マリー・ローランサン〜バトー・ラヴォワールは沈まず〜
その絵の背後には大きなガラス窓があり、月光が煌々と差し込んでいた。しかし月光をキャンバスの裏に吸い込んで、その絵は全く別の光を辺りに放っていた。
禍々しく、有無を言わさぬ光だった。
マリー・ローランサンは絵を見上げ、小さくため息をついた。
もう一度、絵の脇に添えられたタイトルに目をやる。
『アヴィニョンの娘たち』。
まるでダンスするような軽やかな筆致は、ピカソ本人のものだろう。
少し、離れて見たい。
そう思って後ろ向きに一歩下がったら、ディナードレスの裾が何かに引っ張られた。
「おっと、失礼、マドモアゼル」
低く響く声に振り向くと、明るい青色のラウンジジャケットを羽織ったがっしりした体格の男がこちらを振り向いた。歳は20代半ばくらいだろうか、マリーより少しだけ年上に見えた。角ばって彫りの深い顔立ちに二重でグレーの瞳。どうやら男も後ろ向きに下がってきて、マリーにぶつかったらしい。
「いえ…わたしも悪いんです。確かめなかったから」
「いいや、僕が悪いんだ。僕は確かめてたから」
「え?」
聞き返したマリーに、男は笑って言った。
「君に自然とぶつかるように、そーっとね、測りながら後ろに下がってた」
キザな人。
そう思ったのに、男の笑顔がいたずら好きな男の子のようで釣られて笑ってしまった。
「ギヨーム※1だ。君は?」
※1ギヨーム・アポリネール 詩人、美術評論家
「マリーよ。あなた、訛ってるわ。国は?」
「やぁやぁ、参ったな。マリーに引き合わせる役目は俺だと決めていたのに、自分で見つけちまうとは、流石、イタリアの伊達男は違う」
ギヨームの後ろからやってきて、その肩を抱いたのは、この夜の主役、ピカソだった。
「マリー、来てくれたんだね、嬉しいよ。あっちにワインとシャンパンを用意してる。ブルゴーニュの1870年ものさ。ここだけの話、君のために用意した」
そう言って、ウインクしてみせた。
「そんなこと言って。フェルナンド※2に怒られるわよ。それにわたし、ワインよりあなたのあの絵の方がずっと酔えるわ」
※2 フェルナンド・オリヴィエ。当時のピカソの恋人
「ハハ。マティスには酷評されたがね。彼はナイスガイだが、俺のやることなすこと気に入らないんだ」
そこへ後ろから画商の1人が来て、ピカソに何か耳打ちした。それに軽く頷くと、ピカソはマリーとギヨームを見て言った。
「すまない、野暮用だ。2人とも楽しんでくれ。素敵な夜を」
そう言うと白の燕尾服を翻して足早に去って行った。
今夜は、ここ、クロヴィス・サゴ画廊で彼の新作発表会が開かれていた。
「パブロと知り合いなの?」
ギヨームが驚いたように聞いてくる。
「ええ、といっても最近なんだけど…」
「困るな、マリー。僕って存在がいながら公然と浮気かい?」
背後から明るい歌うような声がして、マリーは振り向く前から誰だか分かり、思わず笑みがこぼれた。
「ジョルジュ!※3あなたも来てたのね。ねぇ、パブロのあの絵、もうご覧になって?あなたの感想、ぜひ聞きたいわ」
※3 ジョルジュ・ブラック。キュビズムの画家。マリーと生涯に渡り親交があった
天然パーマのように少しカールした髪を手で撫でつけるとジョルジュはふふっと笑った。
「その前に、新しいボーイフレンドを紹介してくれないか?」
「あら。さっき出会ったばかりよ。たしかに運命的だったけど」
「ギヨーム・アポリネールです。ムッシュ、ブラック。貴方の作品はなんというか…その…刺激を受けています」
「ジョルジュでいい。君がアポリネールか。『線の理論』を読んだよ。あれは良かった」
「光栄です」
