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年間200冊以上読破するアラサー女子のおすすめ本(2024年2月読了分)

今年は、4年に1度のうるう年ですね。
4年前の2/29に何をしていたのか調べてみたら、普通に美容院に行っていつも通りの一日を過ごしていました。今年は仕事でした(笑)

さて、本記事では、2024年2月に読んだ本のうち、おすすめ本15冊を紹介します。特におすすめしたい本は、小説から2冊、社会学系から1冊の計3冊です。
ジャンルは様々で、小説から人文学系の本まで幅広く取り上げています。また、各本についての要点や魅力、感想も詳しく解説しています。読んだことがある方もない方も、この記事を参考に次に読む本を選んでみてはいかがでしょうか。

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【注意】
・すべての読了本を記載しているわけではありません。(おすすめできるものだけ選んでいます。)
・敬称略です。


特におすすめの本

『侍』遠藤周作

政(まつりごと)の暴力にさらされた不遇な人間にできることは…?

東北の小さな村で慎ましく暮らしていた「侍」は、突然藩主の命を受け野心的な宣教師ベラスコとともに海を渡った。しかし日本はキリシタン弾圧が進み…

実際にあった話をモデルにした小説です。
慶長遣欧使節といって、伊達政宗の命を受けて商人などを含む約180人がメキシコに向かいました。

その際、日本人の代表だったのが支倉常長。本作の主人公長谷倉(侍)のモデルです。
支倉はメキシコからスペイン、そしてローマまでたどり着きます。長谷倉も史実と同じ道をたどります。
ですが、支倉が残していたはずの日記が散逸してしまい、実際海外でどのように過ごしたのかはわかっていません。なので、その場面は完全にオリジナルです。

遠藤は「日本人とはいかなる人間か」という問いを考え続けた人物だと言われていますが、本作ではかなりストレートにその問いに答えています。

日本で長く布教活動をしていた宣教師は「日本人には本質的に、人間を超えた絶対的なもの、超自然的なものに対する感覚がない。人間と神とを分ける明確な境界を嫌う」と説明します。

なぜ日本でキリスト教が普及しなかったのか?
なぜ私は、キリスト教の話を聞いても「胡散臭い…」と感じてしまうのか?
その疑問に対する、今までで最も納得できる仮説でした。

たしかに、日本人やアジア人は自然を神と考え、その中で生活していると捉えますし、死んだら仏様(=神様)になると考えるので、高次元の存在を想定していないのかもしれません。
すべてつながっていて、自分は自然の一部であり、すべて何かの一部であるという感覚でしょうか。
(ハガレンでも、全は一、一は全って言ってますし)

もう一つ、本作のキーワードは政(まつりごと)と信仰です。
長谷倉は、殿の指示によって政に巻き込まれて海を渡りました。なのに帰国したときには、キリスト教の弾圧が激しくなっており、政のせいで不遇な目に遭います。
彼は役目を果たしただけです。でも、政の暴力には抗えません。

政の対義語としてキリスト教があるかというと、そうでもありません。キリスト教も組織である限り、政を内包しています。つまり、切り捨てられる存在が出てくるのです…

この政の暴力に苦しめられる感覚、不信感には覚えがありませんか。

児童手当をあてにして産んでも本当に実現するかわからない
賃上げすると言っても、ずっと続くかはわからない…

長谷倉たちが生きた時代とは違って、私たちには選挙権があります。SNSで不満をぶちまけることもできます。でも、市井とはまったく違う原理で政が動いているように見えるのはなぜなのでしょう?

