クリスは言う、人類に愛はまだ届いていないんだ ~ タルコフスキー「惑星ソラリス」
タルコフスキー映画について数回にわたり記事を書いてきましたが、今回は、「ノスタルジア」の次に話題にされることの多い「惑星ソラリス」について述べてみます。
まず、映画の大筋
惑星ソラリスを探査していた宇宙ステーションに不可解な現象が発生し、主人公の心理学者クリスが調査派遣される。そこには3人の科学者がいたが一人は自殺し、小人や少女、犬や手まりなど、本来あるはずのないものが見え隠れしていた。やがてクリスの身にも、自殺した亡き妻ハリーとそっくりの物体が「現れる」という怪現象が起きる。これはどうやら、ソラリス表面を覆う海に何か原因があるのではと科学者たちは考えた末に、何が起こったのか?
初回は、潜在意識下睡眠しました
人の心の深層に潜む何かを実体化させる「海」という未知の現象に遭遇した人間が、科学と非科学、情愛と理性の相克に悩まされ、それをどう解決させるか、といったきわめて哲学的な問題提起がなされている映画です。
80年代に初めて見た時、上映時間165分という長さ、延々と続く難解な対話に、ついつい「潜在意識下的な睡眠」に陥り、一緒に来た友人は開始20分後には寝息を立てていました。
ですが「鏡」と同様、再び見たときには、独特の映像美に眩惑され、内容の深さを思い知らされました。
人類に愛はまだ届いていないんだ、とクリスは言う
印象深いシーン1:無重力に浮かぶ二人
広い読書室にクリスと亡き妻ハリーとそっくりの物体が居る時、ほんのつかの間、無重力の時間が訪れます。テーブル上の燭台が宙に浮き、本が漂い始め、二人の体もふわっと回転してゆきます。そこにバッハのオルガン曲「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」が流れ、時おり、中世画家ブリューゲルの絵も映し出されます。時間にすれば1分にも満たないこのシーンは、それまでの重苦しく張り詰めて出口の見えない状況を一気に開放と救いへと向け、二人の迷える魂を天へと昇らせたかのような昇華作用があり、私には忘れ難い名場面となりました。
Youtube
Tarkovsky's SOLARIS (Trailer)
https://www.youtube.com/watch?v=BBYJH6UAAfw 1:27
クリスの抱える最大のジレンマ:「お客」との関わり方
クリスは、亡き妻ハリーの姿をした「お客」を始めは怪物扱いして、なんとか消滅させようとロケットに閉じ込めて宇宙に放ったりします。
しかし、すぐに再生してしまいます。次第にそれを人間とみなすようになるクリス。自分が妻を自殺に追い込んでしまったという罪の意識も手伝って、それにやさしく接し、やがて彼はそれを亡き妻と重ねて愛を感じるようになる、・・しかし、彼女は「本当の人間」ではなく、ソラリスの海が送ってきた「正体不明の物体」に過ぎない、・・・まさにここに、クリスの抱える最大のジレンマがあったのでした。
そういうクリスの苦しい悩みを察したかのように、知性も感情も人間化してきた「お客」は液体酸素を飲んで自殺を図るのですが、・・・・
印象深いシーン2:凍結から蘇生する物体
液体酸素を飲んで凍結死したかに見えた彼女が痙攣を起こしながら蘇生するシーンは、ある面、とても妖しく官能的な印象を受け、タルコフスキーによる女性のエロティシズムの演出はとても入念で鮮烈です。
クリスのジレンマはどう解決するのか
彼女が蘇生した後、熱にうなされてしまうクリスが以下のようにつぶやくシーンがあります:
ぼくは君を愛している。だが、この愛は感じることはできるが、観念として説明はできないような感情なんだ。自分、女、祖国とか、失うかもしれないものを愛することのようにね。今日まで、人類とか地球とかにはまだ愛は届いていないんだ、何を言っているかわかるか? 我々なんかほんのわずかなものだ、たかだか何十億じゃないか!もしかすると、ぼくたちがここにいるのは、人間を愛するということを理解するためなんだ。
( 市販DVDの日本語・英語字幕を参照 )
その後の映画の流れとして大きな変化が訪れます。人間以上に人間らしい情緒と知性を兼ね備えるまで成長した「お客」ハリーは、クリスを苦悩から解放させるべく、自らの意志で自分を消滅させてしまうのです。
独り取り残され、まだ熱にうなされる中、クリスは淡い青味がかった夢を見ます。そこには妻ハリー、まだ若い頃の懐かしき母親、現在のままの姿のクリスがいて、汚れた腕を母親に洗ってもらいます。黙って闇に去ってゆく母親を目で追いながら、クリスは「ママ!」と、呟くのでした・・・。
宇宙まで行ったのに、結局、何が大事だったのか
