ゲーム制作物語『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』ガブリエル・ゼヴィン 読書感想
創作に情熱を捧げる者同士が手を組み、世界を変えていく。
しかし、それぞれが違う理想やビジョンを描いて別の道を歩もうとすることだってある。時には誰かの悪意によって打ちのめされることもあり、好きなことに取り組む意義を見失っても、立ち上がり、歩み続ける。
まさか藤本タツキの『ルックバック』のような創作をテーマに生と死を痛感する作品を体験するとは思ってはいなかった。
テーマの模倣というわけではなく、偶然同じ時期に同じような作品が生み出されている。僕は偶然にもその2つの作品に出会えた、これは奇跡に近い偶然だ。ガブリエル・ゼヴィン『トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー』を読んでそんな偶然の出会いに感謝した。
本作品は幼い頃に病院で『ドンキーコング』を通して出会ったサムとセイディが学生時代に再会を果たし、ゲームの共同開発を始め、サムの友人であるマークスがゲームをプロモーションして業界に乗り込んでいく話だ。
キャラクター像に人種や生まれ育ちといった家庭情報などセンシティブな背景が色濃く描かれている印象を強く受ける。人種や政治的思想が物語に含まれている故に、起きるイベントやキャラクターの考え方も社会性を含み、アイディンティティが試されるものになっており、日本の小説ではあまりみない。
また、登場するゲームは現実とリンクしており『スーパーマリオブラザーズ』『テトリス』『メタルギアシリーズ』『ダンジョンズ&ドラゴンズ』など1990年代後半から2000年代のゲーム登場するため懐かしさに浸れる。
一方、サムとセイディがゲームを制作することで世界に影響を与え、道を切り開いていく過程は痛快で、エンタメとしてビジネス的観点からして非常に面白く、ゲームという非日常を体験できるコンテンツがテーマになっていることもあり、現実と虚構をうまく取り入れた作品となっている。
物語はサムとセイディ2人の視点で描かれており、章ごとの視点の切り替えが絶妙で、気持ちが重なり合っている箇所、すれ違っているシーン、視点切り替えを活用したちょっとしたトリックが活用されており、見事なストーリー構成だと感じた。
メインキャラクター3人の紹介をする。
サムは本名サムソン・メイザーといい、ユダヤ系の血と姓を受け継いでいる。母親は事故で亡くなってしまったため、コリアンタウンに住んでいる韓国系の祖父母に育てられている。母親の事故の影響で自身も足に重傷を負い、入院をすることになり、そこでセイディと運命の出会いをする。
事故を追ってから孤立を選ぶようになり、唯一の友人はマークスのみだった。子供の頃から変わらずゲームが大好きで、ゲーム制作のための知識を蓄積している。
セイディは本名セイディ・ミランダ・グリーンといい、アメリカ西部の裕福な家庭の生まれ、サムとは対照的である。
サムと病院でゲームをしたきっかけは彼女の姉が病気で入院していたからという理由と、セイディの通っている学校のプログラムの一環で社会奉仕活動に参加したという経緯であった。
そのため、セイディはサムのことが忘れられなかったが、サムはセイディが友達としてではなくあくまで社会活動の一環として交流していたと思い込んで傷ついた。マサチューセッツ工科大学(MIT)に通うエリートでプログラミングを学びながらオリジナルゲームの制作をしており、サムと再会した際、制作したゲームサムにあげたことから物語が始まる。
マークスは本名マークス・ワタナベといい父親は日本人、母親はコリア系アメリカ人だ。足に障害があるサムを友人として支え、ルームメイトとして暮らしやすい環境を整えてくれてる、周囲を尊重したり気遣うことに長けた好青年。大学進学前の遊学期間中に父親が働く投資会社に1年働いていたため、セールスのノウハウを身に着けていた。
