【魔王と暗殺者】私と彼女の人生は儘ならない。【[It's not]World's end】
一章【呉 理嘉 -転生-】
【転生】1歳 ママと妹と私と
暖かい。
そう思った。
それが、私が部屋に入って最初に感じたこと。
部屋全体を包む、まるで麗らかな春の陽気のような感覚。
私はこの感覚を知っている。
忘れるはずがない。
ほんの1年前に私は同じ感覚に包まれたのだから。
部屋の中央に設置された寝台に目をやると、浴衣のような白衣を着たママの姿が映った。
ヘッドボードに背中を預け、こちらを見つめ微笑んでいる。
うわぁ。やっぱり綺麗な人だなぁ。
私はママの姿に何度もそう思わされる。
ふとした瞬間。日常の中で。いつも。
ぽわぽわとした柔らかな表情にとろんとした垂れ目。
甘い甘い、わたあめの様な。
まるで少女みたいな大人の女性。
薄い白桃色のふわふわとした長い髪はお尻の下くらいまでの長さがあり、今は一つの大きな三つ編みに束ねられている。
髪質は見るからに軽くて柔らかそうなのに全然乾燥などはしてなくて、しなやかな艶があってキラキラしている。
そしてママの笑顔の中心にあるエメラルドの様な翠玉色の瞳。
森の木漏れ日を汲み取ってきたみたいな温かな瞳の色がとても綺麗で、ずっと見ていたくなる。
素敵な女性。
私のママ。
「リリ、ありがとう。ザライト様、ネイちゃん、可愛い女の子ですよ。さあ、近くに来て?」
「ままあーー」
ぎゅうっ、と強い力が私を襲う。
それは胸を締め付ける郷愁。
たった数時間。ほんの3時間程度離れていたれていただけなのに。
私はリリに抱かれたまま、両手をママへと伸ばす。
と同時に私は『ダメだ』と伸ばした両手をグッと引き寄せ拳を握り締めた。
その一瞬の行動に自分でも戸惑う。
私はどうしてしまったのだろう。
中身は16歳。大人の一歩手前なのに。
今、無性にママに甘えたい。
幼児退行みたいなものなのか。
いや、現に私は幼児なのだから、これは自然な気持ちなのか。
でも、今はそれ以上にママに触れたくない。
ママを抱き締めたいという衝動的な感情と、ママに触れたくないと反発する心。
その矛盾に私は困惑してしまう
こんな理不尽なワガママを抱くなんて、転生して身体が子供になったせいで、心まで幼くなってしまってるのだろうか。
こうやって冷静に自分を見つめることは出来るのに、それでも、何ものにも縛られず思うままに動きたくなる時がある。
もやもやとした感情が、私の視界に映る白い布で包まれた膨らみを捉える。
「ネイちゃん、ほら、見て。この子がネイちゃんの妹よ。すっごく可愛いでしょう……?」
ママは微笑んで、抱き抱えているおくるみの中を見せるように身体を起こした。
「ああっ、奥様、急に動かれてはいけませんっ!」
寝台の傍らに控える三人の助産師の一人が心配そうにママの背と脇腹に手を添える。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫よ。赤ちゃんを産むのは2回目なんですもの。体の動かし方はネイちゃんの時にちゃあんと心得たわ。だから大丈夫なの。……それよりも、リリ? こちらに来てちょうだい。ネイちゃんに、赤ちゃんを見せてあげたいの」
助産師に落ち着くよう一言声をかけ、ママがリリに顔を向ける。
リリは無言のまま頷くと、私を抱き抱えたまま、ママの元へと歩み寄る。
ママは右腕で白い布を抱いたまま、左手で布をはだけさせた。
私は頭の中のもやもやを振り払い、気持ちをそのおくるみへと移す。
きっと、幼稚さから生まれるこの感情は、良くないことだと思う。
外見は幼児でも中身は違うのだから見た目に甘えて奔放に振る舞うのは間違ってる。
例え心が身体に引っ張られているのだとしても、流されてしまっていい筈がない。
それは不実だ。
甘えることが悪いことだとは思わない。
反抗が悪いことだとも思わない。
けど、偽ることは、周囲を、家族を騙すことだし、自らの可能性を潰すことにもなりかねない。
それは、良くない。
外見や立場に甘えて周囲を欺くことを、私はしたくない。
自分の気持ちに正直でいたい。偽りたくない。
この気持ちは転生してもちっとも変わらない。
これこそ、我が儘だろうか。
ほどかれたおくるみの中を、リリの腕から半身を乗り出して覗く。
私の、生まれて初めて出来た姉妹だ。
ちゃんと祝福してあげなくちゃ。
とても喜ばしいことなんだから。
「……ふわぁ。あかちゃんだぁ……。あかちゃん……? ……??」
が、布にくるまれた赤ちゃんを上から覗いた私は、素直に感嘆の声を漏らした後、ママの顔と赤ちゃんの顔を上、下、上、下と、交互に見て、そしてフリーズする。
「ままあ、あかちゃん、へんだよぉ……? かみのけ、とけてる……」
私は恐る恐る赤ちゃんの身体に起こっている異変をママに伝える。
ママは、私の言葉を聞いても変わらず優しく微笑んだままだ。
え? それはどういう反応?
