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手で造られたものは呪われる(2)(第二説教集2章2部試訳2) #83
原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)
※第2部の試訳は6回にわけてお届けしています。今回はその2回目です。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:
エピファニオスは受け入れられていた
偶像は秘かに音を立てず忍び足で、個人宅から教会堂へと蔓延ってきました。はじめのころは信仰に篤く熱心な主教などの絵を描いた布で壁を装飾するというものでした。そのようなものを律法やキリスト教に反するものとして取り去ったのは、エピファニオスの書簡を翻訳した聖ヒエロニムスや『教会史』の筆者たちだけではありませんでした。学識があって信仰に篤い聖職者たちもそうで、救い主キリストが生誕されておよそ四百年の時まで、キリスト教会すべてが、エピファニオスが為したことに意見を同じくしてそれを認めていました。いまここでエピファニオスについて詳しく述べているのには理由があります。現代に生きる偶像に重きを置く者たちが古代の主教であり権威ある博士であるエピファニオスの極めて純粋で熱心な行いを残した書簡に脅威を感じ、これがエピファニオスの手によるものでもなく聖ヒエロニムスの翻訳によるものでもないとしようとして、真理に反抗する無意味な働きをしているからです。
エピファニオスを貶める偶像崇拝者
「どちらであれ」と彼らは前置きして言います。「大きなことではない。なぜなら、このエピファニオスという人物は」と言って次のように続けます。「ユダヤ教徒であり、のちにキリスト教に改宗して主教となったのであり、ユダヤ教徒が偶像に対して持つものを心に持ったままだった。キリスト教徒としてというよりはユダヤ教徒として、偶像を否定してものを書くなどしていたのだ。ああ、ユダヤ教徒の厚かましさと悪意たるや。」エピファニオスがユダヤ教徒であったということはわかっていることで、わざわざ言うまでもありません。彼らの言い分についてもわたしは容認しましょう。しかしエピファニオスがユダヤ教徒であり、そもそもは神に仇なす偶像を持った敵であり、キリスト教に改宗してキリストの教えに従ったという理由で、偶像に対する彼の考え方が受け入れられないというのはどうなのでしょうか。それならば偶像に対する考えを述べている古代の博士や教父たちのどの言葉も権威のないものとなってしまいます。
古代教父は皆もとは異教徒だった
原始教会にあっては学識ある人々のほとんどがもとは偶像を好んで崇拝する異教の徒であり、のちにキリスト教に改宗しています。テルトゥリアヌスや聖キプリアヌスや聖アンブロシウスや聖アウグスティヌスなど、枚挙にいとまがありません。彼らのペンから偶像に関して何かしらのことが書き出されるのは、『教会史』でのエウセビオスのように、キリスト教徒としてではなく異教徒としてでした。聖ヒエロニムスははっきりと「偶像は異教徒たちからわたしたちキリスト教徒に入ってきた。」と述べています。このあとには、偶像を正当化する教皇の教会が持つ狂乱めいた考えには何の権威もないとされるべきだと書かれています。とはいえ、子どもの時から偶像や彫像に囲まれて育ってきて、偶像崇拝を母乳のようにしていた彼らが偶像を善いものとして語ったり、ものを書いたりするのは驚くことではありません。エピファニオスはそれが神の御言葉に鑑みてどれほど受け入れらないものであるのかを述べました。彼の考えは極めて真っ当であり、エピファニオスがユダヤ人で異教徒の出でありのちにキリスト教に改宗したというのはそれほど問題とすることではありません。
アンブロシウス