「だが、あれは美術論じゃない。抒情詩だ。君は詩人の方が向いてる」
「それも、光栄です」
2人の男は、マリーの前で握手した。
「ねぇ、わたしも仲間に入れてよ。ギヨーム、貴方って美術評論家なの?」
「あぁ、『ラ・プリュム』っていう芸術・文芸誌に寄稿してる。ピカソやマティスの作品についてね」
「へぇ、凄いわ。今度見せて」
「もちろんだよ。あーそうだ、良かったら向こうのラウンジで…」
「いいね。向こうのラウンジで、ワイン片手に君の新作について語り合おうか?」
今度は正面からグレーの中折れ帽を被った男がギヨームに近づいてきた。面長の顔に、細い目は鋭い印象を与えるが、山なりの眉が、その印象を少しだけ緩めていた。
「新作のタイトルはえーっと、何だっけ?」
そう言って男はマリーをチラッと見た。
「ねぇギヨーム、こちらはどなた?紹介してよ」
「あ、あぁ。マックス※4だ。彼も詩人で、美術評論家なんだ。我らがバトー・ラヴォワール(洗濯船)※5の名付け親さ」
※4 マックス・ジャコブ
※5 モンマルトルにあった、集合住宅兼アトリエ。若き日のピカソやジョルジュ・ブラックなど、売れない芸術家が集まっていた
「えぇっ!凄い。画家のマリーです」
「よろしく。どんな絵を描くんだい?」
「あの、実はまだアカデミー・アンペールの学生で…今、色々模索中なんです。だから今日、この個展に来てとても良かったなって。わたしもこういう絵が描きたいって思いました」
「そうかい。君のことを美術誌で紹介できるのを楽しみにしてるよ」
「はい。あ、ところでさっき彼の新作がどうとかって…」
「あぁ…『一万一千本の…』」
「あー!!」
ギヨームが、大きな声を出して、マックスからマリーを遮った。
「マリー、あっちへ行こう。ここは少し暑いだろう?少し涼もうじゃないか、うん、それがいい」
ギヨームはマリーの肩を抱くと、強引に部屋の隅へ連れて行こうとした。
「ちょっ!何するの!?」
「いや、そろそろ君と2人で話したくてさ」
「だったらそう言えば!?こんなやり方、スマートじゃないわ」
ギヨームを睨んでマリーは彼の手を払った。
「いや、すまない、こんなつもりじゃなかったんだ」
「じゃあどんなつもりよ。あーあ、せっかくトリアノン=コミック※6の幕が上がる時みたいなワクワクがあったのに。台無しよ」
※6 モンマルトルにある劇場。ピカソもよく足を運んだ
ギヨームは少しの間、俯いて鼻を掻いていたが、顔をあげると吹っ切ったように言った。
「実はさっきマックスが言おうとした新作ってのが…『一万一千本の鞭』ってやつで、まぁ、平たく言えば官能小説なんだ」
マリーはギヨームを見つめた。さして暑くもないのに、額に汗が滲んでいた。
「マリー、君に、聞かれるのが恥ずかしかった。君の前では、カッコいい美術評論家でいたかった」
「バカみたい」
「全くさ」
「わたし、そんなこと気にしないのに。自分の仕事に誇りを持てない人は嫌いよ。残念だけど、今夜は別の人を探して」
マリーはギヨームの脇をすり抜けようとした。
その腕を、掴まれた。マリーはギヨームを見た。彼も、こちらを見ていた。泣きそうな顔をしていた。
「僕の魔法に一度でいい。かかってくれないか?」
「痛いわ。離してよ」
「時間を、30分だけ戻して欲しい」
「どういうこと?」
ギヨームはマリーの腕を離すと、マーガレットの花弁に触れるようにそっとマリーの肩を抱き、後ろを向かせた。目の前に、『アヴィニョンの娘たち』が見えた。
ギヨームは、背中合わせのように、自分も後ろを向いた。
彼の意図が分かり、マリーは目を閉じて小さく一回深呼吸した。
今、わたしが前に一歩足を踏み出せば、彼とはサヨナラできる。迷った。
