぐ
耳元で
波の下にも都の候ぞ
という声が聞こえた
海に立つ朱い鳥居
その社に蔵められている
金字紺紙法華経
深い紺色の料紙に書かれた
金泥の文字
指でなぞると
さらさらと文字が崩れ
光を纏う粒子となり
舞い上がっていく
その行方を目で追うと
雲母摺りのような
満点の星が瞬いていた
知らぬ間に眠りに落ち
刹那の夢の中で
わたしだけが読んだ第十一夜
その夜を透明なページとして
物語の末尾に添えてみる
外が明るみ始めた気配を感じ
本を置き
窓を開け放つ
刻一刻と空は色を変え
やがて世界が
やわらかな光で包まれていく
朝焼けの眩しさも
深夜の闇の深さも
無くてはならないもの
鮮やかな対比によって
過ぎゆく日々は彩られる
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