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手で造られたものは呪われる(3)(第二説教集2章2部試訳3) #84

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第2部の試訳は6回にわけてお届けしています。今回はその3回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:


教えを説くための絵画が教会堂に入る

 テオドシウス二世とマルキアヌスという皇帝たちの時代に、つまり主が生誕された年からおよそ四百六十年という、現在からは千百年前の時代に、ノラという町の人々が年に一度、神殿で聖フェリクスの生誕日を祝っていました。人々はそこで贅沢な宴会をしていたのですが、ノラの主教であった聖パウリヌスがその神殿の壁に旧約聖書にある逸話をもとにして絵を描かせたことにより、人々がその絵をよく見てよく考え、暴飲暴食や乱痴気騒ぎから身を遠ざけるに至りました。これと同じ頃に、極めて学識ある詩人として名高いアウレリウス・プルデンティウスが、聖カシアンの受難のありさまが教会のなかに描かれているのを目にしてどう思ったのかを述べています。聖カシアンはある学校の校長にして殉教者であり、暴虐な皇帝の命令によって生徒たちに尖った鉄や青銅のペンで体を突き刺されて苦しめられ、おそらくは千を超える傷を受けて残酷にも死に至らしめられました。これら二つの絵画は教会堂に置かれた、古代にあって目を見張るべき最初の絵画でした。そもそもこのように絵画の形であったものが、その後、木や石などで造られた偶像となってキリスト教の教会堂に入ってきたのです。

これが偶像崇拝に傾く始まりだった

このそもそもの始まりをみて、人々が壁や窓にある絵画に目を向けることと宝石などでけばけばしく細工を施された偶像を崇拝することとが、似て非なるものであることに気付くでしょう。多くの人々の身振りや行動で彩られる物語の流れやその全体像は、生気なくただ立っているだけの偶像や彫像とは違って伝えるものを持っています。しかし、絵に描かれた物語によって学ぶことが少しずつ偶像崇拝に近づいていきました。皇帝や学識ある主教たちに加えて信仰に篤い一般の人々もこのことに気付き、そのような絵画も偶像や彫像も、もう用いられるべきではないとしました。

偶像崇拝を禁じるローマ皇帝の勅令

これにかかわって、救い主キリストの生誕からおよそ四百年のちに君臨し、個人的に造られたり描かれたりするどのような偶像をも禁じたウァレンスとテオドシウス一世という二人の皇帝の勅令についてお話しましょう。実際その時代には神殿に偶像はありませんでした。この二人の皇帝は自身に付き従う軍の司令官に対して次のように命令しました。「皇帝ウァレンスとテオドシウスは軍の司令官に対し、次のように命令する。我々はあらゆるものの上に、神への信仰を持ち続けることに真摯であるべきであるから、石などに彫刻を施したり、彩色を施したりして、救い主キリストの像を掲げることを誰にも許してはならない。どのような場所であれ、そういったものが見つけられ次第、それを打ち壊して、この勅令の定めるところに反した者すべてを、極めて重く罰するものとする。」

この勅令は後の世に伝えられている

この勅令はユスティニアヌス一世の命令で、トリボニアヌス、バシリデス、テオフィルス、ディオスクルス、そしてサティラという極めて学識のある人々によって編纂された『リブリ・アウグスターレス』すなわち『皇帝の書』という書物に収められています。また、かの著名なペトルス・クリニトゥスの著書『栄えある学識について』の第九巻第九章にも引用されています。みなさんはかつてのキリスト教国の君主たちが、しだいにキリスト教徒のなかに広がりつつあった偶像を否定するためにどのような勅令を出したのかがおわかりでしょう。救い主キリストの肉体の死から信仰に篤い皇帝たちの御代に至るまでの三百年ほどの間は、教会堂という神殿のなかに公に偶像が置かれることなどありませんでした。もし偶像崇拝が古くから権威を持っていたら、偶像崇拝は今の世にあってどれほど蔓延っていたことでしょう。

蛮族の侵入によるキリスト教界の混乱

 この時代のすぐあとにゴート族やヴァンダル人やフン族など蛮族の国々が、猛烈で強大な力をもってイタリアのみならずヨーロッパ西部のあらゆるところに勢力を拡大しました。彼らはあちこちに攻め入りって都市を破壊し、図書館を焼いて、あろうことか学問の成果や宗教の真の教えを記したものが破られ灰となりました。この混乱の最中はもとより、この後の世においても主教たちの学識は乏しくなりました。彼らはその前の時代に生きた主教たちよりも神の御言葉によく耳を傾けられなかったので、蛮族の王たちを真の教えに教化することはできませんでした。守るべきものを守れなかったという主教たちの怠慢によって、蛮族が支配するに至ったヨーロッパの西側地域で偶像が教会堂のなかに入ってきました。布に色彩を施すのみならず、石や木や金属などに細工を施してそれらが置かれただけでは飽き足らず、それが崇拝の対象にもなってしまいました。

偶像を打ち壊した主教セレヌス

 このようななか、救い主キリストの生誕からおよそ六百年の後に、現在はプロヴァンスと呼ばれているガリア・ナルボネンシスの州都マルセイユに、信仰に篤く学識の高い主教セレヌスがいました。彼は人々が偶像に惑わされて極めて忌まわしい偶像崇拝に陥るのを目にして、街にあったキリストや聖人たちの像すべてを粉々に打ち壊しました。それゆえ彼は、あらゆる古くからの文書や歴史において教会堂に偶像を置くことを認めたと知られる、かの名高いローマ教皇グレゴリウス一世に非難されました。現代のすべての偶像崇拝者はこのグレゴリウス一世に自らの正当性の根拠を求めようとしています。

