古典100選(73)発心集

今日は、第16回の『方丈記』、第34回の『無名抄』で作者として登場した鴨長明の3度目の登場である。

鴨長明は、1212年頃に『発心集』(ほっしんしゅう)も書いていた。

では、原文を読んでみよう。

①(仙命上人は)おほかた人の乞ふ物、さらに一つ惜しむことなかりけり。
②板敷(いたじき)の板を欲しがる人のありければ、我が房の板を二三枚放して取らせたりける間に、東塔の鎌倉に住む覚尊上人(かくそんしょうにん)、得意にて、夜暗き時来たりけるが、板敷の板のなきことを知らずして落ち入る間に、「あな、悲し」と言ひけるを聞きて、「御房は不覚の人かな。もし、さてやがて死なむこともかたかるべき身かは。『あな、悲し』といふ終りの言やはあるべき。『南無阿弥陀仏』とこそ申さめ」なんど言ひける。
③この仙命上人、かの覚尊が住む鎌倉へ行きたりけるに、とみのことありて客人(=仙命上人)を置きながらきと外へ行くとて急ぎ出づる人(=覚尊上人)の、さらに内へ返り入つて、やや久しく物をしたためければ、あやしうて、出でて後、跡を見給ふに、よろづの物にことごとく封を付けたり。
④この聖(=仙命上人)、思ふやう、「いと心悪きしわざかな。よもありきの度(たび)にかくしもしたためじ。我を疑ふ心にこそ。はや帰れかし。このことを恥ぢしめむ」と言ふ。
⑤かく思ひたるほどに、帰り来たれり。
⑥思ひまうけたることなれば、見付くるや遅しと、このことを言ふ。
⑦覚尊の言はく、「常にかくしたたむるにあらず。また、人の物を取るを惜しむにもあらず。されども、御房のおはすれば、かく取り収め侍るなり。そのゆゑは、もしこれらいささかも失せたることあらば、凡夫(ぼんぶ)なれば、おのづから御房を疑ひ奉る心のあらんことの、いみじう罪障(ざいしょう)ありぬべくおぼえて、我が心の疑はしさになむ。なにばかりの物をかは、惜しみ侍らん」とぞ言ひける。
⑧かくて、鎌倉の聖(=覚尊上人)、先に隠れぬと聞きて、「必ず往生しぬらむ。物に封付けしほどの心の匠なれば」とぞ、仙命上人は言ひけれ。

以上である。

仙命上人(せんみょうしょうにん)と覚尊上人のお話である。

仙命上人は、①②の文にもあるように、誰かが板を欲しがったら、自分の家の板敷きの板をあげるほど、他人への施しを惜しまなかった。

だから、覚尊上人の家に行ったとき、覚尊上人が急用で外出することになって、仙命上人に留守番させることになった際に、覚尊上人は家にあるものすべてに盗難防止のための目印を付けた(例えば、現代風に言うならナンバリングの付箋を貼る等)。

それを仙命上人は目前でやられていい気持ちはしなかったと思うのだが、覚尊上人の考えを上記の文章から読み取ると、いつも外出時にそれをやっているわけではなく、万が一物がなくなっていたときに自分自身が仙命上人を疑うことのないようにそうしたのである。

⑦の文にもあるとおり、「・・・我が心の疑はしさになむ。なにばかりの物をかは、惜しみ侍らん」と言っているのは、物が惜しくてそうしているのではなく、私があなたを疑ってしまうかもしれないからだという思いがあったからである。

なるほど興味深い考えである。


いいなと思ったら応援しよう!