その一瞬、クロヴィス・サゴ画廊に溢れる喧騒が遠のいた。代わりにすぐ後ろにいる彼の背中の熱と、革靴の響きだけが聞こえた。そして、そっとドレスの裾が踏まれた。
ギヨームが、振り返って言う。
「これは失礼しました。マドモアゼル…」
目を開くと、マリーも振り返った。
「マリーよ。初めまして、よろしく」
差し出された手に、そっと指を重ねた。
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そんな風にピカソの個展で出会った2人が恋に落ちるのに、そう時間はかからなかった。
1907年、パリ、モンマルトル。
マリー24歳、ギヨーム27歳の初夏だった。
マリーは日傘を差してガロー通りの坂道をのぼっていた。半分ほどのぼったところで、上を見ると、傾いた難破船のようなバトー・ラヴォワールが見えた。
秘密基地みたい!あそこで日々、世界を塗り替える芸術が生まれてる、そう思ったら、胸が高鳴って、レディのように歩いてなんていられなかった。
マリーは、坂の上から吹いてきた南風に日傘を投げ捨てると、革のブーツを脱いで両手で持ち、坂を駆け上り始めた。
バトー・ラヴォワールの2階の1番奥、2部屋続きの大きなアトリエの扉をノックした。ピカソのアトリエだった。
ギヨームは、今日の午前中はここにいると聞いていた。
「どなた?」
だから、女性の声がした時はギョッとした。
何も言えず立ちすくんでいると、ギッと扉が内側から開いた。髪を頭の上でまとめたふっくらとした女性が顔をのぞかせた。どことなくタヌキのような愛嬌のある丸顔にやや垂れ目の大きな瞳。歳は、マリーと同じくらいだった。
「あら?」
女性は何か考えるようにマリーを見た。
「あの、マリーです。ギヨームは…?」
「あぁ、あなたがマリーね。上がってよ。汗だくじゃない、どうしたの?」
「あの、ちょっと走ってきて」
「ふふ。貴女って面白いわ。ちょうどマンタロ※7が冷えてるのよ、飲むでしょ?」
※7 ミント水
「はい、いただきます。あの、それで…」
「あぁ、パブロとギヨームは散歩よ。この暑いのによくやるわ。キュビズムって言ったかしら。一度対象をバラして再構築……」
そこまで言うと、女性はアトリエの中央に置かれた大きな木のテーブルにグラスを置いた。よく冷えてるのだろう、グラスには細かい水滴がついていた。
「やめやめ。よくわからないわ。とにかく新しい絵画の話よ。貴女の彼、美術評論家なんでしょ?だから話を聞きに来たんじゃない?」
マリーはグラスの半分くらい、一気に飲んだ。ふーっと息がもれた。
「いい飲みっぷりね。フェルナンドよ。よろしく」
「はい。彼からお話は伺ってます。ムッシュパブロとは長いんですか?」
「そうね、もう3年になるかしら。喧嘩ばっかよ」
「ホントですか?」
「そうよ。嫌になるわ。貴女の彼、優しそうじゃない、熊みたいで。交換しない?」
フェルナンドが悪戯っぽい顔でこちらを見る。
こういう時、受けて立つのがパリジェンヌのたしなみだ。
「良いですよ。でも3日間にしましょ?」
「なぜ?」
「それ以上だときっとパブロ、貴女のところへ戻らなくなるわ」
そう言って、マリーは少しだけ口角を上げて微笑んだ。
「ふふ。言うじゃない。気に入ったわ。貴女とは仲良くなれそうね」
「ええ」
そこへ、乱暴に扉が開いてピカソが戻ってきた。後ろからギヨームも入ってくる。
「なんだマリー、来てたのか。知ってたら、こんなむさ苦しい男2人で出かけたりしなかった」
ピカソがマリーにハグしようと手を広げる。
「光栄です、ムッシュパブロ。でもレディにハグするなら手くらい洗って欲しいわ」
