自分と世界が溶け合う永遠の幻想
養老孟司「世界と自分が一体化する」
以前に読んだ、解剖学教授・養老孟司著「自分の壁」第一章「自分は矢印に過ぎない」に面白い部分があったので、そこを少し以下に引用要約:
私は、とくにこの「世界と自分が一体化する」という表現に強く惹かれるものがあった。
そこで今回は、今まで私に「自分が溶けて、世界と一体化してゆく」という幻視感=vision を感じさせてくれた漫画・絵画・詩・映画・音楽の例を紹介してみたい:
伝説の漫画家:諸星大二郎の「生物都市」
突然ある日、村が未知の生命体にすっぽり包まれ、人も物もあらゆるものが融解してゆく。人々は最初、恐怖でパニックになるが、やがて、その生命体と完全に一体化してしまうと・・・
1980年代当時からすでにカルト化されていた漫画家。中でもこの一篇の着想は素晴らしく、「逆ユートピア」を感じる。
天才画家ダリ : 妻ガラに捧げた多層空間
シュールレアリスムの代表画家S・ダリには、ガラという年上の妻がいた。ガラはもともとフランスの詩人P・エリュアールの奥さんだったのだが、ダリの妻となると、才能あるダリを世に売り出す努力をする。ダリにとってガラは「美の女神ミューズ=芸術家に霊感を与える女性」となる。
ところが、ダリが名声を得るにつれて、ガラは本来の奔放な性格が表れ、ダリのもとを去ってしまう。彼女だけを永遠の女性として愛し続けたかったダリは、その後、ガラを理想の女神像のように描いた傑作を多く残す。
たとえば、以下に挙げるダリの代表作の一つ「ポルト・リガトの聖母」は、全く異なった別世界が一挙に入り込んだ多層な空間となって見事な調和と美の光景が広がっている、言いかえると、自分と空間の一体化したような、そんなイメージの作品に私は感じる。
詩人スティーブンス : 宇宙にまで拡がる家
アメリカンの現代詩人W・スティーブンスの詩に、「家は静かそして世界は穏やか」というのがある。これは、夏の夜に家の中で静かに読書することで精神が高揚し、真理へと到達する人間の意識の流れ、そして人間という存在と世界の融合=一体化を描いている作品だと私には感じられる。
家は静か
そして世界は穏やかだった
本を読みながら
その人はその本になった
夏の夜には
本が意識を持ち存在しているようで
家は静か
そして世界は穏やかだった
真理それ自体が夏であり
夜であり
夜遅くに身を乗り出して
読む人なのである
( 国文社発行:W・スティーブンス詩集「場所のない描写」より一部改変して引用 )
ここでは、「家」という最小の空間から、「真理の世界」という最大の宇宙まで、垂直水平に広がる空間イメージを感じる。「家」は物理的な外観のある建物であると同時に、精神の宿る心の状態の暗喩かもしれない。
映画監督タルコフスキー : すべてがそこにある奇跡
旧ソ連の映画監督A・タルコフスキーが、イタリアで撮った作品「ノスタルジア」のラストシーンは特に有名で、人類の映像遺産とも言うべき傑出した創造物だと思う。
廃墟となった教会の内部には、なぜか小高い丘と懐かしい故郷の家があり、もう会うこともなくなった家族や愛犬の姿も見える。やがて空よりゆっくりと雪が降り始める・・そんな幻の光景が映像として展開される。
1983年作品、今や常套手段化したCGなど当時は無く、すべて本当にロケ地で実寸大に造ったセットである。空間的、視覚的な配置が巧妙になされており、すべてがそこにあることの奇跡と抑えがたいノスタルジーが、一気に見る側の心に拡がる名シーンである。
音楽家H・バッド : 音で描く部屋
H・バッドといえば、ブライアン・イーノとの共演作「アンビエント・シリーズ」が世界的に有名だが、彼のソロ・アルバムに「The Room」がある。
エコーのかかったピアノを基調に、さまざまな電子処理音が重なり、軽快なリズム、なじみやすい旋律を排してひたすら暗く静かに心の奥に沈潜下降してゆくような音作り。それはまるで、ハンディ・カメラで迷路になったいくつもの部屋を巡り撮影してゆくうちに、部屋と自分が融解し合っていくような幻惑感に囚われてしまうような印象である。
Youtube より、stairs という曲を紹介
https://www.youtube.com/watch?v=RaIVAkZmapc
最後に、自分の作品
2013年制作、異質な空間が多層に重なり合って、この身体とともに拡がってゆく、というイメージを描こうとした作品:
この絵を基にさらに拡大して作ったのが、2016年制作、60cm x 200cm の超縦長の作品: