海と時を越えるために、文学はある。~スコット&ゼルタ・フィッツジェラルドの時空を浮遊するゴールデンウィーク
ゼルタ・フィッツジェラルドの伝記を春先から読んでいたら、昔読んだはずのスコット·Fの作品を読みたくなり、日本の古本屋サイト等でいくつか買い集めた。
自分では既に何冊か持っていたはずと思って探してみたが見当たらない。学生の頃は金がないので図書館で借りてたのだな、きっと。折角なので新訳を買う。
やはり、村上春樹氏の訳は読みやすい(字が大きいからという声も)
長編は「ギャッピー」と「ラストタイクーン」以外未読だったので「夜はやさし」も購入した。昭和35年初版という文字におののく。これも新訳を待ちたい。
もう失われてしまった時空を生きる人々に共感できることはあまりない。が、その文体と表現に、ため息が出ることもしばしば。それだけでその時間は満たされる。
文学や映画やその他芸術の評価に、果たして見るものの共感や、昨今の倫理観は、必要なものなのか、など思う。
ポリティカルコレクトネスとか、コンプライアンスとか、現代(いま)の視点でフィッツジェラルド夫妻の冒険を捉えると、不快極まりなく思う人々もいるんだろうと思う。それはそれで人それぞれだから仕方がない。
インターネットなぞない時代、見知らぬ海の果ての世界や、異なる価値観を写す海外の文学は、島国の文学少女の日常の想像や理解を遥かに超えるものだった。共感を感じることのできるほどの教養も経験もなかった。だから、その世界をそのまま愛した。
そんな気持ちを、2022年という時代にもまだ私は持っているとは思わないけれど、このゴールデンウィークにゆっくりと、あり得ない世界を旅しようと思う。