「言うね」
そう言うと、ピカソは笑ってマリーを軽く抱きしめた。
「おっとギヨーム、こいつは純粋な友情の…」
「わかってるよ」
ギヨームが苦笑する。
「あら、どうかしら。その人、手が早いんだから、ほんと」
フェルナンドが言う。
マリーはギヨームに近づいて話しかけた。
「ギヨーム、パブロと何話してたの?」
「あぁ、アンリのことさ」
「アンリ?」
聞き返したマリーにピカソが答える。
「聞いたことないか?アンリ・ルソー、画家だよ。最も今はどこの画廊にも相手にされてないが…あの絵には何かある、俺の目に狂いがなければね」
そう言って、手を洗って戻ってきたピカソはもう一度、マリーにハグしようとした。そこへ、ギヨームが割って入った。
「流石に、もういいだろ」
「おっと、そうだったな、失敬」
ピカソはギヨームの胸を拳でトントンと軽く叩いた。
マリーはそっとギヨームの背中に隠れた。
ねぇあなた、わたしの彼でしょ、もっとしっかりしてよ、そう言いたかった。
「オーケー、アンリの話をしよう。彼をバトー・ラヴォワールに呼ぼうって話をしてたのさ」
ピカソはどっかとソファに腰掛けると足を組んだ。
そこからしばらく、ピカソを中心に、アンリの話が続いた。いかに彼の絵が素晴らしいか、彼をここに呼んだら、ここの芸術家を集め、彼の作品の鑑賞会をすることなどが話された。
その間、ギヨームは相槌を打つだけだった。
途中、マリーはトイレに立った。部屋に戻る時、台所で飲み物を作っていたフェルナンドに耳打ちされた。
「彼、まるで"子猫ちゃん"じゃない。煮て食べちゃうわよ」
カッと身体が熱くなった。
席に戻るとマリーはピカソに言った。
「ごめんなさい。少し具合が悪くて。今日は帰らせてもらうわ」
「そうか、気づかなくてすまない」
「送るよ」
そう言ってギヨームが立ち上がる。
「良いわよ。大事な話なんでしょ、貴方はここにいて」
「じゃあ、フェルナンドに送らせよう」
「ありがとう、パブロ。でも本当、大丈夫だから」
「そうかい?俺のハグが"当たっちゃった"かな?」
ピカソがおどける。
「かもしれないわ。貴方って…その、なんていうか、とってもエネルギッシュだから」
そう言って、マリーはチラッとギヨームを見て、扉に向かった。
これで追いかけて来なかったら、別れる。
そう決めていた。
廊下の突き当たりまで歩き、階段を降り始めた時、背後から名前を呼ぶ声と、走ってくる足音が聞こえた。
マリーは、ふーっと息をついた。
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アパートの出窓に置かれたバジルの鉢植えを、マリーは手のひらで撫でた。家並みの向こうに、夕日が沈もうとしている。目の前の通りの石畳がオレンジに濡れている。
1907年、2人はパリ郊外のオートゥイユのアパートで、共に暮らし始めた。
「そんなこと言ってないわ。文章も絵も同じ芸術でしょ。どっちが上とかないわよ」
「でも君は、パブロの絵に心酔してる。確かに彼の絵は凄いさ。だけど彼を雑誌に取り上げたのは僕だぞ」
「良いわよ、そんなことどっちでも。ねぇ、もうすぐ日が沈むわ。何か食べましょ。お腹空いちゃったわ」
その時、アパートの扉がノックされた。
「おーい、マリー、ギヨーム」
「ジュルジュだよ。僕が呼んだんだ」
「え?」
驚いてるマリーを置いて、ギヨームは玄関へ向かった。
ギヨームに続いて入ってきたジョルジュはかすみ草の花束を抱えていた。
「やぁマリー、久しぶり。元気だった?」
「えぇ。良い香りね」
差し出されたい花束を見てマリーは言った。
