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精神障害の診断を受けた日の話

 私は大学3年生の冬、「双極性障害」の診断を受けた。

 「死にたい」という気持ちを初めて誰かに打ち明けたのは、小学校3年生のときだったと思う。小学校からの帰り道だった。

「私、自殺したいんだ」
ランドセルの肩にかける部分を握りしめながら、うつむいてつぶやいた。
「ジサツって何?」
一緒に歩いていたひとつ歳下の女の子が訊いた。
「自分で死ぬってこと。」
私が淡々と答えると、その子は「寂しい」と言って静かに泣いた。数年経った今でも覚えている。

 結局なんだかんだ生きていて、度々強い希死念慮に襲われることもあったけれど、なんとか持ちこたえている。「死にたい」と心の中でつぶやく度に、あの子が「寂しい」と泣く姿が浮かぶ。「私がいなくなることで悲しむ人がいる」という事実は、私が死の選択肢を避けるのには十分すぎる理由だった。

 両親は、私の味方でいてくれなかった。
学校では、良い子でいないといけなかった。
片道約2kmの通学路でだけ、私は本心を話せた。

 小学校低学年のとき、親の勧めでとあるスポーツのチームに入った。入ったというか、させられた。私は気が弱く、体も細くて、声も小さかった。もちろんチームには馴染めず、楽しくないのに嫌というほど走らされ、脇腹が痛くなって息も上がって苦しくなる。精一杯頑張っているのにコーチから怖い顔で指をさされながら怒鳴られ、恐怖で涙を流し、チームメイトからも白い目で見られた。大人が気付かないような些細な嫌がらせを何度も受けた。なんで私は、こんなに走らされて、苦しい思いをしないといけないのだろう?別に試合に出たいという意欲がある訳でもないのに、「やる気があります!試合出たいです!私はこのスポーツが好きです!」という姿を演じて、大人の顔色を窺って、苦しさ、暴言、いじめに耐えないといけなかったのだろう?

 私が一体、どんな罪を犯したというのだろう。何の罰が当たってこんな目に遭わされているのだろう。

 父親には「もう辞めたい」だなんて口が裂けても言えなかった。逆らえば何をされるか分からない。母親には何度も苦しみを訴えた。あしらわれるばかりで、聞き入れてもらえることはなかった。

 運動神経の悪い私が、声の小さい私が、体が細い私が、みんなとうまく馴染めない私が、悪い。全部全部、私が、悪い。この苦しみは全部私のせいなんだ。この苦しみから逃れるには、自分がいなくなるしか考えられなかった。

 余談だが、嫌でも走れば体力は着くもので、小6のときのシャトルランの記録は96回だった。クラス内の女子の中では1位。走り終えたとき、あの例の音が鳴り止まないうちにパラパラと拍手がわいた。

 小5のとき、突然中学受験をすることが決まった。もちろん親が勝手に決めた。親の期待に応えられるように精一杯勉強も頑張った。小6の夏に、受験勉強に専念するという理由でスポーツのチームも辞めた。チームを辞めるという話を監督に持ち出した際、なぜ辞めるのかと問い詰められ、チームに残ってほしいというようなことを言われた。なぜ辞めるのかという質問に対しては、事前に父親から聞いて用意していた「良い学校に行くため」という答えをそのまま口に出した。

 私の人生に、私の主導権は無かった。

 スポーツを辞めてからは、地獄から解放されたような気分だった。もう死ぬほど走って苦しまなくて良いんだ、声が小さいと怒られることもないんだ、やる気があるフリをしなくて良いんだ、体がガリガリだとからかわれることもないんだ。勉強も大変だったけれど、スポーツよりはるかにマシだった。マシすぎて、勉強がとても楽しく感じた。お陰様で無事中学受験には合格した。しかし、また地獄は始まるのだった。

 もう端的に言う。ここまで長文を書いて疲れた。中学受験は合格したけど、入学して以降、同級生のレベルが高すぎて勉強についていけなくなったのだ!!授業もハイレベル。課題の量は鬼。夜中に過呼吸になるくらい泣きながら課題をやることも何度もあった。これも、要領が悪い私がダメなんだ。部活はさすがに文化部に入った。運動部なんか二度と入らんと決めていたから。部活はまあ楽しかった。

 中1の冬。希死念慮再来。片道50分ある通学途中で、「トラックが突っ込んできたりしないかなあ」なんて頭では考えながら、足は学校へと向かっていくのであった。

 そんな感じで中学生時代は過ぎ、何度かスクールカウンセラーのお世話にもなりながら“苦登校”を続け、高校もなんとか卒業した。

 大学は、結局もともと第四志望くらいだった地元の私立に進学。ド鬱の波が来た。

 大学受験が終われば、苦しみから解放されると思った。自由になれると思った。でも、大学に着ていくための可愛い洋服を選んでいるときも、温かいお昼ご飯を食べているときも、家の洗面所でメイクをしているときも、ずーっと心に雨が降っているみたいだった。心が晴れ渡ることが無かった。「どうしてだろう?今はつらいことなんて何も無いのに。」心の違和感は続いた。

 そのまま大学3年生になった。就活の準備が始まり、本格的に将来を考える時期だ。でも将来のことなんて考えられなかった。良い未来がまるで想像できなかった。心の違和感は大きくなったり小さくなったりし、時々抱えきれないほど肥大化して私を苦しめた。「死にたい」と夜中に親しい人と電話をしながら泣いたことも何度もあった。