自分ではどうしようもない政の渦に巻き込まれたとき、人は何を求めるのでしょうか?
その一つの答えが示されています。

それにしても、天正遣欧使節もしかり、この時代に外に出た人たちは可哀そうすぎます。


『今夜、すべてのバーで』中島らも

なぜか憎めないアル中男の物語

「この調子で飲み続けたら、死にますよ、あなた」
酒の飲み過ぎで肝硬変一歩手前になり、緊急入院した小島容。
ユニークな患者たちや医師と、「なぜ破滅するとわかっているのにやめられないのか?」と考えてみるが…

主人公小島のアル中の描写がリアルすぎて、なんでだろう?と思っていたら、作者本人もそうだったようです。デビュー作『頭の中がカユいんだ』を泥酔状態で書き上げたという噂もあります。

アルコール依存症の話なのに、なぜか深刻にはならず、面白い小説としてぐいぐい読んでしまうのは、魅力的なキャラクターがたくさんいるから。
同作者の『ガダラの豚』でも、登場人物が個性的でした。
(ちなみにその紹介記事はこちら↓)

35歳の小島を「ぼく」と呼び、からかう老女3人(三婆)や、口の悪い医師の赤河、死んだ親友の妹で小島の仕事を手伝っていたさやかなど、読んでいて飽きさせません。

本作では様々な登場人物の口や視点を借りて、「破滅するとわかっているのに、どうしてそっちに進んでしまうのか?」という問いに対するとっかかりを掴もうと試行錯誤しています。

解説の町田氏も語っていますが、上記の問いに答えなんてありません。でもアル中になった当人が試行錯誤した記録を残してくれたことはとても大きな意味があると思います。

「人はなぜ酒を飲むのか」「なぜ人は破滅に向かうのか」という問いに対する明確な答えはおそらく此の世にはない。
しかし本書は、その問いに対して誠実に考え、嘘やいつわりなく答えようとしたその記録である。

『今夜、すべてのバーで』解説(町田康)より

作者は2004年にライブの打ち上げでお酒を飲んだ後、飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。そのまま他界されたそうです。
この本を読んでから本人最期を知ると、なんだか自分の死にざまを想像していたかのように感じます。

ちなみに、アルコールに限らず依存症については、こちら↓の本がおすすめです。


『大衆の狂気』ダグラス・マレー

なぜこんなにも対立に溢れているのか?

「多様性尊重」は、善行なはずだった。しかし、行き過ぎたせいで対立をあおる状態に陥っている。なぜこうなってしまったのか? ダイバーシティとという言葉の裏で起きていることとは?

アメリカはダイバーシティ・反差別・ポリコレ先進国です。ところが、だからといって住みやすい環境になったかというと、そうではない様子。
本作を読んで度々思ったのは「うわー、こじれてるなー…」ということでした。

人々はより良い社会を目指して活動しているはずなのに、なぜこうも生きづらく、対立ばかりの社会になってしまっているのか。著者はハードウェアとソフトウェアの問題だと語ります。

ハードウェアとは、自分の力ではどうしようもない生まれつきのもののこと。たとえば人種、先天性の障害など。
ソフトウェアは、努力や行動、あるいは経年によって変化しうる可能性があるもののこと。たとえばスポーツの成績、考え方など。

重要なポイントは、ハードウェアの問題の場合、個人が責められることはないということです。だから、ソフトウェアの問題も、さもハードウェアの問題に見せかけ、仕方ないと思わせようという力学が働くため、対立が生まれます。

例えば、同性愛は生まれつきの性質で変えられないからこそ、権利を訴えているわけで、もし変わりうる証拠が出てしまえば、同性愛者が求める権利が認められない可能性が高くなります。
(そして同性愛の治療という文脈になる危険性もあります)
それが、同性愛だったとカミングアウトしたのに、異性を好きになった人が過剰なまでに叩かれる理由の一つです。

親ガチャや毒親という言葉が日本でここまで流布したのは、親は選べない=ハードウェアの問題だということで、共感を得られたからだと考えると理解しやすいのではないでしょうか。

本作は分厚い本です。さらっと読めるものではありません。
でも、「トランスジェンダー」の章だけでも読んでほしいと思います。
なぜなら、トランスジェンダーの問題が、社会と当事者両方にもっとも大きな影響を与えうると感じるからです。

ひとくちにトランスジェンダーと言っても様々なタイプがあり、著者はまず(A)間性か(B)間性ではないか、を分けて考えます。

間性とは、身体的に両性の性質を持っている人のことです。例えば男性器があるのに体内に卵巣があったりする場合。

雌雄異体または異株の生物の一個体に、雌雄の両形質が混合して現われること。また、その性質。動物ではマイマイガ、植物ではスイバなどにみられる。体内細胞の遺伝子構成が性に関して異なるので雌雄モザイクと区別される。