「だろう?受け取ってくれるかい?」
「今日、何かの記念日だったかしら?」
「記念日?君と会える日はいつだって記念日さ」
「そう、嬉しいわ、ジョルジュ。でもそれじゃ、その花束は自分用にしてちょうだい」
「ハハ。確かにそうだね。ところでギヨーム、例のアンデパンダン展の記事は進んでるかい?」
「まぁね、今、出品者に話を聞いてるんだ」
「ジュルジュ、やっぱりそれ、受け取るわ」
マリーはジョルジュが抱えていた花束を受け取った。
呆気に取られる2人に澄ましてマリーは言った。
「あなたが帰るまで、水を入れて花瓶に挿しとくわ。こんなに綺麗に咲いてるんだもの。しおれさせたら可愛そうじゃない」
結局、夕食は近所のカフェで済ませた。
食後のコーヒーを飲みながら、ジョルジュがマリーに言う。
「最近はどんなの描いてるの?」
「わたしもキュビズムに興味が出てきて…」
「へぇそれは嬉しいね。僕で良かったら教えるよ、何でも聞いてくれ」
「ええ。でも、多分、それでもないのよ、わたしの描きたいものは。もう少し、足掻いてみるつもり」
ジョルジュは頷くとコーヒーを一口飲んだ。
「そうか。僕は君の作品の幻想性をもっと伸ばすといいと思うな」
話題が途切れたところで、ジュルジュがどちらにというわけでもなく言った。
「しかし、芸術家同士なんていいね。うまくやってるんだろ?」
ギヨームがマリーを見る。
何でわたしを見るのよ。
「どうかしら。バトー・ラヴォワールには素敵な人が多いから、目移りしちゃうわ」
「ハハ。そうか。だけどパブロはやめといた方がいい」
「忠告ありがと」
「ギヨームはどうなんだい?」
「僕はマリー一筋さ」
「そりゃそうか。たまには花でも贈れよ。100行の詩より、一輪のかすみ草だぜ」
「あら、ジョルジュって詩人だったの?」
「知らなかったかい?絵も詩も、基本は同じさ」
「どういうこと?」
「âme(アーム:魂)さ」
そう言ってジョルジュが笑う。すると突然、ギヨームが声を荒げた。
「いい加減なこと言うな。詩のことなんて何も知らないくせに」
「何怒ってるの?」
「君もだよ、マリー。何かっていうと君は僕の愛情を試そうとする。そんなに僕が信じられないか?」
マリーはギヨームに向き直った。
「信じられないんじゃないわ。頼りないのよ」
「同じだろ」
「いーや、どうだろうな。"頼りない"の方がちと悲壮感あるぜ」
ジョルジュがティースプーンをくるりと指で回して言う。
「君は黙っててくれ」
ジョルジュは肩をすくませた。
「どうやら、今夜は先に帰った方が良さそうだな。また遊びに行くよ」
ジョルジュが店の外へ出るのを見送ってから、ギヨームが口を開いた。
「僕には、国籍っていうアイデンティティがない」
「……」
「ローマで生まれて、フランスに帰化した。でもだからって、フランス人ってわけじゃない。じゃあイタリアかっていったら、僕の母親はリトアニア出身だ。父親にいたっては、よくわからない」
「……」
「フランスに来たのは10歳の頃だ。カンヌの学校に入った。そのあと、母親が行方不明になったり色々あった。僕の人生は順風満帆とは程遠い」
「それはあなただけじゃないわ」
「君はそうじゃないだろ。君みたいに明るくて綺麗なら男は誰だって君に微笑む。君にとって人生は恐るるに足りないところだ」
「馬鹿言わないで」
マリーは生まれた時から父親がいなかった。
たまに家に来る不躾な男が、自分の父親だとわかった時の全身総毛立つ嫌な感じは、今も身の内、深くにある。
「わたしはあなたの味方よ。だからそばにいるの。ねぇ、言葉じゃなく、わたしをちゃんと捕まえていて」
ギヨームは突然、マリーの手を掴んで立ち上がった。
