古典100選(96)建春門院中納言日記

本シリーズで『建礼門院右京大夫集』はすでに紹介したが、「建礼門院」と「建春門院」はそれぞれ誰のことか分かるだろうか。

建礼門院というのは、第80代の高倉天皇の后になり、第81代の安徳天皇を生んだ平徳子(=清盛の娘)である。

建春門院は、高倉天皇の母親の平滋子である。

そして、建春門院中納言は誰かというと、実は、藤原定家の姉である。定家の父親だった藤原俊成の娘でもあり、定家にとって5つ上の同母姉だった。

建春門院は、1176年に35才の若さで亡くなった。

では、原文を読んでみよう。

①建春門院と申ししは、世々を隔てたる古事にて、御名などだにおぼめく人も多からむかし。
②昔今、限りなかりし御契り、世のおぼえにうち添へて、おほかたの御心掟など、まことに類少なくやおはしましけむ。
③朝夕の御言種(ことぐさ)に、「女はただ心から、ともかくもなるべきものなり。親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。我が心を慎みて、身を思ひ腐さねば、おのづから身に過ぐる幸ひもあるものぞ」と仰せられし御いさめに、若き限り、まして親など立ち添ひたるは、おのおの心の中やいかなりけむ、もてなしたりし上辺(うわべ)ばかりは、まことに、宮仕へ人など言ひ思へるさまにこそ見えざりしか。
④いかで人に声をも聞かれじ、まして外れざまにも影をも見えむは、うたて恐ろしうのみつつみあへりしかば、さすがにさらぬ所には似ざりけりとも、後にぞ思ひあはする。
⑤朝夕候ひし人は、定番(じょうばん)の女房とぞ言ひし。
⑥ありつき、安らかに振る舞ひなして、若き人々など言ひ教ふ。
⑦さらぬは番とて、月まぜに候ふべしと思しけれど、年の始め、衣更(ころもがえ)、五月五日、七月七日などやうの日々、二度の御花などには、さながら候ふ。
⑧上臈(じょうろう)は、御前に続きたる二間とて、七条殿の二棟に続きたる寝殿の北の廂(ひさし)の西の端なり。
⑨人少なき時はこの二間、多かる折は西の一間を開け合はせて、うち解くる世なく、袖褄(そでつま)うち乱れず、つくろひゐたり。
⑩中臈より下、これに続きたる台盤所(だいばんどころ)に、同じさまにて候ふ。
⑪近う候ふ人は東の台盤所とて、向かひたる方を通る。
⑫入り立ちの人々などは、それに入る。
⑬この上臈の候ふ二間には、しげき折は二三日、まぎらはしきほどなどは四五日になる時もありき。
⑭よきほどなる御褻形(けなり)にて、常に出でさせおはします。
⑮冬は二重織物の三つ御衣などに御小袴、夏も折につけたる生絹(すずし)の御衣どもの、世になくうつくしきにてぞありし。
⑯このごろ多く見ゆる紺などは、夏も冬も見苦しき物とて、隠させ給ひき。
⑰貝覆ひ・石取り・乱碁などやうの遊びごとをも、つれづれならずもてなさせ給ふ。
⑱候ふ人も、かつはうち弛(たゆ)まざらむためなるべし。
⑲御前許されぬ人は、近く候ふ人々の、「御前になる」と告ぐるに、立ち退きて、障子の外にゐる。
⑳夏は扇ども取り散らして、当時候ふ人々、一つづつ賜はりなどす。
㉑かやうの御遊びごと果てぬれば、やがて、あな苦しとて、うち臥させ給ふをりもあり。
㉒かりそめに御殿籠もりたりし御さまなどまで、ありがたくうつくしうもおはしまししかな。
㉓よそに推し量りしは、ことごとしくよそほしかるべきほどの御身ぞかし。
㉔夏など、うちおどろかせ給ひて、暑やとて、袷(あわせ)の御小袖の御胸を引き開けて、ふたふたと扇がせ給ひし御姿などまで、誰もすることのあな好ましと見えしは、ただ、人によることなんめり。
㉕愛敬こぼるばかりとかや、物語などに書きつけたるは、かやうなるにや。
㉖あながちに、匂ひうつくしげなる御側顔(そばがお)の言ふよしなく白きに、御額髪のはらはらとこぼれかかりたりしひまひまに、御色合の映えて見えしなどは、この世にまた、さる類をこそ見ね。
㉗おほかたの世のまつりごとを始め、はかなきほどのことまで、御心に任せぬことなしと、人も思ひ言ふめりき。
㉘まことに、おはしまさで後の世の中を思ひ合はするにも、かしこかりける御心ひとつに、なべての世も静かなりけるを、ただ明け暮れは、遊びたはぶれよりほかのことなく、しばしのほど見参らせ聞くほども思ふことなく、うち笑まるるやうにのみもてなして明かし暮らさせ給ひし御心のほども、後に思へば、人に異なりけり。

以上である。

藤原定家の姉の視点で語られた建春門院(=平滋子)の人となりは、女性の生き方の手本として、若い女房たちもこの日記を通して学んだのだろうか。

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