【中村不折】油彩画 日本画 墨 査定 鑑定 買取 致します
中村 不折
◎中村 不折の芸術
中村不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日生まれ)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の洋画家・書家であり、正五位を授与された人物です。本名は中村鈼太郎(さくたろう)で、江戸の京橋八丁堀(現在の東京都中央区湊)に生まれました。幼少期に明治維新の混乱を避けて一家で長野県高遠(現:伊那市)に移住し、そこで青年期を過ごしました。
19歳の時、北原安定に漢籍、真壁雲卿に南画、白鳥拙庵に書を学び、教師としての職務に就きながら絵画の技術を磨きました。1887年、21歳で上京し、画塾「不同舎」に入門して小山正太郎に師事し、本格的に洋画を学び始めました。その後、明治美術会の展覧会に水彩画や油彩画を出品し、画家としての地位を確立していきました。
1894年、正岡子規と出会い、日本新聞社の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当しました。この頃から「不折」の雅号を使用し始め、後に正式に改名しています。日清戦争では従軍画家として中国に渡り、現地の芸術や書に触れる機会を得ました。1901年にはフランスに留学し、ラファエル・コランやアカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事し、洋画の技術を深めました。
帰国後は太平洋画会に所属し、歴史画を中心に多くの作品を制作しました。特に、天照大神と男神たちを裸で描いた「建国剏業」は、当時の文部大臣・九鬼隆一から「不敬である」と批判を受けましたが、芸術的挑戦として評価されています。また、夏目漱石の『吾輩は猫である』や島崎藤村の『若菜集』などの挿絵や題字を手掛け、文学界とも深い関わりを持ちました。
書家としても高い評価を受け、中国の書の収集家としても知られています。特に、唐代の書家・顔真卿の現存する唯一の真蹟とされる「顔真卿自書建中告身帖」を収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現:台東区立書道博物館)を開館しました。この博物館は、彼の収集した貴重な書道資料を保存・展示する場として、現在も多くの人々に親しまれています。
晩年は太平洋美術学校の初代校長として後進の指導にあたり、帝国美術院の会員や帝国芸術院の会員にも選ばれました。1943年6月6日、脳溢血のため下谷区の自宅で急逝し、享年78歳でした。彼の多彩な活動と芸術への情熱は、後世の芸術家や愛好家に多大な影響を与え続けています。
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