「どうしたの?」
「ダンスホールに行こう」
ギヨームはマリーの手を引いて店の入り口へ向かった。店員はいなかったが、ギヨームは財布から紙幣を何枚か取り出すと、カウンターへ置いて店の外へ出た。
涼しい風が通りの向こうから吹いてきて、マリーは空を見上げた。家々の屋根にかかるくらい低い位置に、黄色い半円の月が浮かんでいた。
「いい照明ね。踊るならここにしましょ」
マリーは腰に手をやると、右足を前に出し、踵を上げた。
ヒールが石畳を叩いてカッ!と音が鳴る。
顎を引いて、上目遣いでギヨームを見た。
さぁ、乗って頂戴。わたし、誘ってるのよ。
タッ、タンッ、短くステップを踏んで左手を上に伸ばすと、ギヨームはマリーの腰を掴んだ。
その手が力が強くて、マリーは初めてホッとして、ギヨームの腕に身体を預けた。
笑うように月が2人を見ていた。
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窓の外で、プラタナスの葉が夏の日差しを白く跳ね返して揺れていた。
マリーは出窓に頬杖をついて、小さくため息をついた。
考えが、まとまらなかった。
1911年、夏。
ルーブル美術館から『モナリザ』が盗まれる事件が起きた。その容疑者として、ギヨームが警察に連れて行かれたのだ。
マリーの物思いを破るように、アパートの扉をノックする音がした。
誰だろう。マリーはすぐに返事をしなかった。するともう一度、ノックの音がした。どうやらバトー・ラヴォワールの住民ではなさそうだ。彼らなら名乗るか、勝手にノブを回して入って来ようとするだろう。
「どなた?」
「初めまして。ギヨームの友人の、アンドレ・ビリーです」
落ち着いた声だった。芸術家仲間にはない、その礼儀正しさが、どこかセールスマンを思わせた。
「扇風機なら間に合ってるわ」
ドアの向こうで、微かに笑う気配があった。
「今、ギヨームと新しい雑誌の創刊の話をしてるんです」
「えぇ、聞いてるわ。『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』でしょ?洒落てるわ。でも知ってて?彼、今、もっと"洒落てる"ことになってるのよ?」
今度は、もっとはっきり苦笑する声がした。
「私も、貴女のお話は彼からいつもうかがってます、マドモアゼル」
「あら、どんな話かしら」
「扉を、開けていただけませんか?それとも3度、出直した方がいいでしょうか、マドモアゼルKOUMEI※6?」
※6諸葛孔明。三顧の礼のこと
今度は、マリーが苦笑する番だった。
確か中国の故事だ。昔、聞いたことがあった。
「特別に1度でいいわ。でもギヨームはいないわよ」
「存じております」
アンドレはマリーが出したハーブティーを飲み干すと、ハンカチで額の汗を拭った。
「彼は、留置所ですか?」
「えぇ。わたし、寝耳に水で」
マリーはアンドレの向かいに腰掛けた。
髪を七三にきっちり整え、くっきりした二重にレマン湖のように青い瞳は目尻が少し下がっていて、知的で柔らかな印象を与えていた。加えて、少し愛嬌を感じるのは黒の丸フレームの眼鏡のせいかもしれない。
「当然です。ギヨームは何もしてませんよ。あの事件は彼の友人が起こしたことだ。完全な濡れ衣です」
「でも、ギヨームも関わってたんだろうって。共犯を疑われてるんです」
アンドレは眼鏡のブリッジを指でクイッとあげた。
「それは仕方ないかもしれません。彼はその友人を自分の秘書として雇っていたこともありますから」
「何でそんな人間を…」