精選版 日本国語大辞典より

(A)間性か(B)間性ではないか、は生物学的に判別が可能です。問題は(B)間性ではないが、トランスジェンダーだと主張する場合です。

(B)間性ではない場合、
(B-1)本当に体と心(性別意識)が一致していない
(B-2)思春期など一時的に性別に違和感を覚えている
(B-3)何らかの目的があり、意図的にトランスジェンダーを名乗っている

という3つを区別することができません。なぜなら、間性ではないトランスジェンダーは自己申告(主張)だけが頼りだからです。

今日本でも話題になっていますが、男性が「自分の心は女性だ!」だと主張して、女性更衣室や女性トイレに入れるようになってしまった場合、女性が危険に晒されるという懸念は、上記3つを客観的に見分けられないことが原因です。

さらに、トランスジェンダー当事者にも被害が及ぶ場合があります。今、アメリカやイギリスでは、「自分の性を流動的だ」と感じる思春期の子供たちが増えているそうです。
もし自分の息子・娘が「実は自分は女・男だ」と主張したら親はどうするでしょうか?
実際に起きている事象として、親が「どうしてそう思うのか?」などと質問したりすると、教師やカウンセラーから「無理解な親は子どもにとって危険」「理解してあげないと、子どもが自殺してしまうかも」などと言われてしまうそうです。もはや脅しですよね…

私自身に翻って考えてみると、私は昔から「女の子らしくない」「男に生まれればよかったのにね」と言われていましたし、そういう自覚もありました。
もしその頃トランスジェンダーという存在を知っていたら、「もしかして、私もそうなのかも…?」と思ってしまったかもしれません。

今は大人になって違うとはっきりわかりますが、思春期という体が劇的に変わる不安定な時期に、一瞬でもそう疑ってしまうのは無理はありません。

これ以上胸が大きくなりたくないと思ったら、トランスジェンダーなんでしょうか?
ひげの生えてくる自分を別人のように思ったら、トランスジェンダーなんでしょうか?
一時の迷いでホルモン治療や手術をしてしまったら、取り返しのつかないことになります。
その危うさに気づいているかいないかは、いざという時に大きな違いになる気がします。

基本的に本作ではアメリカの話が中心ですが、もしかしたら日本の向かう未来かもしれません…


小説

『影に対して 母をめぐる物語』遠藤周作

死後約25年経って発見された"母"をめぐる物語

指が真っ赤になってもバイオリンを弾き続けた母。寂しがる息子よりバイオリンを取った母。息子を中国に置いて、日本に帰った母。あの人は幸せだったのだろうか…?

2020年に見つかった未発表の中編小説集です。
遠藤周作が亡くなったのは1996年なので、約25年経って発見されたことになります。そんな発見があるのも、パソコンではなく原稿用紙の時代だったからかもしれません。
現代なら、作者のパソコンから原稿データを見つけるようなものでしょうか。

遠藤周作の小説で最も有名なのは、『沈黙』でしょう。映画化もされました。
(『沈黙』については、こちらの記事↓で語っていますので、よろしければご覧ください)

『影に対して』を読んでいると、『沈黙』など他の作品とつながりを感じる部分がちらほら見つかります。

例えば、主人公がかつてお世話になった司祭に書いた手紙のシーン。

ただ貴方の善意や意志が、強者にたいしては効果があっても弱者にたいしては時として過酷であり、稔りをもたらすよりは無意味な傷つけ方をしたと言いたいのです。

『影に対して 母をめぐる物語』影法師より

ここを読んだ時、遠藤周作が講演で語った言葉を思い出しました。

小説というのは、やみくもに書くのではなく、自分の視点から書くものです。そして『沈黙』は、〈迫害があっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のような弱虫の視点で書こうと決めました。弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか――。これが『沈黙』の主題の一つでした。