教えを説く絵画は偶像となっていた

しかし、そもそもよくないものというのは、許容できる範囲で始まったとしても、しだいに悪くなっていき、ついには許容できないものとなるものとなるものです。この偶像の問題も同じでした。はじめのうち、人々は個人のものとして木版や布や壁に聖書の物語を描いていました。そうしているうちに、けばけばしく細工を施された偶像が個人宅に置かれるようになりました。そしてついには、はじめに絵画が、ついで細工を施された偶像が教会堂に入り込むようになって、信仰に篤く学識ある人々が非難の声を上げるようになりました。はじめのうちは偶像が教会にあるというだけの状態で保たれていたのですが、やがてなし崩しになり偶像が崇拝されるようになりました。

グレゴリウス1世のセレヌス批判

このことについてはグレゴリウス一世が、さきほど名を挙げましたマルセイユの主教セレヌスに宛てた書簡のなかではっきりと書いています。それは『グレゴリウス一世書簡集』の第四部の第十章に収められていますが、次のように述べられています。「あなたは偶像に崇拝を向けることを禁じたが、これは喜ばしいことである。しかし、あなたが偶像を壊したことは、非難されるべきである。というのは、絵画を崇拝することと、絵画によって崇敬されるべき事柄を知ることは別のことだからである。読み書きのできる人々に対して書面というものがあるように、それができない学識のない人々に対しては絵画がその役割を果たすのである。」

民を教化するものを破壊する必要なし

このすぐあとのところでは、「教会堂にただ置かれているだけで崇敬の対象とはなっていない、無知蒙昧の人々を教化するためのものを打ち壊すべきではなかった。」そのうえで、「あなたはこう言うべきだったのだ。『人々を教え導くために、古い時代に造られた偶像を教会に置くのなら、それらが人の手で造られているものであるということと、あなたがたがそれを所持して人々に見せるということを私は認めよう。絵画のかたちで広く聖書の物語を見せるのではなく、その絵画に対して不適切に崇拝が向けられるのであれば、そのようなものは忌み嫌わねばならない。』偶像を造ることを禁止はしないが、どんな偶像にであれ崇拝を向けることは避けられなければならない。」

グレゴリウス1世の目論見違い

これらはグレゴリウス一世がセレヌスに宛てた書簡から一部を抜き出したものです。すべてを読み上げるとするとかなりの長さになるものなのですが、みなさんはキリストの生誕から六百年の後にあったことがこの現代にも通じると理解することができるでしょう。教会堂に絵画を含めた偶像を置くことは、世界の東半分ではまだそれほど行われていなかったものの、西半分ではすでに行われていて、しかしまだそれを崇拝することは強く禁じられていました。みなさんはグレゴリウス一世の書簡のなかに偶像を崇拝することへの是認はなく、むしろそれへの明らかな非難があることに気付くでしょう。グレゴリウス一世は偶像を崇拝することを不当としていました。彼の考えでは、教会堂にある偶像は人々を教え導くのではなく、むしろ人々の目を曇らせるものとされています。彼はこの書簡のなかで、無知な人々を教え導くためとしてあるのでないなら、教会堂に偶像があるべきではないとも述べています。偶像が教会堂で崇拝されてしまえば、そこでは人々に対して誤謬か虚実のほかはなにも教えられはしないということは明らかです。

偶像を置くことで偶像崇拝に至った

神の御恵みによってはっきりと言いますが、グレゴリウス一世自身の考えにもあるとおり、わたしは偶像も偶像を崇拝する者たちもすべて打ち捨てられるべきであると信じております。しかし当時の西方教会でグレゴリウス一世の権威は非常に大きく、彼の言葉をもとにして人々はあらゆる場所に偶像を置いてしまっていました。なぜ彼が偶像を持つことをよしとしたのかについて人々はよく考えもしなかったので、人々は偶像を崇めて明らかな偶像崇拝に陥ってしまいました。主教セレヌスも、グレゴリウス一世とは異なる考えを持っていたのですが、この事態を憂慮しました。セレヌス自身の考えでは偶像はやがて偶像崇拝につながるので壊されるべきであり、このとおりに為されていたらこのときに偶像崇拝は打ち捨てられ、現代において誰も偶像崇拝を犯しはしていないはずでした。しかしグレゴリウス一世の考えでは、教会堂に偶像を置くこと自体は認められており、崇拝の対象とだけはしていけないとされています。

偶像崇拝をしたことによる世界の悲惨

神の教えを貶めるどのような堕落やどのような害毒がこののちキリスト教界にあまねく降りかかったのかを、わたしたちは歴史の経験のなかで大きな痛みや苦しみをもって知っています。まず、偶像に関して東西教会の間に宗派の分立が起こります。ローマ帝国が二つに分かれたことによって偶像についても分派が起こり、キリスト教界全体の大きな弱体化につながります。キリスト教やギリシアの帝国や東方のあらゆる地域の大いなる凋落が起こり、マホメットの偽りの教えやサラセン人やトルコ人の非道な圧政が勢いを増して、この西側の世界に勢力を広げ、わたしたちを斬首して追いやろうとするに至っています。こういったことになっているのはすべて、わたしたちが偶像や彫像に目を向けたからであり、わたしたちが偶像崇拝をしたからなのです。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第2部「手で造られたものは呪われる」の試訳3でした。次回は試訳4をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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