【書評】魯迅『藤野先生』は日本人としてぜひ読んでおきたい
ロッシーです。
魯迅の『藤野先生』を読みました。
魯迅は中国近代文学の父といわれており、有名な作品は『故郷』や『阿Q正伝』などがありますが、今回はあえて『藤野先生』を取り上げたいと思います。
『藤野先生』は、光文社古典新訳文庫版であれば、11ページほどの短編です。短編というよりも、魯迅の藤野先生に対する想いをつづった自伝的エッセイといったほうがよいのかもしれません。
さて、魯迅をあまり知らない人は、
「藤野先生って誰?」
「なんで中国の小説に日本人の名前の作品があるの?」
と思うのではないでしょうか。
藤野先生は、実在した日本人です。実名は藤野厳九郎といい1874(明治7)年7月1日に福井県に生まれています。
彼は仙台医学専門学校(後の東北大学)の講師になります。魯迅は、同校の最初の中国人留学生として入学しました。当時の藤野先生は30歳で、魯迅は23歳でした。
藤野先生が教えていたのは解剖学でした。日本語を聞き取ることが難しかった魯迅にとっては、講義についていくのは大変だったはずです。
しかし、ある日藤野先生は、魯迅に講義ノートを持ってくるよう言い、それを赤ペンで加筆修正し、聞き取れなかった講義内容を加筆し、文法的な間違いも丁寧に訂正して返すのです。そしてそれは、彼が教え続ける休むことなく続けられました。
当時の日本は、日露戦争の時期で、日本人としての民族的な意識が非常に高揚していた時期でもありました。それは同時に中国人を下に見る風潮につながってもいたのです。魯迅が無事に進級できたのは藤野先生が試験問題を彼に漏らしていたからでは、というような邪推が生まれるほどでした。
そのような環境下において、藤野先生の無償の行為がどれほど魯迅にとって大きいものだったのか想像がつきません。
『藤野先生』の中で、魯迅はこのように書いています。
「藤野先生」こと藤野厳九郎は、その後退職して福井県の郷里に帰り、開業していた次兄を手伝いながら、地元で開業医を続けました。
藤野厳九郎が晩年暮らした家は、「藤野厳九郎記念館」(登録有形文化財)として福井県あわら市に残っています。
1998年、中国の江沢民国家主席は東北大学を訪問しています。なぜ東京の大学ではなく東北大学だったのか?
それは、魯迅がそこで学んだ場所であり、彼が恩師として仰いだ藤野先生がいた場所だったからなのでしょう。
国同士の友好関係というと、とかく政治家同士のやりとりで決まるものだと考えがちです。しかし、1000の政治家同士のやりとりよりも、魯迅と藤野先生の関係のほうが、よほど偉大なのではないでしょうか。
『藤野先生』は、中国の中学校の国語の教科書に採録されているとのことです。そのため、魯迅が留学した仙台は、東京に次いで中国人に知られている日本の都市の名前という話もあります。
私達も、魯迅の作品は教科書で習うと思いますが(最近はどうなのか知りませんが)、『藤野先生』を習うことはないと思います。
昨今微妙な状況になっている日中関係について、ネットを見ればネガティブな言説が目立ちます。もちろん様々な意見があってよいと思います。
しかし、そういうネット情報から離れて、静かにこの『藤野先生』という作品をこの夏休みに読んでみてはいかがでしょうか。
そして、偉大な人というのはどういう人のことを言うのか、そして『藤野先生』を読んだ自分自身は何ができるのか、そういうことを考えてみるのも良いのではないかと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!
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