いやいや、いやいやいやいや。
にこにこしてる場合じゃないよ!?
赤ちゃんの髪の毛、溶けちゃってるって!
私の言葉の通り、赤ちゃんの頭では髪の毛ではなくゲル状の半透明な塊がぷるぷる揺れていた。
えぇ……? 何これぇ?
「うふふ。ネイちゃん、髪の毛だけじゃないのよ……? ほらっ」
ママが左手でさらに布を捲った。
「……!? まま……あかちゃん、あし、ないよぉ……?!」
そう。布が捲られ、身体全体が露になった赤ちゃんには、足が付いていなかった。
付いていないどころか、赤ちゃんの下半身はおへその下辺りから、液体のようにドロドロと溶けてしまっている。
それも、髪の毛同様、まるでゼリーのようなぷるぷるとした半固形状態であり、上半身の皮膚はうっすらと透け、その奥にある小さな心臓がピクッ、ピクッ、と小刻みに規則正しく動いている様子まで分かる。
ええぇ……? えっ? 何これ? なんなの? どういうことなの? コレ絶対ヤバいやつじゃん。すぐに赤ちゃんを病院に連れ、いや、目の前に看護師さんが、いや、助産師は看護師じゃないのか? いや、助産師も看護師だよな? 落ち着け。落ち着け。落ち着け私。
私は頭をきょろきょろと上下左右に動かし、ママ、赤ちゃん、助産師、ママ、私を抱いているリリ、またママと、それぞれの表情を確認した。
何でみんな動かないの?
何でみんなニコニコ笑ってるの。ママ、助産師さん達も。リリまで薄く微笑んだまま何も言おうとしない。
「お嬢様。落ち着いてくださいませ」
声が聞こえたのは私の頭の少し上。
声の主はリリだった。
「ユーナ様も、お人が悪いですよ。お嬢様がこんなに混乱していらっしゃるのに、何時までも教えて差し上げないなんて。お可哀想です」
いつも優しく、控えめに微笑んでるリリから、この時は棘を含んだ言葉が放たれた。
リリがこんなことを言うなんて珍しい。
いや、て言うか、教えて差し上げないって何を……?
リリも、何か知ってるなら早く教えてよ。
私はリリの顔をじっと見つめる。
自分の眉間に皺が寄っているのがはっきりと分かる。
きっと眉はハの字になって、泣きそうな顔をしているだろうと、自分の顔が想像できてしまった。
「お嬢様。お嬢様の妹君は、水の精霊で在らせられます。ですから、髪や下半身が液体化していらっしゃるのです。ですので、先程申し上げました通り、妹君は健康そのものですよ」
ぽかーん。
そう。私の今の顔は『ぽかーん』だ。
……そういうものなの?
