【続編】歴史をたどるー小国の宿命(96)
森鷗外が陸軍軍医として任官された1881年は、明治天皇が「国会開設の詔」を発出した年でもある。
今の議院内閣制の基礎が、このとき作られたのである。
明治天皇の国会開設の詔を受けて、土佐藩出身の板垣退助が、日本の歴史上、初めて政党を結成した。
自由党の誕生であり、板垣が初代党首に就任した。
明治天皇は、1868年3月に、庶民に対して「五箇条の御誓文」を次のとおり発表している。
一、広く会議を興し万機公論に決すべし
一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦ざらしめん事を要す
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
我国未曾有の変革を為んとし
朕躬を以て衆に先じ天地神明に誓ひ
大に斯国是を定め万民保全の道を立てんとす
衆亦此旨趣に基き協心努力せよ
以上である。
なんとなく意味が読み取れると思うので、解説は省略するが、最初の条文にある「広く会議を興し」という部分が、国会開設の根拠になるのである。
板垣退助は、自由民権運動を起こしたことでも有名である。
明治天皇の名で「国会開設の詔」が出されたのも、板垣退助が1874年に「民選議院設立建白書」を政府に提出したのがきっかけである。
読んで字のごとく「民によって選ばれた議員で構成する議院を設立しなさい」という要望が、この民選議院設立建白書なのだが、政府はすんなりとは受け入れなかった。
しかし、1872年の学制発布から、73年の徴兵令、74年の地租改正まで立て続けに、国家主導の政策を打ち出したことが庶民の反発を招いており、板垣退助たちはこうした庶民の声を政治に反映すべきだとして、全国各地の民衆を巻き込む運動を展開したのである。
さすがの政府も、この運動の盛り上がりを無視できなくなり、1875年には「漸次立憲政体樹立の詔」を発出した。
つまり、少しずつ(=漸次)立憲政体に移行するという宣言であり、第一段階として、元老院(=立法機関)と大審院(=司法機関)を設置し、元老院の下部組織として地方官会議も設立した。
いわゆる三権分立としての、国会と裁判所の原型はそれぞれ元老院と大審院になるが、この時点では、残りのピースの内閣にあたるものはできていなかった。
では、どうなっていたのかというと、藩閥で政治を行なっていたのである。
戊辰戦争で活躍した薩摩藩や長州藩出身の有力者で固められていた政治は、結局、江戸時代となんら変わっていないことを、板垣退助は批判したのである。
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