「波」2016年10月号、講演採録より

同じ人間が書いているのだから当たり前ですが、作品を通じてこのようなリンクを見つけると、読者としては嬉しくなります。

また、本作は完全なフィクションというわけではないけれど、完全なノンフィクションというわけでもないようです。

遠藤自身の母も東京音楽学校バイオリン科の学生で、遠藤は幼い頃満州で過ごし、10歳のときに両親は離婚しました。しかし、置いていかれたのではなく、母と一緒に帰国したようです。

自分の母を下敷きとして、多少の脚色が加えられているのかもしれません。そして解説の朝井まかて氏は、その”近さ”が未発表の理由ではないかと考えます。

一つにはあまりにも事実との距離が近かったのかもしれない。傷の泉から汲み上げたものではなく、泉そのものを描いてしまった。創作性が薄いことに、小説家としてノオと首を振った可能性がある。

『影に対して』解説より

小説家としてノオだったとしても、一人の人間としては書かずにはいられなかったのかもしれません。


『海と毒薬』遠藤周作

すべて戦争のせい、ではない

引っ越したばかりの私は、気胸の治療のため近くの医院に向かう。そこの医師は、戦前アメリカ軍捕虜の生体解剖事件にかかわった人間で…

1945年、実際に福岡県で起きた生体解剖事件を題材にした小説です。

アメリカ人の捕虜8名に対して、生存状態での解剖が施術されました。
生体解剖とは、麻酔をかけて生きたまま行われる解剖で、この事件では生存を考慮しない臨床実験手術でした。つまり、殺すことが前提の手術です。

一、第一捕虜に対しては血液に生理的食塩水を注入し、その死亡までの極限可能量を調査す。
二、第二捕虜に対しては血管に空気を注入し、その死亡までの空気量を調査す。
三、第三捕虜に対しては肺を切除し、その死亡までの気管支断端の限界を調査す。

『海と毒薬』より

本作では実際の生体解剖事件を題材にはしていますが、登場人物や人間関係はフィクションです。

それでも十分に残虐さは伝わってきます。

どうしてこんなに残虐なことをしたのか?

それは当然の問いです。
本作を読む限りでは、戦争のせいではないと感じます。
戦争のせいで心が荒んだ、異常な状況だった、上からの圧力で断れなかった…

きっと第三者にとってはそういう理由が望ましく、安心できるのでしょうが、そうではないと著者は語っているような気がします。
人間の元からあるエゴや恨み、執着心が、戦争という言い訳を得て肥大化し、表面化しただけだと思います。

解説にもありますが、遠藤周作は「日本人とはいかなる人間か」という問いに対して考え続けた作家です。
この小説を読んで、日本人とはどんな人間だと感じるか、ぜひ考えてみていただきたいです。


『先祖探偵』新川帆立

あなたのご先祖様はどんな人?

「曾祖父を探してください」「父の家系を調べたい」
先祖探偵・風子のもとにはこんな依頼が舞い込む。5歳で生き別れた母を探しながら、今日も依頼に向き合い…

顔も名前も知らないけれど、ご先祖様がどんな人だったのか知りたい。それは誰もが思うことなのかもしれません。
どこどこの武将と縁があると言われれば、なんとなく誇らしくなりますし、NHKの『ファミリー・ヒストリー』は人気番組です。
アメリカに留学中、友だちが「〇代前にスコットランドから来た」とか「ネイティブアメリカンの血が入っている」と、誇らしげに語っていました。
ご先祖様が気になるのは、世界共通かもしれません。

作者の新川氏は東大卒で弁護士資格を持っている方です。
最後、なぜ風子の母は風子を捨てたのか?という秘密が明かされるシーンでは、法律家だからこそのストーリーだなあと思いました。

5話に分かれて、それぞれ異なる依頼人のお話なので、すきま時間に読み進めやすいです。


『レイラの最後の10分38秒』エリフ・シャフッタ

あなたなら最後の10分38秒で何を思い出すでしょうか…?

1990年、トルコ・イスタンブルの路地裏のゴミ容器のなかで、レイラは息絶えようとしていた。
しかし、心臓の動きが止まった後も、意識は続いていた──10分38秒のあいだに彼女は何を思い出し、何を感じ取ったのか…?