聖アンブロシウスはテオドシウス帝の死にあたっての請願のなかで次のように言っています。「ヘレナは十字架とその表面にある称号を見た。彼女は主を崇敬していたのであって、その十字架のもととなっている木を崇敬していたのではないというのは確かである。もっとも木を崇敬するのは異教の過ちで、邪悪なるものの虚栄にすぎない。ともかく彼女は十字架につけられたあのお方を崇敬したのであり、そのお方の名が書かれていたのである。」この信仰に篤い母后と聖アンブロシウスの考えを合わせて見てください。二人とも救い主キリストご自身の貴い血に染まった十字架そのものを崇めたことを異教の過ちであり邪悪なるものの虚栄であると考えています。わたしたちは木で造られた十字架ひとつひとつの前に跪くのですが、それは十字架という偶像に過ぎません。
アウグスティヌス
古代の博士すべてのなかで最も学識のある聖アウグスティヌスは、マクシムス帝にあてた書簡の中で次のように述べています。「知っておられるでしょうか。死した人間はもとより、神に創られたあらゆるものは、あなたのお住まいになっている街にも教会堂を持つ正統的なキリスト教徒の神として崇められるべきではないのです。」気付いてほしいのは、聖アウグスティヌスによれば死者も含めて被造物を崇めるのは正統的なキリスト教徒の為すことではないということです。
アウグスティヌスの著作
彼は『神の国』の第十二巻の第十章で次のように説いています。「教会堂という神殿は殉教者や聖人たちのために建てられるべきものではない。神のためのみに建てられるものである。聖職者は殉教者や聖人たちのためにいるのではない。神のみのためにいるのである。」また聖アウグスティヌスは、『カトリック教会の道徳』という著作のなかで次のように述べています。「墳墓や絵画を崇拝する者がたくさんいることは知っている。多くの者が死者の墓の上で乱痴気騒ぎをして酒宴をもうけ、死者の亡骸に肉を食させ、亡骸の横に身を横たえ、暴飲暴食を宗教としている。」聖アウグスティヌスは聖人の墓や肖像画を崇めることが暴飲暴食をするのと同じくらいに大きなことであるとしています。それ以上でもそれ以下でもありません。
偶像は不幸せな魂を歪める
聖アウグスティヌスはマルクス・テレンティウス・ウァロが宗教は偶像を持たない限り純粋であると主張していることを受け、「偶像は不幸せな魂を教化するのではなく、それを歪める力を持っている。」と言っています。さらに続けて「子供であっても、また獣でさえも、自分たちが目にしているのは神ではないと分かっている」とも言っています。しかしそれならば聖霊は、その子供でさえもが知っているところからどのようにわたしたちを導くというのでしょうか。これに対して聖アウグスティヌスは次のように答えています。「偶像が神殿に置かれ、誉れある荘厳なものであるとされてひとたび崇拝されると、そこから堕落した極めて誤ったものが生まれる。」
偶像があれば偶像崇拝に傾く
これは教会堂にある偶像に関する聖アウグスティヌスの考え方であり、偶像があることで徐々に偶像崇拝という過ちに陥っていくということです。偶像や彫像などを否定する古代の博士たちのこのほかすべての言葉をこれ以上お聞かせすると、みなさんはおそらく退屈になるでしょう。しかしそれはわたしたちがこの現代にあってそういう言葉を聞き慣れていないからです。教会史をひもといてこの問題に触れれば、いつ、なぜ、誰の手で偶像が初めて私的に用いられ、その後キリスト教徒によって教会堂という神殿で用いられ結果として崇拝されるようになったのかがわかります。また偶像が信仰に篤い主教たちや学識ある博士たちのみならず多くのキリスト教国の君主によって、どのように否定され排斥され禁じられてきたのかもわかります。わたしはこの問題にかかわり、あまたの古代の著述家や歴史記者たちが書き残した多くの事柄について、歴史を概観して短くお話をしようと思います。
神は偶像崇拝を禁じられた
