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偶像から離れよ(3)(第二説教集2章1部試訳3) #78

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第1部の試訳は3回にわけてお届けしています。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:


旧約聖書の教えにも従うべきである

 ひょっとしたらみなさんは、このようなことはユダヤ人にかかわることであり、自分たちにどう受け取れというかと言うかもしれません。しかし実際には、これはユダヤ人に対してというよりも、わたしたちキリスト教徒に大きくかかわるものです。わたしたちは神の民であるのですから、神の御言葉や律法がわたしたちにかかわりがないなどということはあり得ません。聖パウロは旧約聖書の全体にかかわって、「これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです(ロマ15・4)」と結論づけています。この言葉は旧約聖書を極めて高いところにあっていつの時代においても変わるものではないとするものです。いかなる人間も国家も服従しないなどということのない神の不変の律法や戒めを記したものであるとする言葉のなかで、これは特に的を射ています。

新約聖書にみる偶像についての戒め

しかしそれはそれとして、新約聖書にある救い主キリストの御言葉のなかから、偶像や彫像を打ち捨てる教えとその教えに対するわたしたちの義務が記されたところをみなさんにお示しましょう。新約聖書は神の極めて貴い御恵みや賜物にかかわって、キリストへの信仰を持つ人々が不毛で死した偶像を打ち捨てて永遠に祝福のある真にして生ける神へと向かうことを、多くのところで大いに喜びをもって説いています。これは特に『使徒言行録』の第十四章(使14・15)と第十七章(同17・29~31)、『ローマの信徒への手紙』の第十一章(ロマ11・30)、『コリントの信徒への手紙一』の第十二章(一コリ12・2~3)、『ガラテヤの信徒への手紙』の第四章(ガラ4・4~5)、そして、『テサロニケの信徒への手紙一』の第一章(一テサ1・9~10)に見られます。

新約聖書にみる偶像崇拝の戒め

旧約聖書と同じように、彫像や偶像そのものについてもそれらを信奉することについても、新約聖書にあっては神の霊により大いに忌み嫌われて蔑まれ強く禁じられています。いま挙げた箇所に加えて、他にも多くのところにも書かれています。『使徒言行録』の第七章(使7・41~42)と第十五章(同15・28~29)、『ローマの信徒への手紙』の第一章(ロマ1・24~27)がそうです。これらのところでは、魂と肉の両方で情欲に任せたことを行い、口に出すことも憚られるあらゆる邪さや忌まわしさを行って神に見放された偶像崇拝という恐ろしい罪について書かれています。

偶像崇拝者は神の国を受け継がない

『コリントの信徒への手紙一』の第五章には「きょうだいと呼ばれる人で、淫らな者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を罵る者、酒に溺れる者、奪い取る者がいれば、そのような人とは交際してはいけない、一緒に食事をしてもいけない(一コリ5・11)」とあります。偶像を崇拝することは、『ガラテヤの信徒への手紙』の第五章では「肉の行い(ガラ5・19)」の一つに数えられ、『コリントの信徒への手紙一』の第十章では「神ではなく悪霊に献げている(一コリ10・19)」ものとされています。またこの手紙の第六章(同10・9)と『ガラテヤの信徒への手紙』の第五章では「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません(ガラ5・21)」と述べられています。この他にも複数のところで「神の怒りは不従順の子らに下るのです(エフェ5・6、コロ3・6)」と警告されています。

子たちよ、偶像から身を守りなさい

聖ヨハネは自身の書簡のなかでわたしたちに「子たちよ、偶像から身を守りなさい(一ヨハ5・21)」と述べています。聖パウロはわたしたちに分別があるのなら、つまりわたしたちが命を尊んで滅びを恐れるのなら、また神の御国と永遠の命を信じて神の怒りと永遠の劫罰を畏れるのなら、「偶像礼拝を避けなさい(一コリ10・14)」と言っています。偶像を崇拝する者であると同時に真に神に仕える者であるということはあり得ません。これは聖パウロが『コリントの信徒への手紙二』の第六章で強く訴えながら説いているとおりです。「光と闇とにどんな交わりがありますか。キリストとベリアルとにどんな調和がありますか。信者と不信者とにどんな関係がありますか。神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです(二コリ6・14~16)。」

