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3分で読めるエッセイ|『辻井伸行さんのピアノに恋して:ショパンピアノ協奏曲第一番』

辻井伸行さんのピアノが大好きだ。大好きという言葉しか浮かばないくらい、彼は私の中では別格の存在なのだ。

雪国に住む私が彼の演奏と出会ったのは、列車の中だった。

 前日に買った、ヴァン・クライバーンコンクール、ショパンのピアノ協奏曲第一番のCD。買ってすぐには聴かず、音源をデバイスに入れた。初めて聴くのは、雪の早朝、列車でと決めていた。

 ポケットにかじかんだ手を入れ、ホームで待つ。空を見上げると、凍てつく外気が白い息を氷の結晶に変える。レールが軋む金属音とともに列車がホームに滑り込んだ。暖かい車内に顔の皮膚が緩む。座るのは、先頭車両の窓側、特等席だ。急いでイヤフォンをつける。

 発車と同時に、古い森の木々の声のような管弦楽が幕開けを告げる。ショパンの祖国、ポーランドの風の匂いまで感じさせてしまうような、圧巻の演奏だ。

 ふわああっと、パウダースノーを舞い上げながら、列車は早朝の山中を進む。まっさらな朝日が昇り始め、雪煙が陽に透けて、結晶のひとひらをダイヤモンドのように輝かせた。

 
開始から三分五十六秒。雪嵐を切り裂く氷の刃のような、大河の源流の水滴のような、ほんとうに奇跡としか言いようのないやり方で、辻井さんのピアノが始まる。

 ああ、やはり雪の朝の列車で聴いてよかった。

 世界は、こんなにも美しいと、確かめることができた。

 なぜ彼が奏でる音はこんなにも美しいのだろう。

 至高の技術に裏打ちされた清澄で健康な魂が鳴る。聴く者の魂をも共鳴させる。

 第二楽章。彼は誰かに恋をしているのだろうか。恋を知らないとあの夢見心地で甘美な旋律は鍵盤から生まれないだろう。妄想の中で、少し嫉妬する。

 演奏はショパンの生きた軌跡をなぞるように進む。
雪解けの水滴は、小さな流れとなりいつしか大河となって、その水面に様々な命の輝きを映し踊りながら海へと続いていく。
この世の生きとし生けるものを祝福する第三楽章。

 きっとこれからもずっと、私は他の誰とも違う彼の音をみつけて、彼の音だと聴き分けることができるのだ。

 

コンクールだということすら忘れた聴衆の、大歓声。

 

気づくと、泣いていた。


手で口元を覆い、嗚咽をこらえる。

 

人がまばらな早朝で、本当によかった。

 

ぼやけた視界のまま窓の外を見つめると、涙が太陽の光を乱反射して、世界がきらきらと輝いていた。

 

恋に落ちてしまった。

 

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