「ギヨームとは古い仲ですが、彼は愚直で信頼に足る男です…もちろん、そんなことは貴女がよくご存知だと思うが…とにかく良い男です。けれどゴーギャンのように生き馬の目を抜くタイプではない」
「要するに、商才はないってことでしょ?あの人、生真面目だから」
「まぁ…でも、疑いはすぐ晴れますよ。すぐ元通りになる。そうなってもらわないと、私も困ります。雑誌のこともありますし」
「……」
マリーはハーブティーのグラスを掴んだまま、俯いた。
「でも、母は反対してるんです、彼とのこと」
アンドレは頷くと、失礼、と言ってウォーターピッチャーからハーブティーを自分のグラスに注いだ。
「彼と出会って4年になるんです。初めのうちは刺激し合って、彼が雑誌でわたしの作品を紹介してくれたりして、喧嘩もしたけど上手く行ってたんです。その頃から母は反対してましたが、それはいつものことなんです。だから気にしませんでした。でも最近はなんていうか…わたしも…」
「迷いが出てると?」
「今、パステルカラーを使った新しい絵に挑戦してるんです」
「……なるほど…画家としても大事な時期というわけだ。しかし…それに関しては…」
ダーン!と玄関の扉が開く音がした。
驚いてマリーが振り向いた時には既にピカソが足音荒く部屋に入ってきたところだった。
「冗談じゃないぜ、マリー。全く糞ったれだ。こいつぁ、ギヨームにも責任があるぜ」
「何よ、どうしたって言うの!?」
「このあいだ、ギヨームの友人って男から彫刻を譲られたんだ。なかなか良くできていてね、何フランか払ったかな、まぁそれはいい。問題は、そいつが盗品だったってことさ、ルーブルのね!」
マリーは絶句した。
「俺は、ギヨームの友人だから信用したんだぜ」
ピカソがギロリとマリーを見る。
「いっそセーヌに投げ捨てようかとも思ったが、そうもいくまい。さて、どうしてくれる?マドモアゼル・マリー」
「お言葉ですが、それを彼女に言うのは筋違いでは?」
「おっと誰だい、あんた。あんまり地味なスーツで気づかなかった。壁の染みかと思ったぜ。マリー、絵と一緒で男の趣味が変わるのはいいが、こいつぁいただけないぜ」
「馬鹿言わないで。彼はギヨームの友人よ。心配して来てくれたの。で、パブロ、あなたは文句を言いに来てくれたのね。嬉しいわ、ありがとう。お礼にハーブティーの一杯もご馳走したいけど、あいにく、彼の分しかないわ」
ピカソはじっとマリーを見つめた。
マリーもピカソを見つめ返した。
ピカソが、視線を横に逸らしてふっと笑う。
「安心したぜ。落ち込んでいつもの毒舌までどっか行っちまったかと思った」
マリーはピカソとハグをした。
ピカソが言う。
「何も心配するな。ギヨームは俺たち"洗濯船"の仲間だ。必ず君の元へ返す」
それからピカソはアンドレの方を向くと言った。
「さっきは失礼なことを言ってすまない。気を悪くしないでくれ。パブロだ」
「アンドレです。お名前と作品はギヨームの雑誌や本で拝見してます。お会いできて、光栄です」
2人はがっしり握手した。
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マリーはアームレストに足を引っかけて色褪せた水色のソファに仰向けになった。
「あらあら。お行儀が悪い。ここは貴女の家じゃないのよ」
焼き菓子を運んできたフェルナンドが嗜める。
「だって」
「だってじゃないでしょ」
フェルナンドはマリーより2歳年上なだけだったが、マリーは彼女に姉のような安心感を感じていた。
今日は、ピカソが出かけていて静かだからと、アトリエに誘われたのだった。
「何が不満なのよ。ギヨームも戻って来たんでしょ?」
「そうだけど…なんかしっくり来ないっていうか、違うんですよね」