映画冒頭、すでにどこか人間関係や人生に疲れたような表情のクリスが、宇宙に飛び立つ前に、別れを惜しむように家のまわりの池や木立を歩き回り、家族と言葉を交わすシーンがけっこう長くあります。
地球に帰って来た彼の姿が画面に映し出されます。懐かしい我が家でしょうか、部屋の中で父親が何か探し物をしている姿を外から愛おしむようにじっと見つめるクリス。きっと、父と息子はどこか仲違いしていたような気配です。なぜか部屋の中は雨のしずくが流れ落ち続けている・・・・・
ここは、「惑星ソラリス」という映画で最も重要で、タルコフスキーが決然として描き切った最大の「見せ場」でもありますが、ここではあえて触れないでおきます、まだ未見の方のために。
ここで、本筋から少し離れ、別の角度からの批評を紹介します:
NHKテレビ番組「100分de名著:ソラリス」
~ 映画「惑星ソラリス」との相違点
NHKテキストの筆者である沼野充義氏は、原作者スタニスワフ・レムの小説「ソラリス」と、タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」との決定的な違いについて、テキストの中で以下のように説明されています。
NHKテキスト p91~93を要約:
映画の最後、原作には書かれていない地球上の家や父母が登場します。これは、タルコフスキーの映画が、異質な他者である「ソラリスの海」との対峙をやめて、限りなく懐かしいものに回帰しようとしたことを示しています。
一方の原作者レムは、ソラリスの海が起こす怪現象から目をそむけようとはせずに、あくまで未知の他者に対して開かれた姿勢をとり続けることを目指していました。
しかしながら、沼野氏の言う、この「海の他者性を無視して郷愁に回帰したタルコフスキーの映画」という見解に、私は強い違和感を覚えました。これはレムの考えであるだけでなく、沼野氏の考えでもあるわけでしょう。
以下に、この違和感への反論も含め、私の結論を述べます:
結論:
タルコフスキーが描きたかったのは
タルコフスキーが「惑星ソラリス」の中で描こうとしたのは、地球に住む人間の歴史という大きな時間の堆積の中で育まれ受け継がれる、「人類の遺産」とも言うべき感情や智恵や良心、とりわけ「愛」という定義しづらいくらい深くて不思議なものであった、と私は思います。
その「愛」とは、日常生活での人間同士の愛だけでなく、何かもっと宇宙的規模の愛でもあり、その「愛」は、亡き妻との苦い関係を修復するだけでなく、父親や他の傷ついた人間関係の修復の機縁にもなったはずなのです。
自分のせいで妻は死んだ、と気持ちだけ後悔して余生を送るのではなく、再三、その妻が目の前に出現してしまうので、無視して逃げることも出来ずあらためて二人の関係が強く問われてしまうのです。そしてクリスはそのことから目をそらさず向き合ったのであり、「海の他者性を無視して郷愁に回帰した」のではないはずです。
タルコフスキーが描きたかったのは、地上の美しい自然や親しい者へのノスタルジアではなくて、地上の美しい自然に囲まれていながらも相変わらず愚かしく無明な行為を繰り返し、一方では良心と愛の力を信じて生きんとする人間たちの、けな気で愛おしい姿であったのでは、と私は思うのです。
そして、「ソラリスの海」とは、何であったのか?
実体化された「お客」を通して、クリスに強烈な体験を与えた「ソラリスの海」は、意図せずとも、クリスというちっぽけな人間存在に「大いなる愛」を意識させたことになりますが、その実体と本質は「謎」のままです。
最後に、
タルコフスキーが描いた奇跡について
タルコフスキーの全ての映画に共通したキーワードとして「理知を超えた奇跡」があります。それらの中にはキリスト教を想わせる「奇蹟」もありますが、宗教的な奇跡だけを描いたわけではありません。
タルコフスキーが映画を通して描きたかった「奇跡」とは、21世紀に入った現在も、地上に住む我々人間たちに渇望されながらも、まだ実現されていない奇跡なので、キリスト教という既成の宗教のイメージを利用して想像的に描くか、全く別次元の魔術的な世界を創造的に描くか以外に、その「奇跡」の表現方法がなかったのではないかと私は思うのです。
日常的次元を離れて時間と空間も超えたような「奇跡の瞬間」を描いた具体例を以下に列挙します:
人間の心の闇と光、罪と良心、愛と憎悪、戦争と平和、魂の救済と人類滅亡・・などのさまざまな対立項を一気に無化して昇華させる奇跡を、彼は描いていたのではないでしょうか。
このような「奇跡」を描き続けたタルコフスキーは、映画監督と表記するだけでは言い尽くせない、21世紀現在では汎用的に使われているアーティストという呼び名とも内実の違う、根っからの苦悩型タイプの表現者( 古い時代の言い方なら芸術家 )だったと思います。