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好きなように生きろ

亡くなる直前に父親は私に向かってそう言った。
当時私はメーカーの営業職で過労で倒れ、いわゆるニートの26歳だった。
自分自身で未来を切り開く力も残されておらず、ただ、絶望と苦しみの毎日であった。
もう全てが終わったと思い、昔描いていた色々な未来も捨てた。大学や高校の同期が羽ばたいている中、自分ひとりがダメになってしまい、多くの人が私の周りから去った。

「飛べない鳥もいる」

死ぬことが頭からの離れない毎日だった。
ただただ親に申し訳無い思いが強く、家族との接触を拒んだこともあった。
そんな矢先だった。8年ほど菌状息肉症という病気と闘っていた父親の命が尽きようとしていたのは。

姉から連絡が入り、父親の状況を知らされ、すぐに京都から名古屋への新幹線へ飛び乗った。実家近くの病院へ行くと、満身創痍の父親がベッドで寝ていた。私が来たことを知らせるとポツリと言った。
「好きなように生きろ」と。

誰よりも家族を大切に思い、必死で働き続けた人生の先輩の言葉は重かったし、当時は分からなかった部分も大きい。

それからは精神疾患に振り回されながら働けるときはアルバイトをし、ダメな時は引き篭もる毎日だった。先の見えない、孤独の極みのような時間だった。

泣きながら日課のウォーキングをこなしたこともあった。色々な罵詈雑言が頭の中で飛び交い思わずその場でしゃがみ込んでしまったこともあった。
大学時代の先輩に泣きながら電話して家に来てくれたこともあった。クラッシュが優しく流れていた。

地道に闘病を続け、自己観察を続けていくうちに、なんとか歯を食いしばって行っていた運動のおかげか、症状が緩和されてきたので社会復帰への段取りを始めた。

職業訓練のようなところに1年通い、毎日通えるという実績を作り、幸運なことに今の職に就いた。

ここまでトータルで13年かかった。

ブランクを考えたら、予想以上の給料をいただき、音楽フェスに行ったりと色々楽しいことが出来るようになった。そして、結婚もした。

失いかけていた希望の光が「それでも来い」と私を呼び続けてくれたおかげだった。

ほとんどのものを失ったけど、わずかに残った欠片はとても大切なものだった。

今、私は「好きなように生きる」ことが出来ているだろうか。

そう問う。


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