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遠くまで行くために、辞書をふたたび手に取る日

雨の季節が始まりを迎え、「もう今年も半分が終わるなんて、はやいなぁ」と思いながら来月のスケジュールを確認すると、自分の誕生日が目に入りました。

ここ数年は自分自身へ誕生日プレゼントを贈るのが習慣になっていて(といっても、ほぼ毎年"本"だったりします)、今年は何にしようかと考えていると、"国語辞書"という案がうかびました。

学生の頃は、授業中に使うのはもちろんのこと、読書が趣味だったこともあり、日常生活のなかでもわからないことばがあれば、よく辞書をひいていました。

ところがここ数年は、スマートフォンでなんでもすぐに調べられるようになったこと、引越しの際に辞書を手放してしまったこと(今考えると、軽率だったと悔やんでいます)もあり、すっかり辞書をひく習慣が無くなってしまったのです。

自分の感覚だけをたよりに文章を書いているのが現状で、ふとしたときに、ことばや漢字のつかい方がこれで合っているのかなぁ、と不安になることもしばしば。
書くことに慣れてはきましたが、自分自身の思いや考えを表すのにしっくりくることばが見つけられず、手を止めることもいまだに多いです。

ふりかえれば、一番辞書に親しんでいたのは、10年ほど前に、「源氏物語」を原文で読み進めていたときです。
与謝野晶子の訳文で通読していたのですが、紫式部そのひと自身が、どのようなことばで物語を綴ったのか知りたくて、原文を読むことにしました。

手に取ったのは、必要最低限の注釈のみが添えられた岩波文庫版。
はじめは古語辞典で一語一語を調べながら、ゆっくりと時間をかけて読み進めていきました。
物語が進むにつれて、あちこちに開きぐせがつき、くたくたになっていった辞典の姿を今でも覚えています。
そして、宇治十帖にさしかかるころになると、辞典を開くこともなく、また、頭の中で品詞分解も現代語に訳すこともせずに読んでいけるようになったのです。

原文をそのままのかたちで受け容れられるようになったとき、初めて補助輪を外して自転車を漕ぐことができた瞬間の身体感覚を思い出しました。

また、樋口一葉や泉鏡花の作品を、読み通してもすべてが理解できなかったり、途中で読むのをやめてしまったりしていたのですが、「源氏物語」を原文で読んだあとにそれらの作品にあらためて接すると、すうっと文章が頭に入ってくるようになり、おどろきを感じました。

そのとき、今、わたしたちのつかっていることばが、先人達が積み重ねてきた言葉の歴史のうえに成り立っていることが、自然と理解できたのです。

わたしがnoteで書いているのは、強い風が吹けば飛んでいってしまうようなとりとめのない散文ではあるけれど、せっかくならば自分が納得できることばで表現をしていきたい。
絵を描きはじめたころは12色の色えんぴつで満足できたのに、時間がたつにつれてよりこまやかな表現を求めるようになって、青色と水色のあいだの色を探すような…そんな気持ちをもちはじめているのかもしれません。

辞書とともに、"文章を書く"という道を進めば、今まで見えなかった光景が視えるようになって、もっと遠くまで行けるのかもしれない。
そんなふうに思いながら、どの辞書にするか考える時間も楽しいひとときです。


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