詳しくお話しておりますとおり、ユダヤ人は神から極めて平明ではっきりとした戒律を与えられました。彼らはいかなる偶像を造ることも崇めることもしてはならないとされましたが、それにもかかわらず彼らは神を信じない異教徒の例にならい、偶像とともに生きてそれを造って崇め、偶像崇拝を犯すという過ちに陥りました。彼らの聖なる預言者が言っていたとおり、神は彼らを咎めて警告し、ついには大いなる罰をもって彼らにあたられました。これらはさきに詳しく述べたとおりです。確かに古代のキリスト教徒のなかにも、偶像という偽りの神から離れて真の生ける神と救い主イエス・キリストに立ち帰ったものの、人々が長く偶像に対して持っていた盲目的な熱狂から、救い主やその母であるマリアや使徒たちの像を造りそれに彩色を施す者もいました。神についての知識や福音についての教えから自分たちが得たところによって、これが感謝と敬意の表れであると考える者もおりました。しかしそのような絵画や彫像はだいぶ後の時代になるまで教会堂に入っては来ませんでしたし、それが崇拝されることもありませんでした。
エウセビオスの『教会史』
わたしがこういったことを何の根拠もなく思い込みのみで語っているのだとみなさんが思わないように、カエサリアの主教であり『教会史』の著者であるエウセビオスを引き合いにださせてください。彼が生きたのはわたしたちの主が生誕されてからおよそ三百三十年ののちであり、コンスタンティヌス大帝とその息子のコンスタンス一世の時代でした。『教会史』第七巻の第十四章にも、また聖ヒエロニムスが書いた預言者エレミヤに関する著作の第十章にも、次のように述べられています。「偶像にかかわるあの過ちは、異教徒から、つまり異教の慣習によって、キリスト教徒の中に入り込んできたのである。」エウセビオスはその理由と手段について次のように語っています。
偶像崇拝は異教の慣習からである
「かつて異教徒であった人々がわたしたちの救い主を信じるようになり、彼らがキリストから受け取った御恵みに対して献げものをしようとしたというのは驚くことではない。そう、わたしたちはペトロやパウロの、また、わたしたちの救い主ご自身の彫像が造られ、あるいは木版に彩色が施されているのを目にしているが、これらはわたしが思うに、異教の慣習によく見られてきたものである。異教徒は拝むべき価値があると思うものに誉れを向けるのであり、その伝統は受け継がれていく。後代に記憶が残ることが先人としてある者の誉れの徴であり、後に生まれる者への愛なのである。」
異教の慣習を捨てきれず偶像に走る
ここまでわたしはエウセビオスの言葉を朗読してきました。聖ヒエロニムスと同じくエウセビオスも、偶像がいわゆる異教徒からキリスト教徒のなかに入ってきて広まったのだということと、人々がキリストへの信仰を持つようになっても異教的な慣習を捨てきれずに残したままであったとしていることがわかります。聖ヒエロニムスはこれを過ちであるとはっきり言っています。『使徒言行録』にあるように、ユダヤ人がキリストを信じようとするにあたって、自分たちに長くなじんでいた慣習をキリスト教のなかに持ち込んだことをわたしたちは知っています(使15・5)。使徒のなかでも特に聖パウロがこの問題について強い言葉を発しました。とはいえ割礼についてはあまり大きな問題ではありません。なぜならそもそもこれは神との契約や戒律として始まったものだからです。
偶像はやがて教会堂に入った
人間は守るべき神の聖なる御言葉や明確な戒律に真っ向から逆らい、偶像を崇拝するに至ります。しかし、偶像はエウセビオスの時代においてはまだ崇拝されてはいませんでしたし、教会堂という神殿に見える形で置かれてもいませんでした。個人的に偶像を拝んでいた人々は確かな熱意ゆえにそうしていたのであり、邪な考えからではありませんでした。偶像はやがて個人宅から教会堂へといつの間にか入ってきて、はじめは迷信めいたものであったのが、キリスト教徒の間で偶像崇拝というかたちをとるようになったのです。
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今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第2部「手で造られたものは呪われる」の試訳2でした。次回は試訳3をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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