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ことばが育む心の器と、重ねていく歳月を思うこと。
書きたい、という気持ちが芽生え、noteの下書きの画面を開きました。
真っ白な画面に、ひとつずつ文字が現れ、文章になっていくのを目で追っていると、不思議な気持ちになったのです。
そのときわたしは、美術館の展示室で、日本画と向き合っていたときのことを、書き綴ろうとしていました。
岩絵具の粒子が放つ眩さに魅せられて、その微細な煌めきを脳裏に焼き付けようとして、しばらくの間、絵の前から動けなかったこと。
それは今を生きる画家の眼に映った光景であるはずなのに、この世の外の色を帯びていると、感じられたこと。
美しいと思ったのです、と画面上に表示された文字を見て、あの時の感覚が…、というよりも、自分のこころの水面で揺れ動いていた波紋が、美しいということばで表されていることを、不思議に感じます。
"わたしは、あのとき、美しいということばを、思い浮かべていたのだろうか"
ただ目に映しただけに過ぎないのに、絵が放つ光の冷たさを肌に感じたあの瞬間を、"美しいと思った"という感想にすると、その途端にこぼれ落ちてしまうものがあるように思えるのです。
目にしたものを、記憶に留めたくて。
湧きあがる気持ちを、忘れたくなくて。
自分のことばの泉の奥底から、呼応するものをひとつひとつ掬い上げ、積み重ねていきながら、積み重ねるほどに、指の間からすり抜けていく思いがあるような感覚にとらわれます。
それでもことばにすることをやめられないのは、こぼれ落ちていくもの、すり抜けていくものにこそ、わたしの本質が宿っているからなのかもしれない。
画面を閉じて、「読書からはじまる」と題された本を手に取りながら、そう思いました。
本とことばへの真摯な思いに満ちた文章を、ここのところ、頻りに読み返しています。
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本の中に刻まれていることばは、情報や意味だけを伝達するものではありません。そのことばが持つ、温度や色、質感、重み、香り、音、風景、纏っている雰囲気や佇まいが、ひとの心のありようと、世界のかたちを描き出していきます。
そして、描かれるものは、無数の"分からなさ"を、内包している。
分からない、ということは、悪いこと、と捉えられがちです。ことばにするというのは、輪郭線をくっきりと引き、見えないものを明確にすることだと考えられてもいます。
けれども、白と黒の間には数えきれない色が存在するように、ひとの心のありようは、揺らぎ、滲み、掠れ、確かな輪郭をもたず、常に移ろい、変化し続けていて、自分自身にとっても、それは"分からない"ものなのではないでしょうか。
自分ではなかなか気づかない。実際にある言葉を口にして、その言葉で何かを言い表そうとして、どうしてもその言葉で言い表せない。あるいはその言葉で言い切れない、その言葉の外に余ってしまうものがあると感じる。その感じをくぐるうちに、自分の心のなかにある問題を発見する。
"7 読書する生き物"より
ことばを尽くすことは、問いを重ねること。
自分自身の内奥と照らし合わせて、ことばにして、それでも言い切れないものについて思いを巡らしていく。その繰り返しが自分の心に年輪を刻んでいきます。
見つめるものは、何であってもかまわない。ただ何を見つめようと、まずそこにある言葉に心を向ける。そこから言葉のありように対する感受性を研いでいくようにすることを怠らなければ、目の前にある状況というのは、きっとまったく違って見えてきます。そうした経験の重なりから、言葉との付き合い方、係わりあいを通して、人間の器量というのはゆっくりとかたちづくられてゆくのだろうと思うのです。
日々の暮らしの中で、わたしたちの周りには無数のことばが溢れていますが、それらに対して、どれくらい深い眼差しを向けることができているのでしょうか。
鋳型にはめられたようなことばを、何も考えずただ使うだけでは、自身の心も、その心が映し出す世界も、精彩を欠いていくばかりです。
ことばは単なるコミュニケーションの道具ではなく、ひとの心の本質と、分かち難く結びついているものだから。
だからわたしは、分からない、届かない、と思いながらも、目を逸らすことなく、ことばと、ことばにした瞬間に、こぼれ落ちてしまうものに、向き合っていきたい。
それは一見、困難である行いにも思えますが、そうではありません。かたわらにはいつも、本があるからです。
読書というのは、実を言うと、本を読むということではありません。読書というのは、みずから言葉と付き合うということです。
読書を通して深められていくことばとの関係性が、心のの器に透明な水を注ぎ込む。
その水面の輝きと、水の豊かさにあわせてかたちを変えていく器が、わたしという人間の心のありようを、静かに育んでいく。
十年、二十年先。それからその先に、わたしの中にある器は、今とは全く異なるものになっているのでしょう。
ことばとの付き合いを通して、磨かれ、よりなめらかになっていくその手ざわりと、水面が照り返す光のかけらを慈しみながら、これからの歳月を重ねていきたいと、思うのです。
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