主人公が亡くなる場面から始まるという珍しい小説です。
その後、10分38秒の間にレイラは自分の子ども時代や、幼馴染のこと、イスタンブルに出てきてからの出会いなど、時系列などバラバラに自分の人生を振り返っていきます。

この10分38秒という数字は、著者の創作ではなく、実際に話題になった記事から使ったのだそう。

2017年3月、医療系情報サイトMedical Xpressに驚くべき記事が掲載された。カナダの集中治療室勤務の医師らの報告によると、臨床死に至ったある患者が、生命維持装置を切ったあとも10分38秒間、正者の熟睡中に得られるものと同種の脳波を発しつづけたという。

『レイラの最後の10分38秒』訳者あとがき より

このデータが出る前から、人生の最後には走馬灯を見るといった話は昔からありますが、意外と長くて私は驚きました。

さて、物語の舞台はトルコ・イスタンブルです。

Google Mapより

日本語ではイスタンブールと呼ぶ方が一般的ですが、原語に合わせると近いのはイスタンブルだそうです。

イスタンブルはトルコの首都ではありませんが、人口1,410万人と東京都(約1,400万人)とほぼ同じで、バルカン半島最大の都市です。
(ちなみに首都はアンカラ)

イスタンブルの前の名前、コンスタンティノープルと言えば、世界史を勉強した人には聞き覚えがあるでしょう。

イスタンブル(旧コンスタンティノープル)は、ローマ帝国⇒ビザンツ帝国⇒ラテン帝国⇒オスマン帝国と、宗教の異なる4つの帝国で首都だった、世界的に見ても特異な歴史を持つ街です。

小説を読んでいく中でも、独特のモザイク模様のような歴史の断片を味わうことができます。

また、この小説は三部に分かれています。
第一部 心:レイラが10分38秒で過去を回想する
第二部 体:レイラ亡きあと、ソウルメイト5人の戦い
第三部 魂:戦いの結末
それぞれに異なる魅力があります。

小説としても面白いのはもちろんのこと、行かなくても異国を覗けるという読書の醍醐味を堪能できます。


『1973年のピンボール』村上春樹

ピンボールは何を表しているのか…?

大学を卒業して翻訳事務所で働く僕のもとに現れた双子の姉妹。一緒に暮らすうちに、かつてよく遊んでいたピンボールに会いたくなる。
一方、遠い街にいる鼠は、女の温もりに飢えながらも街を出ると決め…

村上春樹氏のデビュー作『風の歌を聴け』の続編ですが、単独で読んでも問題ありません。私は本作の方が読みやすいと感じましたが、個人の感想でしょう。

僕と鼠の2パートに分かれ、それぞれ話が進んでいく構成です。結局本作で二人が会うことはありませんが、過去に会ったことがあると示唆されます。(その過去が、『風の歌を聴け』で描かれています。)

それぞれの主な登場人物は、
僕パート:双子の姉妹、事務所の女、スペイン語講師の男、直子(回想)
鼠パート:ジェイ、女
です。
直子という女性は、『ノルウェイの森』に登場する女性と同じ名前ですが、同一人物でしょうか…?

もしかして若い方のなかには、ピンボールを知らない人もいるかもしれません。上から転がって来るボールを下にあるフリッパーと呼ばれる両手みたいなもので跳ね返して、指定の穴に入れたり、指定の場所にぶつけたりして得点を稼ぐゲームです。



タイトルにもあるピンボールの他にも、象徴的なモノたちが登場します。例えば、配電盤、井戸。
特に井戸は、この後の村上作品にもよく登場します。井戸から穴になったりしますが、異世界などへの入り口・出口として。
本作ではそこまで明らかな意味を持って登場しているわけではないようですが、知っておくと村上作品をより楽しめると思います。

村上作品の魅力の1つは、メタファーをいくらでも解釈できるところかもしれません。
ピンボール=直子?
ピンボールのフリッパー=双子の姉妹?
鼠=僕の分身?
など。正解はないでしょうから、メタファーを自分なりに想像しながら読むといいと思います。