「あかちゃん……いたくなぃ?」
「はい。痛くないと思われます」
「あかちゃん、びょぅきなぃ?」
「はい。病気では御座いません」
…………何だよおぉーーードッキリだったのかあぁーーーーー。良かったぁ。私の初めての兄弟、あ、妹か。私の初めての姉妹は生まれながらの病気なのかと思ったじゃんかぁ。
良かったぁ。マジでビビったよぉー。
て言うか、こんなの人が悪いどころの話じゃないよ。
私はほっと胸を撫で下ろす。
落ち着いたら何だか涙がじんわりと滲んできた。
「ふふっ、ごめんなさいネイちゃん。きっとネイちゃんならびっくりしてくれると思って、つい悪戯しちゃったの」
くふふっ。と少女の様にはにかみながらママが笑う。
その仕草は二児の母とはまるで思えない、幼さを含んだものだった。
まあ、実際ママは今20歳だから、女性としてはともかく母親としては幼いと言える。
それに、生まれてからこの1年、城で働く大人達を何人も見てきたけど、ママと同い年の魔属の中ではママが一番見た目が若い。
『この子は10代前半だよ』と言われたら、『あ、そうなんですね』とあっさり信じてしまえるくらい。
種族によっては外見では年齢を判別出来ない者もいるけど、容姿が人間に近い種族の中ではママは断トツの幼顔だと言える。
そんな訳で、このあどけなさを残す美女に悪戯されても、普通なら許してしまうのだろうけど――魔王の后という立場を置いておくとしても――私は違う。
何と言っても、その美女の娘なのだから。
「ままが……いじぇた……」
私は滲んできた涙をこれ幸いと、ママへの仕返しに使うことにした。
悪戯には悪戯でお返しだ。
ポロポロと流れる涙が、私を抱えるリリの手に零れ落ちる。
「お、お嬢様?!」
「ネイちゃん?!」
慌てて私を下ろし、両膝を付いて正面に向き直るリリ。
そしてリリの顔が障害物になって見えないが、驚きと心配が入り交じったようなママの声が聞こえた。
よしよし。効果は抜群だ。
「ままがいじぇたあーーー!!」
あと一押しと私は大声を上げ、大仰に喚く。
相変わらずま行の発音ができないが、二人ならちゃんと通じるだろう。
その証拠にリリは、エプロンから取り出したハンカチで私の涙を拭いながらオロオロと困った顔をしている。
姿は見えないが、寝台の方からもガタガタと揺れを感じる。
ふふふ、慌ててる慌ててる。
「お、奥様! いけません! お立ちになられては塞がったばかりの傷が開きます!」
……ん?
リリの後ろから、先程とは違う助産師の慌てた声が飛ぶ。
「ユーナ!!」
後ろで静かに成り行きを見守っていたパパが突然声を荒げる。焦燥を孕んだその声に、私はビクッと身を震わせた。
パパの声に次いでリリが振り返る。
「ユーナ様!?」
リリもまた声を荒げ、慌てて私から離れる。
おかげで私の視界が広がり、私の目にもママの姿がようやく映った。
ママは赤ちゃんを抱いたまま、寝台の横に立っていた。
少し苦しそうな、それでも優しさを讃えた微笑みを浮かべて。
「あ……まま……」
「ユーナ様いけません! 寝台にお戻りになられてください!」
私の声を遮るリリの大きな声。
リリがママに寄り添い、さらに駆け寄ったパパがママの両肩を包むように後ろから抱き支えた。
「ザライト様、私は大丈夫。大丈夫ですから、ネイちゃんの近くへ」
パパの手をゆっくり振りほどくと、ママがじりじりと足を擦り歩きだす。
リリは、手を出そうにもママに払われるのが分かっているのか、もどかしそうに自分の手を握り締めている。
助産師は苦しそうな表情で視線を送るばかり。
この人達もママの性格がいやと言うほど分かっていて、今ママの行動を遮るのはママの意に沿わないことだと理解しているのだろう。
少しふらつきながらママが足を前に差し出すたびに、着ている前開きのワンピースの裾がひらりと揺れる。
ほんの数歩。
寝台からの僅かな距離が、今のママにはとても長い。
当然だ。
つい先刻まで、分娩台の上にいた妊婦だったのだから。
「ま……」
ママ。そうと言おうとした時、私の目に、ママの足を伝う赤い液体が映った。
そして私は、漸く自分の無知と浅慮を思い知った。
「まま……ち……でて……」
「大丈夫。大丈夫よ。これくらいママは平気なの。それよりも、ゴメンねネイちゃん。ママがいじわるして、怖い気持ちにさせてゴメンね。赤ちゃんが病気なんじゃないかって、すごく心配してくれたんだよね。ゴメンね……」
そう言ってママは私の前にゆっくり膝を付き、左腕で赤ちゃんを抱いたまま右手を私の背中に回し抱き寄せた。
いつも私を優しく抱っこしてくれるその腕は、今は強い力が込められていて、ママの腕から熱が伝わる。
「ま……あぁ……ごぇんなさぃ……わぁしも……いじわぅしたかぁ……ちぃ……でて……」