「そんなもんよ、男と女なんだから」
「フェルナンドは彼と上手くやってるの?」
「さぁどうかしらね。今に別れるかもしれないわ。恋愛はワインじゃないのよ、"置き"過ぎても苦いだけだわ」
「じゃあ、わたしも別れようかしら」
「それは、ギヨームと話し合ったら?」
それからしばらく、取り留めのない話をした。
フェルナンドが焼いてくれた焼き菓子はアーモンドが入っていて美味しく、マリーにとっては久しぶりに心安らぐ時間だった。
バトー・ラヴォワールのアトリエを出ると、もう夕方だった。
ラヴィニャン通り側へ出ると、街灯にもたれるように、ギヨームが立っていた。
「ギヨーム…どうしたの!?今日はマックスのところで打ち合わせって…」
「切り上げたんだ。少し早めに。たまには君と夕空を散歩したくて」
「……そう」
「どうした?何か都合が悪かったかい?」
「ううん。待っててくれたのね。嬉しいわ」
マリーはギヨームに近寄ると手を繋いだ。
夏なのに、その手はひんやりしていた。
しばらく、黙って歩いた。
話すことは色々ある気がしたが、何から話せばいいかわからなかった。それはギヨームも同じに思えた。
「雑誌はどう?進んでる?」
「あぁ。僕が編集長になるかもしれない」
「凄いじゃない。忙しくなるわね」
「まだわからないけどね。マリー、君は?」
「うん……」
マリーは夕空を見つめながら言った。
「こういう色がいいわね。夢か現実か、その狭間のような世界を描いてみたいの」
「新境地だね」
「多分、わたしって周りから見られてるよりロマンチストなのよ」
「いや、僕はそう思ってるよ」
「本当かしら」
マリーはふふっと笑う。
「2回目な気がするよ」
「何が?」
「君と2人で話すのが。パブロの個展で出会った夜から、なんだかずっと僕らの周りは賑やかで、必ず誰かがいた気がするんだ。そりゃ、楽しくもあったけど、なんだか、いつだって僕は、君と2人きりになれる時間を探してた気がする」
マリーはまたふふっと笑った。
「じゃあ今日は夢が叶ったわね」
「あぁ」
「ねぇ、アンリの作品鑑賞会で2人で踊ったの覚えてる?」
「あぁ、君はグリーンのドレスでとても綺麗だった」
「そう…ねぇ、あの夜、楽しかったわね」
視界の先に暮れなずむセーヌが見えた。
マリーは繋いでいた手を解くと駆け出した。
後ろからギヨームの呼ぶ声がする。
マリーは振り返って叫んだ。
「ほんと、楽しかったわね!貴方もそう思うでしょ!?」
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それからしばらくして、マリーはギヨームと別れた。
その頃描いた作品に、別れを予感させるものがある。
余談だが、同じ時期、フェルナンドもピカソと別れている。
その後、マリーは結婚と離婚を経験し、第二次世界大戦では強制収容所に入れられるなど、辛い時期も過ごした。
しかし創作から離れることはなく、パステルカラーを基調としたエレガントで幻想的な作品で人気を博した。
1920年代には、彼女に肖像画を頼むのが流行り、あのココ・シャネルも注文したという。
生涯、画家として描き続け、72歳の人生を全うした。
一方、ギヨームもマリーと別れたあと結婚し、旺盛な執筆活動を続け、いくつもの著作を残した。
中でも、『キュビスムの画家たち』は、ピカソをはじめ、バトー・ラヴォワールに集まる、若き芸術家達を広く世に知らしめることとなった。
しかし第一次戦争での負傷などもあり、スペイン風邪により38歳の若さでその生涯を終えた。
その枕元には、マリーが描いた「アポリネールとその友人たち」が飾られていたという。
(終)