解説 偽預言者に注意せよ(後編)(第二説教集2章3部) #90
原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)
※第3部の解説も3回にわけてお届けしています。その3回目です。
※第2章の全体像についてはこちら:
第3部の解説の3回目です。テーマを聖句で表したものと、第3部のポイントを確認します。
しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。(マタイによる福音書 18章6~7節)
①第2部までの振り返りと第3部の目的
②偶像を正当化する者たちのへの反論
③偶像および偶像崇拝の持つ問題点の整理
④偶像によってどれほど信仰が乱れているか
⑤キリスト教会が全体として抱えている問題
⑥偶像崇拝に対する世の法の無力
⑦偶像に惑わされることへの戒め
⑧真の信仰に立ち帰ることの勧め
⑨まとめと結びの短い祈り
今回はこのうちの⑥~⑨についてです。
これまでのまとめとして、世の法などが偶像崇拝を禁じても、それが有効ではないということが述べられます。
人の世では幾度となく偶像崇拝をなくす試みがされましたが、結局のところなくなっていません。それもそのはず。偶像があれば偶像崇拝が起こるからです。
あらためて、偶像に惑わされないようにと訴えられます。
さらにこのように説かれます。
そもそもの間違いは偶像が存在することであり、偶像が教会堂のなかに置かれていることであるというのはこの説教を通して強く訴えられていることではありますが、原点に立ち返るべくかなり古い時代の教会堂のありかたについて言及されます。
ここには豪奢できらびやかな装飾はなく、もちろん偶像もありません。この上にたって、理想の信仰と教会堂の在り方について次のように説かれます。
また、偶像崇拝を精神的な姦淫とすることにかかわっては、夫と妻の喩えをもって説かれています。
この上にたって、この説教は結びの祈りに向かいます。そのなかで、偶像など打ち捨てて、真に神に向かうべきであると説かれます。
今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第3部「偽預言者に注意せよ」の解説(後編)でした。とても長い説教ですので、かなりの駆け足で解説をした感があります。次回から試訳を投稿しますが、何度も言いますとおりとても長い説教ですので、10回に区切ってお届けすることになります。ローマカトリックへの対抗があってのことでもあるとはいえ、当時これほどの熱量をもって偶像崇拝が禁じられていたということを感じてもらえればと思います。
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