古典100選(72)承久記
今日は、昨日の『源家長日記』で登場した後鳥羽上皇や藤原定家たちが出てくる『承久記』を紹介しよう。
作者は未詳だが、承久の乱後の後鳥羽上皇の島流しのときのことが描かれている。
1230年頃に書かれたとみて良いだろう。
では、原文を読んでみよう。
①出雲の国大浦と言ふ所に着かせ給ふ。
②三尾が崎と言ふ所あり。
③それより都へ便りありければ、修明門院(しゅめいもんいん)に御消息あり。
知るらめや 憂目(うきめ)を三尾の 浜千鳥
しましま絞る 袖のけしきを
④かくて日数重なりければ、八月五日、隠岐の国海部(あま)郡へぞ着かせ給ふ。
⑤これなん御所とて、入れ奉るを御覧ずれば、あさましげなる苫葺(とまぶき)の、薦(こも)の天井・竹の簀の子なり。
⑥自ら障子の絵などに、かかる住まひ描きたるを御覧ぜしより外は、いつか御目にも懸かるべき。
⑦ただこれは生を変へたるかと思し召すもかたじけなし。
我こそは 新島守よ 隠岐の海の
荒き波風 心して吹け
⑧都に、定家・家隆・有家・雅経さしもの歌仙たち、この御歌の有様を伝へ承りて、ただ悶へ焦れ泣き悲しみ給へども、罪に恐れて御返事をも申されず。
⑨されども従三位家隆、便宜に付けて、恐れ恐れ御歌の御返事を申されけり。
寝覚めして きかぬを聞きて 悲しきは
荒磯波の 暁の声
以上である。
昨日の『源家長日記』に登場した藤原定家・六条有家・藤原家隆・飛鳥井雅経が、⑧の文に出てきていることが分かると思うが、ここでは、源通具は歌仙たちの中で挙げられていない。
だが、隠岐に流された後鳥羽上皇とは、新古今和歌集の編纂をともに進めたこともあり、撰者たちはやはり辛い思いだったのだろう。
③の文に出てくる修明門院は、後鳥羽上皇の后である。
后に贈った和歌は、「しましま(島々)絞る袖のけしき」とあるように、浜千鳥が鳴くのと同じように私も袖を絞るとしたたるように涙を流しているという内容である。
対照的に、藤原定家らに贈った和歌は、「荒き波風心して吹け」というふうに、強気の姿勢を見せているようだ。
藤原家隆は恐れ多くも、後鳥羽上皇への返歌として、「きかぬを聞きて悲しきは」とあるように、後鳥羽上皇がお聴きになっているであろう隠岐の荒波の音が、本来は聞こえないはずなのに聞こえてくるので悲しい気持ちだと答えている。
私たちは離れていても上皇のおそばにいつもいますよというメッセージなのだろう。