『白の闇』ジョゼ・サラマーゴ 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
ジョゼ・サラマーゴ(1922-2010)は、ポルトガルのリスボン北東部にある寒村の農家の息子として生まれました。貧困に苦しむ一家は首都リスボンへ移住しますがそれでも苦しい生活には変わりなく、家を間借りするような暮らしでした。幼少期から文学を愛していたサラマーゴは、公立の図書館へ足繁く通い、古典文学を中心に読み続けて文芸性を養っていきます。幾つもの職を経てジャーナリストとして落ち着いた彼は、持ち前の文才で活躍し、日刊紙「ディアリオ・デ・ノティシアス」の副編集長に抜擢されます。
ポルトガルでは1932年よりアントニオ・サラザールによる独裁政権が続いていました。これは全体主義体制を敷くファシズムで、地主、教会、軍部を基盤とし、国民同盟の一党独裁で検閲や犯罪取り締まりを一括で行い、独裁に対する反体制運動を押さえつけるものでした。しかし、第二次世界大戦争においては、イギリスと友好的な関係であったこと、また反共姿勢がヨーロッパ諸国に容認されていたことによって、大戦時は中立を守り続けて、打倒ファシズムから逃れることができました。こうして戦後も安定的な独裁政治を進めてきましたが、1960年代より起こったアフリカの植民地(アンゴラやモザンビークなど)による独立運動を激しく弾圧したことにより、友好的であったヨーロッパ諸国から批判を浴びたことで、ポルトガル国内でもサラザール政権に対する反発が生まれます。1968年にサラザールは引退してマルセロ・カエターノがその後の独裁政権を引き継ぎましたが、1974年に反独裁を掲げるアントニオ・デ・スピノラ大将が率いる国軍(MFA)が大規模なクーデターを起こし、殆ど無血で政府を打ち倒しました。これをカーネーション革命(リスボンの春)と呼びます。
サラマーゴはこの革命を誌面を通じて支持していました。しかし、革命後の政治情勢は混乱を見せ、右派左派ともに暴力的な騒動を巻き起こします。このような世情の混乱を鎮静化させようと、幾人もの思想家が自論を唱えましたが、サラマーゴは十九世紀に語られたスペインとポルトガルの統合「イベリスモ」を唱えました。これによって多くの議論が巻き起こされましたが、結果的に軍部が介入して「ディアリオ・デ・ノティシアス」を解雇されました。その後、翻訳家として生計を立てていましたが、過去に小説や詩を発表していたことから自らの作品を世に出そうと、専門作家の道を歩み始めました。1982年『修道院回想録』(Memorial do Convento)、1986年『リカルド・レイスの死の年』(O Ano da Morte de Ricardo Reis)など、議論を呼びながらも多くの読者を獲得し、ポルトガル作家の代表として世界に知られました。そして本作『白の闇』が1995年に発表され、これらの功績により1998年に「想像、哀れみ、アイロニーを盛り込んだ寓話によって我々がとらえにくい現実を描いた」としてノーベル文学賞を受賞しました。
「社会の全ての人間が突然失明したらどうなるのか」という頭に浮かんだ質問を発端に、非常に理論的に本作の物語は構築されました。明確な原因や理由が不明のまま、突如として発症した失明は怒涛の勢いで感染を拡大していきます。この盲目は、まるで視界がミルクの海に潜っているかのような「白い闇」であり、目を閉じて訪れるような真っ暗な闇とは異なっています。拡大を堰き止めるため、政府は発症した人々を隔離施設へと押し込み、国軍の管理下に置いて、患者は非道徳的な扱いを受けることになります。白い闇に覆われて盲目となった失明者たちは、滞る政府からの配給を奪い合い、倫理を失った環境で過ごさなければならなくなりました。食糧も何を食べているのか視認できず、手探りで寝床を探し、排泄を伴う生理現象には尋常ではない苦労が付き纏います。人間としての尊厳を毎時間のように削がれる人々は、やがて道徳と倫理を放棄して「野蛮」な動物へと導かれます。法律は当然ながら、規律や統率といったものは姿を消し、力と欲求が支配する地獄絵図へと変化します。さらには、政府からの配給も無くなり、軍の監視も消え去ったことで、隔離施設の外側も「無秩序」に満たされたことがわかります。実際的に隔離から解放された施設内の失明者たちは、さらなる苦悩の道へと歩み始めます。しかしながらこの隔離施設のなかには、信じられないことにたった一人だけ失明していない女性が存在していました。この女性の目と、語り部であるサラマーゴを中心に、本作は物語られていきます。