プログラミングが得意でMITの学生であるセイディと、ゲームシステムの考案やデザインを考えるサム、そしてサムの友人で全体的なプランディングやセール法を見出すマークス、この3人がゲーム業界に乗り込んでいく。
ちなみにこの物語、日本の文化がゲーム以外にも様々に登場する。宮崎駿のアニメ作品、葛飾北斎の富嶽三十六景(表紙にも神奈川沖浪裏が採用されている)そして北斎の娘、葛飾応為の『夜桜美人図』という作品まで取り上げあられ、それがサムとセイディのインスピレーションに影響を与えている
また、セイとマークスが日本に訪れる件もあり、東京観光の様子も取り上げられていて、その描かれ方が美しい。
2人が最初に共作したゲームは『イチゴ』という未就学児が無人島に漂流してしまいそこから脱出するゲームだった。未就学児という限られた知識の中でサバイバル生活をこなすというゲームシステムが反響を呼び、続編まで作られた。
そんな順調に思われた3人のビジネスであったが小さなすれ違いが大きな違いに発展していき、プライベートでもビジネスでも3人は葛藤する。
ビジネス面でいうとサムとセイディは作りたいゲームの価値観が違っていて、セイディはブラックジョークを好み社会風刺が効いていたり、女性が活躍するゲームを作りたがっていたが、社会では男が主人公のエンタメ性に富んだゲームが流行していて、セイディの価値観は受け入れられなかった。
一方、サムはセイディの作りたいゲームは理解して、協調をしたいと思いつつも、恵まれた家庭とはいえない環境で育ったため、売れるゲームを作るためなら自分たちが作りたいゲームよりも大勢に望まれるゲームを作ることを選んでしまう。
プライベート面でいうとセイディは学生時代から、授業を教える先生ドーヴと付き合っていた、ドーヴは既婚者であったがセイディは本気で、夜になると荒っぽい、束縛するような一面も含めて愛していると同時にいつまでも彼に支配されるような愛に溺れていてはいけないということも理解して苦悩していた。
この複雑な関係は物語の時代背景が関係しており、1990年代後半~2000年代のためゲーム業界に女性がいることは珍しく、業界では差別もあった。しかし、ドーヴだけが彼女の才能を見出し、彼自身もクールだけど好きなものに対しては情熱的になるセイディを愛していたので「はやくドーヴと別れたほうがいいんじゃないか……」と思いつつもこの2人のやりとりは好きで相性の良さも感じられる。
サムはケガを負った足の具合がだんだんと悪くなり、足を切断しなければいけない事態にまで陥ってしまい、彼の体の痛みがひしひしと伝わる場面が多い。またサムはセイディのことを異性として好きなのか葛藤するシーンも幾度もある。
社会奉仕としてゲームをしてくれていたと思っていても、退院してからもセイディのことを忘れられなかった。そのセイディの気持ちを表した印象的なものとして、自分はいろいろ勉強して頭もよくなり、話す相手も頭がいいから少ない会話で意思疎通ができるがセイディだけは何百時間話しても話したりない、というような表現をする。このセリフは僕のかなりのお気に入りです。
サムにとってセイディは1番ゲームをしていて楽しい人であり、一緒にゲームを作っていて有意義な人でもある。まさに、ビジネス、愛情や友情を飛び越えたかけがえのない存在だ。
そして、サムとセイディ、マークスは衝撃の事件に巻き込まれることになる。その事件のせいでサムとセイディはゲームを制作することがままにならない状況まで追い込まれるが、マークスの言葉をサムは思い出す。
以下の引用した文が本当に素晴らしいので、これだけでも覚えて帰ってください。
素晴らしいタイトル回収、このセリフはシェイクスピアの『マクベス』を引用・インスパイアしている。
ゲームは失敗してもやり直せる。現実も自分の命がある限り明日がやってくる。その明日の数だけ、自分のために誰かのために尽くすことができる。だから敗北なんて人生にとっては一時のものに過ぎない。立ち止まっている暇なんでないのだ。いちいち他の作品を挙げるのは申し訳ないとは思うがまさに『ルックバック』な物語だと感じた。