さっきとは違う涙が、ポロポロと私の頬から零れ落ちる。
私は自身の服をぎゅっと握り、声を震わせながら謝った。
少し考えれば分かることだった。
優しいママに、私が傷付いたと思わせたらどんな行動を取るか。
自身が傷付くことを省みず、痛みを伴うことを厭わない。私のママはそういう人なのだから。
「ままぁ……いたぃ……?」
「大丈夫よ。あなた達を産んだ時に比べたら、これくらいの痛みは痛みと呼べないもの」
お……おぉ、成る程、それはすごく説得力のある言葉です。
「それに、ネイちゃんの心が感じた痛みに比べても、これくらいで痛いなんてママは思えないわ。ゴメンね、ネイちゃん。ママのこと嫌いになった?」
私は首を左右に数度振った。
ぎゅっと握り締めていた服を放し、私は恐る恐る手を伸ばす。
ママの背中に手を回し、ぎゅっと抱き締めた。
小柄なママの背中は、それでも幼い私が思っていたより広くて、私の腕は回りきらない。
ほとんどしがみ付いているのと変わらなかった。
「まぁのこと、きぁぃになぁなぃよ。ままぁすきぃ」
「ありがとう。ママも、ネイちゃんが大好きよ」
ママのほっぺに顔を寄せた。
ママも、私に頬を寄せた。
暖かい。
そう思った。
やっぱりそうだ。あの時と同じ。
この感覚は私が産まれた時に感じたものと同じ。
私はちゃんと覚えていた。
これは、『好き』っていう気持ちだ。
この部屋は、いっぱいの好きで溢れている。
「……きゅっふふ」
と、変な音。
動物の鳴き声のような、風船から空気が抜けるような、珍妙な音が私とママの間から聞こえた。
「あ。赤ちゃんも、ネイちゃんこと好きだよーって笑ってる。ほら」
ママの言葉につられ、抱かれている赤ちゃんの顔を覗く。
あ、ほんとだ。
笑ってる。
まだ開いていない小さな目は細く小さく垂れて、口はふにゃふにゃと弱々しく開いたり閉じたり。
何か言いたいことがあるかのようにあむあむと何度も動かして、「ひゃっ……へっ……」と声にならない、それでも笑っているのだと分かる小さな音をしきりに出している。
何だか……可愛いぞ。この赤ちゃん。
ママと二人でじっと赤ちゃんを見つめていたら、今度は急に赤ちゃんがぱたぱたと腕を振り始めた。
産まれたばかりだというのに疲れていないのだろうか。
何度も何度もぱたぱたと、いや、ばたばたと腕をばたつかせた後、ようやく赤ちゃんが大人しくなる。
どうやら遂に疲れた様子。
ふすー、ふすー、と鼻で荒く息をしながらじっとしている。
「ふふ、赤ちゃん疲れちゃったみたい。ネイちゃん、触ってみてあげて? 赤ちゃんね、柔らかくて、少し冷たくて、とっても不思議な感じなのよ?」
少し冷たい? 不思議な感じ?
私は疑問に思いながら、赤ちゃんにもう一度視線を落とす。
赤ちゃんがちっちゃな手をにぎにぎと動かしている。
私は手を伸ばし、人指し指をそのにぎにぎへと差し込んだ。
きゅっと人差し指が握られる。
「あっ」
赤ちゃんの手、ちょっとひんやりしてる。
私の指を掴む赤ちゃんの手をそのまま握ってみる。
「あ……おぉ……」
何だか水風船みたいなぷよぷよとした弾力がある。
何だろう、これ。
人間の赤ちゃんとは全然違う。
私の指や肌の感触とも違っている。不思議な感触。
「ね? とっても不思議でしょ?」
ママが悪戯に微笑む。
私はママに向き合い、こくりと頷く。
水の精霊。リリがそう言ってた。
不思議。
魔属と一言で言っても、色んな種族がいるんだよなぁ。
お城で働く魔属が多種多様だから、違和感はとっくに無くなっていたけど、血が繋がっている姉妹でもこんなに差があるなんて。
赤ちゃんにはパパのような角は無い。
これは私やママと同じ。
と言うことは、私とママも、精霊ってことなのかな?
ママは何の精霊なんだろう。
私は、何て言う種族なんだろう。
幾つもの疑問が頭に浮かぶ。
この1年、何となく見ていたものに興味が湧いてくる。
私と妹でこんな差があるんだから、ママと私、パパと私、お城で働く人達と私にはもっとたくさんの違いがあるんだろうな。
もう少しちゃんと喋れるようになったら、パパとママに聞いてみようかな。
パパとママは私にどんなことを教えてくれるのだろう。
私はこの時、たくさんのことを知りたいと思ったのだ。
この世界のこと、私が生まれたこの世界のこと。
もっと知りたい。
新しい家族のこと。
生まれ変わった自分のこと。
もっと知りたい。
そう思ったのだ。
ひんやりプルプルと、まるでゼリーのような妹の感触を楽しみながら、ママと一緒に私は笑った。
私の心には、いつの間にかあのもやもやは無くなっていたのだった。
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