登場人物の名前は明かされず、また、語り部のサラマーゴが随所に介入することから、本作は非常に寓話的な作品として描かれ、黙示録のように読者の心へ訴えかけてきます。人々は盲目となり、世界は混沌に包まれ、人間的な弱さ、社会的な脆さ、政治的な欺瞞が溢れるように明示されていきます。さらに情景描写のあまりの衝撃と生々しさは、飢餓、腐敗、暴力、強姦、糞尿、死者といったものを、鋭い想像力で提示し、読む者へ強烈な印象を植え付けます。失明していない唯一の女性はこれらの「衝撃」を目の当たりにし、それらから自身を含めた周囲を守ろうという「義務感」で献身的に活動します。
この物語は、我々が日常生活に没頭していることによる「盲目」を取り上げています。自らの周囲が利便性に溢れ、豊かな暮らしを構築しています。水道、電気、ガスなど、当たり前のように用いることができる環境は、人間が人類として生存できる奇跡的な豊かさを提供しています。このような奇跡に対して、我々は「盲目」であると言え、一度「当たり前」が無くなった瞬間、構築されていた社会は崩壊し、道徳と倫理を失い、人間は尊厳を失います。このような「盲目」を問題として提起し、我々に現在を見つめ直させるという意味で、本作は重要な作品であると考えられます。本質的な恐怖として潜んでいるものは、自身に危険が及ぶまでは冷徹な感情と非常な合理性で権力を秩序的に行使していながら、自身に危険が及ぶと秩序を維持することはできずに、人間の奥に潜む「醜悪な本性」が顔を見せるという残酷性です。
この寓話は、物事の発端から問題収束の兆しまでを描いています。なぜ失明が起こったのか、なぜ感染したのか、なぜ一人だけ失明しなかったのか、といったことは明らかにされません。原題は『Ensaio sobre a Cegueira』で、「失明に関するエッセイ」という意味を持っています。これは冒頭の疑問「社会の全ての人間が突然失明したらどうなるのか」というものを、論理的に追求し、人間の思考や行動を辿り、この物語そのものが「疑問に対する答え」となっており、いわばサラマーゴによる思考実験とも言い換えることができる作品です。そして、寓話として語ることで道徳的または倫理的な側面を持ち、読む者へこの結果を諭すように提示しています。サラマーゴは本作に関してこのように述べています。
サラマーゴは本作を通じて、需要、無力、愚かさ、軽蔑、放棄などに対する人間の反応を示しています。また、地獄絵図のような受け入れがたい状況に直面する唯一の失明から逃れた女性の目を通して、道徳や倫理について考えさせています。彼女はその見える目で「多くの死」に直面します。その度に彼女の道徳と倫理は揺らぎ、苦行のような献身から逃れたいという願望から失明さえ望みます。最後の場面ではそのような願望を見上げた天から否定され、献身の継続が目の前に広がったことを印象的に見せて締め括っています。
無神論者であったサラマーゴは、この思考実験で強烈な皮肉をも添えています。目の見える女性は休息のために教会へと向かいますが、天井を仰ぎ見ると、全ての神的な存在は全て白い目隠しが施されています。このような地獄絵図の世界にある人々を救わない神々、つまり「神々こそが盲目」であり、それは実際的に神々は世界に不在であるという警告です。そしてその事実を知った教会に避難していた盲目の人々は阿鼻叫喚となり、信仰を根底から失って大混乱を起こし、教会から逃げるように去っていきます。その最中に、目の見える女性は食糧を確保して、結果的に目的を果たします。ここにサラマーゴによる「無神論者」の肯定が示されています。
過酷な状況やその描写に読み手は苦痛を与えられますが、その苦痛は読者自身の「盲目さ」から呼び起こされているとも考えられます。現代の、そして現在の生活環境における「当たり前」が、いつ無くなるとも限りません。そのような人類として生きる人々に向けた強い警告は、読後に必ず心に残るものと思われます。ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。