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「無知」による考察

「無知」であるとは良きかな

知識が豊富なことが良いとされている
頭がいいとは「知っている」ことの多さだ
ある有名人は「知識が民主化された」という

インターネットで何でも調べらる時代
情報弱者とは自分で調べようともしないバカだという
知らない=調べない=馬鹿ということだろう

確かに、知ろうと思えば調べると何でも知識は入る時代
言ってることは正しい様な気もしないではない
言いたいこともその通りとは思わないがそうかなぐらいの解釈

否定はしないけど賛同もしない

知識があっても、原点が間違いなら最悪だ。

一般に言う頭がいいということについても
何がいいのか分からない

だからと言って、頭が良くならないとと
思わなかったわけではないし
むしろ、そうならなければと思い?(思わされ?)ながら
苦手な勉強、行きたくもない進学校に行った

生まれてから社会に出るまで流されながら勉強してきた
という感じだろうか?

社会的な流れで何となくそうでなければとか
知っておかなければ恥ずかしいという感じでの
頭の良さというか博識さということなのだろう

通常に言われる頭の良さは
知識の豊富さ(知っていることの多さ)
回転の速さ、計算の仕方、
論理的にわかりやすく説明できるとか
学校の成績の良さとかかしら

その類でいくと「私」は頭のいい方ではないと思われる
「無知」に近い部類だろう

仕事では、サプライチェーンや経営学を学んだ
ま、知識人ぶればブレる程度には知ったとは思う

親が経営者をしていたこともあって
自分も同じような地位に行かなければと錯覚した
そのことも学ぶきっかけになった

ただ、無知だなと思ったのは
その勉強の原点を知らなかったことだ
知ってれば取り組み方も違った

「作業簡素化することで単純作業者を低賃金で使い儲ける」
奴隷思想の上に作られたものだと知っていれば

物事の本質を知ると嫌気がさすことがある
知識があっても「無知」に思えてくること

どんなに知識があっても対象の本質を知らずに
良きこととして学ぶのは最終的には無惨な結果を生むこともある
結果的な評価を自己点検すれば「無知」による弊害となる

本来の自分の性質「こうでしかできない自分」を知らないと
自分の本来の望みとは違う結果が生まれてしまうことがある
それは本質を知らない「無知」から生まれる

何が言いたいかというと
知っていることが多いと言うのはいいこととは言えない
頭がいい(相対的比較による)ことは良いとも言えない
情報弱者が悪いとも言えない
バカと罵る時点でその人は相対的な自分でしかない

人を見下す(私も御多分に洩れずそうだった)心根には
泰然自若たる「こうでしかできない自分」という確固たる
「私」と言う「存在」や「生き方」が不足してる様に感じる


「無知」の効用

前回の哲学との出会いで「無知」と言うことが幸いした
運もよかったのだろうと思う

普通にソクラテスやプラトンに行ってたら
絶対物知り顔で哲学とはとの賜ってたろう
「誰かが考えたこと」を鵜呑みにして話し
学問(知識)として学ぼうとしていただろう

「哲学とは学ぶのではなく考えること」

この本質から入れたことはよかった

「私と言う存在」「生きる」「死ぬ」と言うこと考え抜く

よく考えて見ると小学校から
受動的な勉強、学びをさせられてきた

幼い頃のこと思い出すと
「なんで?」といつも頭は疑問だらけで
不思議に思うことが多かった

親にも「なぜ」の質問攻めで
最終的には「うるさい」と怒られる始末だった

そう言う能動的に何か本当のことを知りたいと言う欲求が
小学校に通学し始めたあたりから消え去り

学校で習ったことをたくさん覚えてテストで満点を取る
と言うことがいいこと(人に認めてもらう)の様に慣らされた

だから、学校の勉強には全く興味はわかなかった
成績も中の下あたりを彷徨った

考えてみると学校で「考える」と言う勉強をしたことがない
面白みも感じたことがなかった

そう振り返ると自分は「考える」こと自体が好きなのかもしれない
あれやこれや空想したりイメージしたりして疑問を湧くことには
再現なくのめり込むタイプだった

ただ、単に覚えるだけのものには全然興味がなかった

そう言う意味で哲学というか池田晶子氏との出会いは
今後の「考える」テーマを浮き彫りにしてくれた

学んだり、覚えたりするんじゃなく、「考える」

外の情報から相対的に比較して考えるのではなく

「それしかできない自分」にたどり着くために考える
その本質的テーマを持ってさまざまな歴史的哲学書を
読んだりすることは考えるための要素になる

そのまま、哲学書を読んでいたら
そもそも哲学してみようとは思わなかったろう

今後の「生きる」テーマの一つは哲学してみるということだな

「知るのではなく考える」

日本の教育に大いにかけてるのは「考える」ということ
会社の教育でも同じでだろう

「私」は「何か」という「存在」を考えて
「こうとしかできない自分」にたどり着けば
その後の生き方は泰然自若となるだろう

と、考えてみた。

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