笑いと自由
最近、面白い本を読んだ。
「断片的なものの社会学」
上手な言葉では表せないけれど、私は、この本は海の中のガラスを集めたみたいだと思った。
波に洗われて、すっかり角が丸くなってたり、まだ尖りが残っていたり、半透明だったり、くすんでいたりする、海の中のガラス。
どこにでも、たくさんあるけれど、一つ一つ、形も色も手触りも違っていて。
光に翳すと綺麗に見えたり、ザラザラと淀んでいるだけだったりする。
この本は、著者の岸さんがこれまでの人生で触れてきた<ガラス>のいくつかを、丁寧に言葉にしてくれたもの。
一つ一つはてんでバラバラで、パズルのピースのように上手くハマる訳ではない。
でも、一つ一つが味わい深くて、ついつい引きこまれてしまう、そんな本。
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この本の中に「笑いと自由」という章がある。
岸さんは言う。
「自由は、選択肢・可能性・自己実現といった大きな、勇ましい物語の中にはない。
ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もう一つだけ何かが残されてそこにある。
もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。
そこに縛られない自由がある。」
私にとって、この”ガラス”はとても鋭くて、光の通しが眩しいくらいに感じられた。
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私は今、島根県 隠岐郡 の離島・海士町で暮らしている。
この島のキャッチフレーズは
「ないものはない」
初めて聞いたとき、すごく潔い言葉だな、と思った。
この島は開き直ってるんだ、と。
たしかに、この島にはコンビニ、ファミレスといったチェーン店は一切ないし、電車も走っていない。
夜7時を過ぎれば、大抵のお店が閉まってしまう。
スーパーで売られている食べ物や調味料は本土で買うよりも高いし、私の好きな紅茶豆乳も売ってない。
「不便」だから「不自由」なのかな、と漠然と思っていた。
制約がたくさんあるから。
これまで、もっと「便利」で「自由」な生活をしてきたから。
でも、ここに来て3週間、私が感じたのは
「自由」であり、私という人間がいかに「不自由」かだった。
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「ないものはない」
この言葉には二つの意味が込められているそうだ。
「なくても良い」と「大事なものは全てここにある」
後者の意味を聞いて、フゥンと思った。
「大事なもの」って一体何だろう。
この島に来て初めて、家督山という山に続くランニングコースを走ったとき、
周りに誰もいないことに驚いて、
走りながら歌える自由に感動した。
(牛が道を塞いでいて、譲らなければいけないことはあるけれど。)
スキップしても、リズムに合わせてちょっと踊ってみても、誰からも変な目で見られない。
満員電車にも乗らなくていい、人混みで進めないという不自由もない。
私の足で、自転車で、好きなペースでどこへでも行ける。
(この島には、信号だって一つしかない。しかも黄色の点滅だけ。)
夜には、星がみえる。
笑ってしまうくらい、長くて大きな流れ星も。
誰にも、どんな光にも邪魔されない。
独りになりたいと思ったら、独りになれる。
絡んでくる酔っ払いもいないし、危ないことに巻き込まれる心配もない。
自由だ と思った。
少なくとも、私の気分は晴れやかだった。東京にいるときよりも。
こういう「余裕」のことを言うのかな、と思った。
「大事なこと」って。「自由」って。
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でも、私は本当は知っている。
この「自由」は、私の作り出したまやかしであること。
留学中も、そうだった。
私はすごく「自由」だった。
親元を離れて暮らしたから、とか
アメリカの文化が個性を尊重していたから、とかいう理由じゃない。
それはたぶん、「留学」という期間も場所も限定されたバブルの中にいたから。
その小さくて綺麗な泡、終わりが見えるあぶくの中で、私は自由に飛び回り、自由に言葉を発した。
選択肢の多さは、可能性の限りなさは、不思議なくらい「自由」に繋がらない。
考えることが多ければ多いほど、自由でなくなる気すらする。
『自分で思考できること』が自由のために大切なのは間違いないはずなのに、その「思考」が 「自分」という軸を蔑ろにして、私を縛るような気すらするから本当にわからない。
(もっとも、「蔑ろ」にしているのは「今の自分の素直な気持ち」であって、<未来の自分>や<理想の自分>を考えていたりする点では、「自分」という軸は失っていないのかもしれない。そしてこの自意識に嫌気がさしたりもする。どうすることもできないけれど。)
理不尽な制圧や物理的な強制を受けない、恵まれた立場にいる「私」を縛り付けるのは、自分以外の何物でもない。
「未来」や「理想」を想う自分、
他者からの評価に耳を傾ける自分、
このシステムの中で生きようとする自分が、私を現実社会に縛り続ける。
社会から自由になれない自分、その自分から自由になれない、自分。
そんな現実に雁字搦めの自分から、ほんの短い間でも「自由」になる瞬間があるのだとしたら。
それが、岸さんの言う あの何だかわからない「笑い」であり、
流れ星を「あ、流れた」と(願い事をするのも忘れて)ただただ見つめるその時なのかもしれない。
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家督山からの帰り道、畑仕事をしていたおばあちゃんに挨拶をした。
「おはようございます。」
「おはよう、 どこから来たの?」
他愛もない会話。
でも、何だか嬉しい。
おばあちゃんの話を聞く。
88歳と聞いて、驚く。
88歳には全く見えない。
「畑仕事が元気の秘訣ね〜」
と笑う姿がまた素敵。
「自炊してるの?」と聞かれて、「はい、頑張ってます。」と答えたら、
カブと大根を畑から採ってくれた。
これが良いかしらね? と呟きながら、真剣に選んでくれる姿に、胸があつくなる。
「大事なもの」ってこれかもしれない、と思った。
上手く言葉にできないけれど。
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「自由」が一体何なのか、結局のところ、私にはわからない。
私は何から自由になりたくて、
家を/都会を飛び出すのか、
何への自由を求めて、
新しい世界に足を運び続けるのか、
全然わからない。
もしかしたら、私が私自身に、
“自分の好奇心が赴くまま、行動を起こしている。私は自由だ”
という証明をしたいだけに過ぎないのかもしれない。
でも、それでも良い。
社会や他者との「繋がり」(のなかに生きる自分) から私が自由になれることはなくても、
その「繋がり」が、私と88歳のおばあさんの出逢いを生んで、
美味しい赤カブと大根をもたらしてくれることもあるなら、
そんな不自由も悪くはない。
そして、言葉では表しきれない感情に押し潰されそうになった時、
笑ったり、逃げ込んだりする「自由」が私の中、心の奥底に備わっているのなら、
何も恐れることはない、のかもしれない。
(それをコントロールできないのが口惜しいけれど。)
私はどこまでも不自由で、とても自由が好きだ。
◆
という、私が大学生の頃書いた文章。
私のことを知ってる人が読んだら、たぶん誰だかわかってしまうけれど、そんな偶然もあるまいと思って(祈って)、載せてしまうことにする。
(あったらそれこそ、笑うしかないな。)
迷ったり、心配事ができたりしたら、
私はいつも、
「これによって生じる最悪の事態はなんだろう」
と考えて、
それが堪えられる範囲そうだったらエイヤってやるんだけど、
うん、まぁ、例に漏れず、受け止められそう。
生きてるし。
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ということで、
エイヤっ!!!
2020.05.18
とがりチヨコ
▼ こちらも読んでいただけたら嬉しいです〜。(書いたものの中で、一番人気ないけどな。いいんだ。笑)
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