金属バットのネタで現代アートを考える
タイトルがオチで全てですが、現代アートに対して浅くも広く興味があってなんとなく感じていることがあります。以下雑感です。
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現代アートの始まりについては諸説ありますが、なんやかんや登場してから100年近く経っているわけです。100年前を「現代」ってどういうことなのかなあとも思ったりするわけで。
発表された当時
「ウヮア!今までの芸術の流れとは違ってめっちゃ現代的やねー!最先端や!」
「なんかわからんけど、今出てきたこれを現代アートって呼ぼうか!」
みたいなノリだったのかなあとか。
今も00年代、10年代、20年代の〇〇とか言うじゃないですか。そういうこと、、、??
まあ僕の疑問と妄想はとりあえず置いといてタイトルにもある金属バットのネタ「落語」の触りを書き起こしたのがありますのでチラッと読んでください。
(気になった人は調べてみたら動画みれるかも)
小林『漫才師ってさ。立ち仕事やん?』
友保『ざっくり言うとな』
小林『立ち仕事の接客業やんか』
友保『むちゃくちゃざっくり言うとそやな。省きまくったらそやな』
小林『むっちゃキツイ仕事やん?』
友保『むっちゃ楽やで。めちゃめちゃ楽』
小林『腰とかヤバいやんもう』
友保『いわさんよ、腰なんか。俺、今日台飛んだだけやで仕事。めちゃめちゃ楽やで』
小林『いや、だってそれに比べてよ』
友保『なんや?』
小林『あのコント師どもはさ』
友保『おい』
小林『あいつら、すぐ椅子持ってきて座りよるやん』
友保『休み用ちゃうねん、あれお前』
小林『ナメくさっとんねんでアレ多分』
友保『おいおい、お前』
小林『ほんで、あれやろ。コント師って最悪あれやで』
友保『なんや?』
小林『コント、睡眠って言ったら寝れんねんで』
※このネタが現代アートというわけじゃないです。
結局のところ現代アートってのは個人の思想や哲学を芸術作品というアウトプットで表現したものなんですよね。文字に起こしてしまえばそれは論文だったり哲学書になったりしていくと思うんです。
そうなってくると現代アートというべきよりか、思想アート?哲学アート?なのかなとか。まあ何でもいいんですが「現代」と括るにはもう言葉のキャパをオーバーしてるんじゃあないのかなと。
僕の考えとして、美術作品は絶対的な美を示して、差異はあれど共通の感覚を呼び起こすことができる芸術であるのに対して、現代アートは個人に判断を委ねる芸術だっていう点が大きな違いだとおもいます。あまりに情報がなくてタイトルから連想しないといけないものもあったり
つまり、前述の「コント、睡眠」と言ったら寝れちゃうっていうのは芸人(ここでの意図としては芸術家)がそれをやっちゃっても許されちゃう可能性があるっていう危険性を孕んでるなってとこです。
とにかく作者がタイトルやコンセプトを提示した時点で満足な実態を伴っていないとしても形になってしまうし受け取りかたが決まってしまう点にハテ、と思うわけで、現代アートはそういうもんなの?と思う訳です。
最初の現代アートと言われる「泉」もトイレを美術館に飾ったら芸術作品になるのか?観る者が芸術を芸術たらしめるんだという観点がなんとなく「コント、睡眠」と僕の中でダブってしまったんですよ。
まあここまでグダグダ言ってきましたが、現代アートを批判する訳じゃなくって、それよか、もっと他の呼び方あってもいいんじゃないのかなって話です。もっと飛躍すればジャンル云々で括るよか〇〇さんの作品って括りのが健全かなとは思いますが。
まあとにかく現代アートという言葉の消費期限が来てる気がするんです。
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好きは人それぞれですが、「作品ってのは絶対美しくなきゃいけないんだよなー」って言った友人の言葉を僕は信じてます。
僕自身ハテ?と思うような作品はもちろん好きなんですが、バチコーンと大正義に美しいのが最高だとおもってます。
そんな写真や映像撮りたいしね。
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