欠ける、書ける、欠ける
Ⅰ モーリス・ブランショの英訳の文章
私のX(旧ツイッター)のアカウントのタイムラインには、機械というかシステムの選んだと思われるポスト(旧ツイート)が流れてきます。
これを私は歓迎しています。なかなかスリリングな出会いがあるからです。
たとえば、次のポストは、note で書いている記事の内容に関連してくるので記事に載せたことがあります。
モーリス・ブランショのどの著作(原著はフランス語です)から取った英訳なのか不明なのですが、確かにブランショが書きそうなフレーズだと思いました。
ブランショについては以下のウィキペディアの解説をご覧ください。私はブランショについて傾ける蘊蓄の持ち合わせはなく、知らないことについて、どこかから引用してまとめをつくる勇気もありません。
丸投げをお許しください。
*
モーリス・ブランショの著作は学生時代によく翻訳で読みました。読みにくい文章でしたが、決して嫌いではありませんでした。
上のポストをリポストしたせいか、ときどきブランショの文と思われる英訳がタイムラインに流れてきます。その都度、ポストしている信頼できそうなアカウントはフォローしています。
以下の部分はかつて邦訳で呼んだ記憶があります。英訳で読むとはるかに読みやすいです。
下で引用されている英訳の字面を見ていて感じるのは(内容ではありません)、くり返しの多いことです。また、上のポストの字面を見ていると、not と no- が目立ちます。
「Blanchot」をキーワードにして、X内を検索すると、ブランショの著作の一節やまるまる一ページをコピーした写真がヒットしますが、その字面を見ていても同様の印象を受けます。
ブランショは宙吊りが好きな書き手だという気がします。 否定を重ねることで文を着地させない、語句をくり返すことでその意味をずらして固定させない、つまり宙吊りにする。そんな言葉の身振りを私はブランショの文章に感じます。
言葉の綾取りがうまいというイメージがあります。なお、モーリス・ブランショは掛詞の多い文章を書くそうです。フランス語で読んだことがないので「そうです」としか言えませんが、そんな気がしないこともありません。
Ⅱ writing、write、writing
先日、Xのタイムラインに流れてきた以下のポストを読んでいて、なるほどと思いました。
私のこの「なるほど」は食わせ物です。自分との付き合いが長いのでわかりますが、私は独り合点や早合点ばかりしているのです。
人の話をよく聞かない、文章をよく読まないことについて、私は小学生のころから人から注意されつづけてきました。
今もその傾向を引きずっています。私は誤解と曲解には自信があります。特技と言えるかもしれません。
途中が省略されている引用ですが、上のポストでは writing という語が二つあり、write という語も見えます。
writing、write、writing
そうした字面を見ていると――最近「文章は顔(字面)が命」だとつくづく思います――、その文意などにかまわず、私は勝手に言葉を転がすことがあります。転がしているうちに文章が書けそうになると、その辺にある紙にメモをします。
以下は、そうやって取ったメモを頼りにつくった文章です。
Ⅲ 欠ける、書ける、欠ける
*「欠ける」⇒「掛ける」⇒「書ける」
執筆という行為を図式的にまとめてみます。
自分が文字を書くときの指を思い浮かべてください。
紙の上にペンで書くのであれば、ペンを握った指は宙に浮いて振れる状態から、紙面に触れて着地し、ゆっくりためらいがちに、あるいは勢いにまかせて、ペンが点と線を描いていきます。
*
宙で「振れる」から平面に「触れる」ことで、初めて文字は「書ける」と考えるわけですが、この「書ける」というのは、尋常な行為ではない気がします。
かける ⇒ かえる
書ける ⇒ 変える・換える
いわば、「かえる、変える(変容させる)、換える(置き換える)」が起きているからです。
文字や文章は、人の中にある「何か」とは、まったく別のものとして、人の外に出てくる。つまり、「書ける」は「変える・換える」なのです。
ここまでをまとめると、次のようにも言えそうです。
*
「何か」が「別の何か」に「変わる・換わる・代わる・替わる」ということは、「何か」と「別の何か」を「掛ける・懸ける・架ける」ことではないでしょうか。
「何か」と「別の何か」のあいだには何もありません。何もないところに、糸や橋を「かける」のです。
とはいえ、糸や橋が必ず「かかる」保証はありません。「かかる」かどうかは、「賭け」なのです。