使徒たちは崇敬されることを拒んだ

この箇所は偶像を崇拝するべきではないということと、教会のなかに偶像を置いてそれを崇めることのないようにということの両方を説いています。もっとも、実のところ偶像はそれ自体としては決して大きな意味を持つものではありません。この箇所を読めばわかるとおり、神の生ける似姿であるキリスト教徒そのものこそが聖なる神殿です。善き信仰を持った人であれば、自分たちが人間であるという理由で足元にひれ伏され拝まれることや、自身にいけにえが供されることを忌み嫌います。そのようなことは神に対してのみ相応しいものです。『使徒言行録』にあるように、聖ペトロはコルネリウスにそうすることを禁じていますし(使10・25~26)、聖パウロとバルナバはリストラの人々に同じことを禁じています(同14・13~15)。

天使も崇敬されることを拒んだ

いまわたしたちのなかには狂った人間のように聖ペトロや聖パウロの死した彫像や偶像の前にひざまずき、木や石でできた像にその誉れを向ける者もいますが、この二人は人間である自分たちにそのようなものが向けられることを忌み嫌うべきであると考えていました。また『ヨハネの黙示録』にあることですが、神の善き天使はその誉れを聖ヨハネから献げられたとき、自身の足元にひれ伏して祈りを向けられることを拒みました。この天使はこう言います。「やめよ。私は、あなたや、イエスの証しを守っているあなたのきょうだいたちと同じく、仕える者である(黙19・10、同22・8~9)。」

サタンは崇敬されることを望んだ

しかしこれに反して、邪悪な天使であるサタンはひれ伏して拝まれることを望まないどころか、そう望むことによって本来あるべき神の誉れを奪い、神を極めて低いところに置くという忌まわしい行いをしました。これは福音書の多くのところにあるとおりです(マタ4・8~9、ルカ4・5~7)。サタンは自身に対してひれ伏して拝むことを条件に、救い主キリストにこの世にあるあらゆるものを与えようともしました。しかし、わたしたちの救い主は聖書の言葉をもってサタンに対されました。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある(ルカ4・8)。」

サタンに祈りを捧げる人間たち

このように聖書に教えがあるにもかかわらず、わたしたちは神のみを讃えて神のみに仕えるのではなく、聖書にあることに反して偶像を崇拝し、サタンをわたしたちに引き寄せてその欲望に無条件で従おうとしています。誤ってそうしているのではなく、すすんでサタンに供えものをして祈りを捧げてしまっています。

サタンに従わず善き天使に従うべし

愛する者たちよ、邪悪な天使にして陰険な蛇である狡猾なサタンの誘いにではなく、神の善き天使の導きに従いましょう。サタンは高慢のゆえに高いところから落ちていながら、いつのときも神聖を汚して、神を憎み神から誉れを奪おうとしています。サタンはその顔が恐ろしく醜くあるため、うわべだけ美しく整えた木や石を方便として使っています。神の誉れをわが身のものとしようとして、わたしたちを神に仇なす者となし自身に付き従う奴隷として、その報酬としてわたしたちを永遠の破滅と劫罰へと導きます。

結びの短い祈り

わたしたちがその名のとおり真のキリスト教徒であるために、すべてのことにまさって救い主であり教師であるキリストの言葉を信じ、その律法を守りその教義に従って、造られたものを拝むという偶像崇拝へのサタンの誘いを打ち捨て、イエス・キリストの福音において唱えられ説かれている真理に従いましょう。イエス・キリストに神の祝福がありますように。アーメン。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第1部「偶像から離れよ」の試訳3でした。これで第1部の試訳を終わります。次回から第2部に入ります。まずは解説を3回に分けてお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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