過去に出口はない。
過去の栄光にすがる危うさ。
「明日は今日よりも良くなると、誰もが感じられる国を目指して…」この発言を記した記事を読み、私は懐古主義に陥った人にありがちな、あの頃(昔)は良かった。高度経済成長期の日本を取り戻すかのような言い回しとして捉えてしまう。
これは映画クレヨンしんちゃんの傑作と評される、2001年に公開された本作の劇中に出てくる黒幕の台詞だ。
子供向け長編アニメでありながら、ノスタルジックへのアンチテーゼというテーマ性から、クレヨンしんちゃんらしからぬ展開で、子どもが観たいからと、仕方なしに観に来たオトナの方が見入ってしまう内容となっている。
劇中の舞台となる「20世紀博」は、1970年の大阪万博をモデルにしており、まさに公開当時、仕方なしに観ているオトナ達が、しんちゃん位の年代で経験した、古き良き高度経済成長期の日本社会を描いている。
高度経済成長期には、明るい未来が到来すると信じて疑わなかった21世紀は、蓋を開けてみると、後に失われた10年と揶揄される景気低迷の渦中であり、まるで経済の歯車が逆回転し、自分達に牙を向き始めたような感覚から、こんな筈じゃなかったと現実世界に不満を持つオトナ達が、現在や未来ではなく、童心に帰れる過去に生きる誘惑に駆られる。
残念ながら、私は失われた30年の中で生まれ育ち、現在に至るまで不況続きの時代を生きているため、高度経済成長期のノスタルジーにひたるオトナ達に共感することが難しい。
年齢的にはオトナ側の筈だが、どうしても風間くんの「懐かしいってそんなに良いことなのかなぁ」に共感する程度に、平成が良い時代だったとは思えない。
街も人も、時間をかけて、少しずつ変化していくもので、その変化の積み重ねが「今」であり、「今」の積み重ねが「未来」を形成する訳で、「過去」の栄光を取り戻したところで、現在や未来にそっくりそのまま適用できる訳ではない。
当たり前ではあるが、人間の目は前にしか付いておらず、後ろ向きで歩いたらうまく進めない。しかし、一昨年の五輪や、再来年に開催予定の大阪万博の様子から、現在の政治家はそれを行っているような気がして、過去の栄光にすがる危うさを感じる。
ノスタルジーの正体。
なぜオトナは、昔は夢や希望に溢れていたと懐かしむのだろうか。
それは先行きという名の未来像、自身の人生の全体像であり、何者にもなれない天井や限界に薄々気付いているものの、直視すると絶望感に苛まれる。だから無限の可能性を秘めていた、童心に帰りたい思いこそが「懐かしむ」行為なのだろう。
以前にも類似の内容を記しているが、無限の可能性を秘めていることを
言い換えれば、先行きがどうなるか分からない、不透明さと共存することを意味する。
今の時代こそ、まさに先行き不透明だが、そんな状況になるとヒトは不安になる。思春期に散々進路に悩んだのは、将来が見通せず不安だったからではないだろうか。
ヒトは先行きが透けて見えたら絶望し、見通せないと不安になる無いものねだりな生き物なのである。
先行き不透明な時代の「今」を生きている筈なのに、人生の見通しが立ったことに絶望し、先行き不透明な「過去」を求める。どちらにせよ先行き不透明なら「今」この瞬間を生きたら良いではないか。
それにも関わらず、多くのヒトは「今」ではなく「過去」を選ぶ。それは「今」という不満足な結果が分かった上で、「過去」に選ばなかった無数の分岐点にある、「if」、「たられば」を想像して現実逃避したい感情の現れであり、これこそがノスタルジーの本質であり、正体ではないだろうか。
時代を創造するモノ。
私は「昔は良かった」とは考えない側の人間であるものの、価値観は人それぞれあって良いのだから、別に本記事でノスタルジックに心を奪われるなと主張したい訳ではない。
ただ後ろ(過去)を振り返るだけでは、前(未来)に進む道標となるであろう「出口」を見つけることはできない。現実(今)を直視しなければ、現在位置も分からないだろう。
どれほど立派な地図(情報)があっても、現在地と目的地が分からなければ、どこに向かって進めば良いのかも分からない。それは今この瞬間を精一杯生きることができないことを意味する。
ノスタルジックであり、高度経済成長の象徴と言える、EXPO'70(大阪万博)の目玉だった「太陽の塔」を制作した岡本太郎さんは、著書の中で「一瞬、一瞬」「瞬間、瞬間」の表現を多用している。
それは現代の日本人の大多数が、今この瞬間に生きていないことに対する警鐘だと私は考える。
新しい時代を創造するためには、現在地と正確に把握して、目的地を定めて、先に進むことに精を出す必要がある。これまでの軌跡を眺めるだけでは、現在地は把握できても、目的地が見つかることはないのだから。