 11月初旬、ようやく長かった夏が過ぎ去り、吹く風の冷たさに冬の訪れを感じ始めた頃。これはさすがにまずいぞと思い、以前から気になっていたメンタルクリニックへの受診を検討し始めた。でも、メンタルクリニックと精神病院の違いもよく分からないし、探してもどこのクリニックが自分に合っているか分からなかった。そして、いきなり診察の予約の連絡を入れる勇気が無かった。そこで、「診療前相談」という制度があることを知った。クリニックに行く前に、そこの先生とビデオ通話で自分の症状を話して、クリニックに行く必要があるかないかを判断してもらえるという制度だ。私はとりあえずその診療前相談の予約をした。これもかなり勇気がいた。

 診療前相談当日。スマホを握りしめる手が汗ばんで震える。ビデオ通話で自分が今まで感じてきたことや、いまの心の状態について話すとき、涙が出そうになった。
 「死にたい、と思うことがあって……」
喉がクッとなって、上手く言葉が出てこない。なのに涙は今にも溢れそうで。自分の気持ちを誰かにストレートに伝えた経験が今まであまり無かった。とくに、このような隠しておくことが求められる、心の奥底の影の部分の話題は。一通り自分の今までの話や、今現在の生活の様子、困り事について話した。

 お医者さんからは、「双極性障害か、鬱の可能性があります。ぜひクリニックにお越しください。」と伝えられた。私に診断名が着く可能性がある。そうなれば、医療などに繋がれて、心の雨がやっと止む希望がある。

「ありがとうございました。失礼します」
ビデオ通話を切った後、すぐにクリニックの初診の予約をした。

クリニックの初診当日。スマホでマップを見ながら、少し迷いながらも無事にクリニックにたどり着いた。診察室に呼ばれ、ついに「初診」が始まった。事前にビデオ通話で自分の事を伝えていたため、お医者さんとのやり取りはスムーズに進んだ。

「双極性障害ですね。I型とⅡ型があるのですが、あなたの場合はⅡ型です。躁状態と鬱状態が波のように繰り返されるのですが、鬱の状態が長引く傾向があります。しかもそのサイクルが速い。治療は少し難しくなりますね。本格的な薬物療法が必要です。」

正式に「双極性障害」と診断がついた。
私のこの苦しみに、名前がついた。

私はわずかな希望をもって尋ねた。
「先生、治療が始まるって事は、いつか治るってことですよね?治療を始めてどれくらいで治るものなんでしょうか。」
「一生治りません。」

一瞬時が止まった。
あまりにも淡々と無慈悲に投げられた。
わずかな希望は、即打ち砕かれてしまった。

「私は今までこんなに辛い思いをしてきて、それも全部乗り越えたら自分の力になると思っていたけど、結局全部上手くいかなくて、障害が残ってしまったんだ……。やっとこの苦しみから解放されるのかもって期待したけど、一生治らないだなんて……。」
涙がこぼれた。そんな私に先生は優しく声をかけた。
「治らないですが、薬物療法を続けて、少しでも周りの人と同じように生活や仕事ができるように近づけていくことはできます。過去の原因を責めるのではなくて、治療を前向きにしていきましょうね。」

 私はそのまま、大きい病院への紹介状を書いてもらうことになった。自分が思っていたより自分の事態が深刻になっていたことに戸惑いながらも、心の雨が降り止む日がいつか来るのだという希望もかすかに芽生えた。

 1月の初旬に大きい病院に通い始め、発達障害の検査や正式なIQテストも受けた。発達障害は、ADHD(不注意優勢型)と、ASDのグレーゾーンが発覚した。自分の生きづらさが裏付けられたように思った。IQについては問題はなかったが、4つの項目の数値の凹凸が大きかった。また、主治医と何回か診察してもらう中で「複雑性PTSD」も発覚した。

「今まで本当によく頑張ってきたな、私……」

 子どもの時から今まで、ずっとずっと大人に打ち明けたかった「辛い」「嫌だ」「辞めたい」「助けて」というマイナスな思いは、数年経ってやっと誰かに受け止めてもらえたのだ。「治療」という形ではあるが、救いの手がおりてきた。

 私はこの薬物療法を始めて1年以上経った。途中で何度も薬の種類や量を変えた。ただ、少しづつ心の平穏が続く日が増えていったのを実感している。薬に頼ってばかりではなく、自分の特性や感情の波と上手く付き合っていく方法も模索中だ。少なくとも、前向きに生きようという思いを持つことができた。ああ、もっと早くから病院に通えばよかった。

 どうやら私は一生お薬を飲み続けなければならないらしい。現在はお薬を毎晩10錠ほど飲んでいるが、もうめんどくさい。でも私が少しでも前向きに生きていくには必要なものだから、できるだけ毎日欠かさずに飲む。

 現在は、叶えたい目標も見つけて、それに向かって努力している。それを支えてくれる人達にも出会えた。今はとても恵まれている。時々訪れる鬱の波とはなかなか上手く付き合えないが、周囲のサポートに特大感謝して、今後も治療しながら穏やかな日々が続いていくことを願う。


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