以下のようにも言えそうです。
*
ただし、不満があります。自分で書いておきながら不満があるだなんて、世話ない話ですけど。
上の三つの図式を見ていると、いずれも最後は「書ける」で終わっています。まるで、めでたし、めでたし、みたいで不満なのです。
*「書ける」=「欠ける」
よく考えると、めでたし、めでたしではない気がします。
ぜんぜん、めでたくはないのです。別の意味で、おめでたいとは思いますけど。
「書ける」は「欠ける」だからにほかなりません。
欠けている何かを書こうとして掛けたし、賭けたにもかかわらず、書けたものには、その何かが欠けているのですから。
「書ける」は「欠ける」なのです。だから、これをえんえんとくり返すしかありません。そのくり返しが、執筆だと言えるでしょう。
*
話をうんと単純にして、猫を例に取ります。
猫にはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとって最も身近な複製でもあるもの――。
これが文字です。
簡単に言うと、「猫」という文字は猫というものとは違うし、似てもいないという意味です。なのに「猫」は猫なのです。
*
「猫」という文字は、「それは猫ではない」、そして「そこには猫はいない」という、しるしにほかなりません。
文字とは「それではない」「そこには(い)ない」という、しるしなのです。どの文字も例外なくそうです。
あ、例外がありました。文字という文字です。文字という文字は「それである」「そこにある」という、おそらく唯一のしるしです。
話を戻します。
「猫」という文字に猫は「欠けている」のです。それが「書けている」だとも言えます。
よく考えると、当然なのです。
そもそも紙面を前にしてペンを手に取り、猫がいない、猫が欠けている状態から出発したのですから、「猫」という文字が書けたところで、猫は欠けているのは当たり前だと言えます。
*
もったいぶって「対象の不(非)在から対象の不(非)在へ」とか、「無から無へ」と漢語をつかって言い換えたところで、事態は好転もしないし、変わりもしません。「ない」は「ない」であって、ない袖は振れぬです。
「書ける」は「欠ける」なのです。
この文字のありようが文字で分ける(分かる)ことであり、話し言葉(音声)では分けられない(分からない)こと――音読不能――であるのは興味深いです。
試しに、誰かの目の前で、「「書ける」は「欠ける」」と口にしてみてください。
不思議と言うよりも、これは言葉の綾なのだと思います。言葉(音声)や文字ではよくあることなのです。その意味では不思議です。
*欠ける ⇒ 掛ける ⇒ 書ける=欠ける
このサイクルをえんえんとくり返すのが執筆です。
時系列的に言うと、
*「欠ける」から「掛ける」を経て「書ける」へと至るが、「書ける」は「欠ける」でしかない、
となります。
*「それではない」もの、「そこには(い)ない」もの
なんだか身も蓋もない話になりましたが、そうでもありません。
「欠ける」がないと「掛ける」も「書ける」もないのですから。また、さらに「書きつづける」ためには、さらに「欠けつづける」がなければらないのですから。
えんえんと書きつづける、欠けつづけるのです。
(えんえんと言っても、もちろん、生身の人間には終わりがあります。時間と体力には限りがあります。人にとって「月欠ける」は「尽き掛ける」です。窓越しに見る欠ける月が気(木)に掛かる。)
「欠ける」は常に出発点であり、中継点でもあり、到達点でもあると言えるでしょう。「欠ける」は動作と言うよりも、各時(地)点での状態であり、常態なのです。
もともと「欠けている」のが人間の常態であり、自然ではないでしょうか。私は受け入れたいと思います。
欠けているからそこに掛けてみる、すると架かる。それが「書ける」である。――とも言えます。言えるだけです。
*
次のようにも言えるでしょう。
文字とは「それではない」「そこには(い)ない」という、しるしではあっても、「掛ける」ことで、糸が懸かり、橋が架かるのです。
掛ける・書ける(平面・紙面・画面で起きること) ⇒ 懸かる・架かる(人の内面で起きること)
言い換えると、見えない糸と橋をつたわって、平面上の文字に立ち現れている「それではない」ものと「そこには(い)ない」ものが、あなたの中に立ち現れるのです。
それが平面上に書かれる、おそらく薄っぺらい文字と、それを書く、立体物としての人間との関係性(かかわり合い)ではないかと私は思います。
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