『お気に召すまま シェイクスピア全集15』ウィリアム・シェイクスピア

一目惚れ×一目惚れ 大団円の喜劇

舞台はアーデンの森。良家の末弟オーランドーは長兄から逃げて森に入る。オーランドーに一目ぼれした前公爵の娘ロザリンドも、現公爵に追い出されて、羊飼いのふりをして森に入り…

女性が男性のふりをする、というのはシェイクスピア戯曲の中ではよくある展開ですが、今回も羊飼いに男装したロザリンドが登場します。
オーランドーに一目ぼれしたのに、今は男性として暮らしているので、その立場をうまく利用します。一方で事情を知らない女性が男装したロザリンドを好きになってしまったり、てんやわんや。
でも、終始明るい雰囲気で、大団円!拍手!と言いたくなるような結末なので、ご安心を。

解説を読んで面白いなと思ったのは、当時、ロザリンド役は少年が演じることになっていたそうです。
少年がロザリンドという女性を演じながら、ロザリンドが男装した役も演じて…と一周回ってあれ?となってしまいそうですね。

現在ではそういう縛りはないようで、女性にとって演じがいのある役のようです。


『恋の骨折り損 シェイクスピア全集16』ウィリアム・シェイクスピア

夫婦漫才のような軽快さがクセになる

ナヴァールの王は3人の青年貴族とともに女性との交際を絶って学問に励む誓約を立てる。しかしフランス王女が美しい侍女を連れてやって来て…

ナヴァール王率いる男性グループと、フランス王女率いる女性グループの駆け引きが魅力です。
ナヴァール王たちは、美しい女性たちに会いたくて仕方ありません。しかし誓約ががあります。しかも自分達で決めた誓約が。

誓約を守っていると言えなくもないようなヘリクツを重ねて、なんとか会いに行こうとします。
なんか言い訳が現代の政治家のような…?

夫婦漫才を見ているようで、クスリと笑えます。
また他の作品とは異なる結末にも注目です。


『から騒ぎ シェイクスピア全集17』ウィリアム・シェイクスピア

クスリと笑える言い間違いと男女の掛け合いが魅力

ドン・ペドロ軍の青年貴族クローディオは、知事レオナートの娘ヒアローに想いを寄せる。そこにドン・ペドロの弟ドン・ジョンがクローディオの足を引っ張ろうと作戦を立て…

舞台はシチリアのメッシーナ。
男性がある女性を見初めて求婚するが、トラブルに巻き込まれたり、誰かに邪魔されたりするのは、シェイクスピア劇の王道です。
本作が他と異なるところは、おかしな言い間違い(マラプロビズム)がふんだんに使われているところ。
たとえば、「媚びへつらう」を「へびこつらう」と言ったり、「住所不定」を「住所否定」と言ったり、「挙動不審な者を逮捕いたしまして」を「共同不審の者を介抱いたしまして」と言ったり。

シェイクスピアの英語原文から、この言い間違いのコミカルさを失わないように訳すのは大変だっただろうな…と想像します。
訳者の松岡氏は、このような言い間違いを上手く訳せるように、普段からメモを取っているとか。

原文にマラプロピズムが出てきたときに、それに対応する日本語がただちに思い浮かぶことは滅多にない。だが、「へびこつらう」以来、私は身の回りのおしゃべりに絶えず耳を澄ませ、日本語のマラプロビズムを収集するようになった。

『から騒ぎ』訳者あとがき より

もう一つ面白いのは、この時代には珍しく独身主義者の男(ベネディック)が登場すること。さらにベネディックに対して、レオナートの姪ビアトリスが、毒舌を放ちあうのですが、その掛け合いを舞台で見てみたいなと感じます。


『冬物語 シェイクスピア全集18』ウィリアム・シェイクスピア

あなたは奇跡を信じますか…?

シチリア王レオンティーズは、親友と妻の不倫を疑ってしまう。怒りに駆られた王は妻を幽閉し、臣下に親友を毒殺するように命じるが…

親子2代に渡るロマンス劇です。
『オセロー』では、嫉妬という化け物に取り憑かれた男の末路が描かれていました。

シェイクスピア時代の「嫉妬」は今日の「ジェラシー」や「やきもち」とはかなり意味が異なっていた。シェイクスピア劇に登場する"jealousy"とは、基本的に「不信、疑念」を意味し、とりわけ妻の貞節を確信できない既婚男性の恐怖や不安を表すものとして使われていた。極端に言うと、シェイクスピア劇の「嫉妬」は「妄想」と言い換えると分かりやすいし、事実、その症状はイアゴーの表現によると「(妄想の)苦しみで気が狂う」ことになる。

解説 「嫉妬」と呼ばれる「怪物」ーシェイクスピア時代の心の病い

本作のレオンティーズも、まさしく嫉妬と呼ばれる怪物によって気が狂ってしまいます。妻も親友も、申し分のない素晴らしい人だからこそ、化け物にとりつかれてしまうのかもしれません。

時が流れて子ども世代の話になり、結末を迎えますが、正直日本人は「え?」と思ってしまうかもしれません。

『冬物語』の舞台では、劇中人物たちも観客も、信じる力によってこの「物語」の最も奇跡的な出来事を目の当りにする。現実世界ではおよそあり得ないことを「あり得る」と信じさせてくれる劇、それが『冬物語』なのだ。

訳者あとがき

どれだけ観客や読者の「自発的な思考停止」を呼び起こせるか、『冬物語』はその可能性の限界を探る戯曲のように思える。人はどこまでありえない物語を受け入れられるのだろうか。作家はどれだけその虚構の力を引き出せるのだろうか──。

解説 ロマンスの復活 前沢浩子

ちょうど遠藤周作の『侍』を読んでいる時期と重なったので、日本人と西洋人の宗教観の違いも考えながら読みました。

『侍』に登場する宣教師は、「日本人には本質的に、人間を超えた絶対的なもの、超自然的なものに対する感覚がない。人間と神とを分ける明確な境界を嫌う」と語ります。
人知を超えた絶対的な存在による奇跡。その奇跡を信じられるかどうか。
そういう捉え方の違いを面白がりながら読むのがいいかもしれません。


詩集・歌集

『最後だとわかっていたなら』ノーマ・コーネット・マレック

後悔するとわかっていても、日常で意識するのはなかなか難しい

ノーマが愛する息子を思いながらつづった詩。大切な人を亡くした経験がある人は、特に共感できると思います。

この詩が発表されたのは1989年のこと。しかし有名になったのは、9.11のあとです。
9.11のときに亡くなった消防士が生前書き残した詩として知られましたが、それはデマ。ただ、経緯はどうあれ、彼女の詩が多くの人の心に響いたのはたしかです。

明日が来るかはわからない
もう二度と会えないかもしれない
今日が人生最後の日だとしてもそれをやるか?

といった言葉は、定期的に私たちの前に現れます。(スティーブ・ジョブズのスピーチとかね)
その時は納得して感動しても、いずれ私たちは明日が保証されていると錯覚する日常に戻って行きます。

それは、明日が予定通り来ることの方が多いし、今日が最後の日だと想定して過ごしていたら、現実的に暮らしていけないから。

でも、もし"その時"が来たら、いつものように過ごしていたことをひどく後悔しそうなことも、私たちは気づいています。
だからこそ、たまにこういう詩を読んでリセットするのがいいのかもしれません。


『アボカドの種』俵万智

よその子の成長は早い!(笑)

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

で有名な俵万智さんの最新歌集です。
過去の歌集では幼かった息子さんが、大学生になられたそうで、実家を出て一人暮らしをする様子や母の想いを綴った歌もたくさんあります。
「あの子がもう大学生なのかー」と勝手に感慨深く思ってしまいました。

しかし、子どもが成長するということは、親や親せきは老いるわけで。ご本人の体のことや、ご両親の過ごし方について多く紙幅が割かれていたのが印象的でした。

また、著者の短歌の魅力は、日常から離れない。むしろ日常やエンタメにどっぷり浸かった歌の楽しみ方だと思います。
『アボカドの種』には、『舞い上がれ』『梨泰院クラス』など著者がハマったドラマにちなんだ短歌がたくさん収録されています。

同じようにこれらのドラマに熱中した人は、さらに楽しめると思います。


人文学系

『偽善のトリセツ』パオロ・マッツァリーノ

偽善者は悪人じゃない!

寄付なんて偽善だ!ただの売名だろ、などなど。
偽善=悪という印象で使われがちだが、実はそのイメージは近年になってから。そもそも偽善者ではない人なんていない。むしろ今こそ偽善が必要なのでは?

まず、気になる著者から触れます。外国人、と思いません?
調べてみたら、違うようです。

パオロ・マッツァリーノ(Paolo Mazzarino)は、「イタリア生まれの日本文化史研究家」を自称する覆面作家。(実在しない)イタリアン大学日本文化研究科卒としている。ネット上に「スタンダード反社会学講座」というサイトを開設し、風刺を込めた社会学の解説を行った。2004年にその内容をまとめた『反社会学講座』で書籍デビューした。

Wikipediaより

”自称する覆面作家"だそうです。ということはきっと日本人でしょうね(笑)
もしかしたら有名な作家さんや学者さんかもしれません。
この感覚、ジェーン・スーさん以来です(笑)

ジェーン・スーさんの話についてはこちら↓

能登半島地震の寄付やボランティア絡みの話で、"偽善"という言葉をよく耳にしました。

寄付は匿名でするべき! いや名前を出した方が、みんなの寄付にもつながるでしょ。
芸能人がボランティアなんて、どうせ売名だろ。でもやらない善よりやる偽善の方が役になってるよ。
といった文脈で、偽善者呼ばわりされていた方々がいらっしゃいました。(ほんとに気の毒です)

実は、偽善という言葉は明治以降になってから使われ出したもので、イメージも紆余曲折あったようです。
これほど偽善=悪という印象がついてしまったのは、1980年代以降。ここ10年ほどで、偽善ってそんなに悪いことなの?という意見も出てきていますが、まああまりいい印象ではないでしょう。

でも、本書にも書かれていますが、偽善者ではない人なんていません。完全に純粋な善意だけで動いている人はいませんし、そう信じている人がいたらそれは独善です。
だから「偽善者だ」と責められたら、誰も否定できない。だからこそ、自分の気に入らない主張や人に対して「偽善者!」と指を差せば、手っ取り早く自分の主張を正当化できるから使われているのでは、と著者は語ります。

そのうえで、能登半島地震の偽善者問題を見ていて、誰かを偽善者だと言いたいのは自己保身の面もあるなと私は思います。

多額の寄付をする、現地に行ってボランティア活動をする。
これは誰にでもできることではありません。
経済的に余裕があるかどうかだけではなく、そこまでの行動力があるかどうかも関わっています。

本来、自分にできないことを誰かがやってくれたのなら、出てくる言葉は「ありがとう」「応援してます」くらいなはずですが、世の中にはなぜか他人の価値が上がると、自分の価値が下がるように感じる人がいます。

あの人は多額の寄付をして役に立っているけど、自分は1円も寄付していない。
あの人は現地で瓦礫を撤去したり炊き出しをしてるのに、自分は何の行動も起こしていない。

貢献しているあの人と何も貢献していない自分。その対比に耐えられなくなって、手っ取り早く「偽善だ!」と否定しているように見えます。

著者も書いていますが、大事なのは動機や信念ではなく結果です。

偽善を批判する人たちの最大のあやまちは、動機や気持ちを重視するところです。私はその考えかたは危険だとすら思ってます。なにより大事なのは、動機や気持ちではなく、結果なんですから。

『偽善のトリセツ』P189より

口だけが達者な嫌なやつになりたくないな、と自戒を込めて偽善者になろうと思います。

この本は、ユニークな登場人物たちによる会話形式で進むので、とても読みやすく学生さんにもおすすめです。


【ページ著者紹介】
このページの著者は、普段コンサルティング会社を経営しながら、小説家を目指して日々活動中です。
休職したり、モラハラを受けたり、いろいろありましたが、どうにか生きています。

Xでは毎日21時に140字小説を投稿中です!

また、noteには短編・小説も上げていますので、
こちらもぜひのぞいてみてください。

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