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日、月、明(「物に立たれて」を読む・03)

「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」
「月、日(「物に立たれて」を読む・02)」

 古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。

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 引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。

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 まず、前回の記事をまとめます。

 小説であれエッセイであれ、古井由吉の文章を読んでいると、同じ文字(漢字)がよく出てくるし、よく見えることに気づきます。
 たとえば、『仮往生伝試文』に話を絞ると「月」と「日」がよく出てきます。この連載で読んでいる「物に立たれて」という章の冒頭である、「十二月二日、水曜日、晴れ。」にも、その「かたち」が見えます。
「月」と「日」がよく出てくる、それなりの理由のある章もありますが、あえて理由は考えなくてもいいと私は思います。よく出てくるなあ、と気づくことが大切なのです。
 ある日ある時の古井由吉は、多くの可能性と選択肢の中から、あえてそのフレーズや文を書いたのであり、そのさいにその文字を選んでつかったと考えられます。それは意図や思いや癖などという抽象を超えた具体的な行為であったにちがいありません。
 その具体的な出来事の結果が、文字という「かたち」を取っているのですから、その文字は、もはや「物」と言うしかない動きと身振りの痕跡だと言えるでしょう。私はそれをなぞるだけです。

 では、今回の記事を始めます。


*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんな客はあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・p.259)

*日、月、明


・「十二月二日、水曜日、晴れ。」:

『仮往生伝試文』では各章が、説話をめぐっての文章と、日記体の文章に分かれています。「物に立たれて」は、いきなり日記体の文章で始まっています。

「物に立たれて」という章の出だしは、「十二月二日、水曜日、晴れ。」です。日記体の文章ですから、日付と天気で始まることは不思議ではありません。

 前回と同じく、この冒頭の一文を眺めてみます。一文(一センテンス)と言ったのは、句読点の打ち方からして、どう見てもセンテンスだからです。

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 この連載では、連想にうながされて記事を書いています。私の場合には、連想というのは脱線を意味します。脱線をすれば、前にはなかなか進みません。停滞するだけです。

 申し訳ありません。どうかお付き合いをお願いします。

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 で、「十二月二日、水曜日、晴れ。」というセンテンスを文字列として眺めていると、私の目は「十二月二日」の箇所に釘付けになります。

・月、日 ⇒ 日、月 ⇒ 明

 私の頭の中では、こんなふうに文字が転がり、合体します。

 実は、古井由吉の文章を読むたびに「明」という文字を追っていた時期がありました。気になって仕方なかったのです。

 作家には書くときの癖があります。いろいろな癖がありますが、表記の癖がいちばん目につきます。文章を読むと言うよりも見ることで一目瞭然だからです。

 文体となると読まなければなりませんが、表記は文字通り、「おもて・表」に出ているものですから、見ているだけで目に入ります。あとは、気づくかどうかです。

*明ける


 古井の表記で私が気になっていた、そして今もときどき気になるのは「明ける」です。

 例を挙げるのがいちばんわかりやすいでしょう。古井の作品で、おそらく最もよく知られ、よく読まれている『杳子・妻隠』から引用します。

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 まず、『杳子』からの引用です。

すると杳子はいきなり目をあけて、路地の気配を窺うかがう猫のような目つきになったかと思うと、さっと店の扉を押しあけて入ってきた。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収)新潮文庫・p.47・太文字は引用者による・以下同様)

十分と待たせずに杳子は喫茶店の扉をおずおずと押し開けて入ってくる。(p.83)

それなのに、今では窓を残らず明けて、部屋の境いのドアも明けて、吹き抜けの中に横になっていても、肌がじっとり汗ばんでくる。(p.105)

 次は、『妻隠』からの引用。

寿夫は右へ一歩動いて老婆のために道を明けてやった。そして相変わらず渋面を守っていた。
(古井由吉『妻隠』(『杳子・妻隠』所収)新潮文庫・p.174)

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 古井由吉は、作家活動の初期から晩年にいたるまで、「開ける」と「空ける」を書き分ける現在の標準的な表記だけでなく、そのどちらの場合にも「明ける」をよくもちいていました(「開ける」も、平仮名だけの「あける」もつかっていましたが少ない気がします)。

 なお、こうした書き分けない表記は、かつては広く行われていた表記だったようです。川端康成や徳田秋声や夏目漱石の小説でも見た記憶があります。

 また、古井は「明・日・月・赤・白」という文字を、おそらく偏愛した書き手でもありました。

 表記のばらつきや、ある特定の文字が頻出する場合に、私はなぜかとは考えません。その表記を楽しむだけです。

 というのは、建前でして、実はこだわります。

*赤の魅惑


「明ける」や「明・赤」に対する古井の偏愛
(私がそう思っているだけですけど)には、強く興味を惹かれます。

「あける・明ける」の語源の説明には、たとえば「アカ(明・赤)と同源で、明るくなる意)(広辞苑)とありますが、それを読むたびに、思わずうなずき、考えこむ自分がいます。

 なぜかと言いますと、『杳子』の最終章である「八」(pp.153-170)における、「赤」と「白」の氾濫(「白」はこの小説では杳子の顔を形容するさいに頻用される文字です)と、最後の最後のほうになってくり返される「赤」が気になっているからです。

 これは、いったいどういうことなのか、と。そんな私は、「赤の誘惑」というか「赤の魅惑」に身をまかせます。この辺は、蓮實重彥の『「赤」の誘惑 フィクション論序説』(新潮社)を意識してお話ししていますが、残念ながらここではこれ以上立ち入ることができません。なお、ここで言う「赤の魅惑」が「「赤」の誘惑」と無関係であることは確かです。

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「あける」をめぐる表記のぶれは不思議と言えば不思議ですが、おそらく解はないと思うので、謎解きはしません。というか、できません。

 ただし、古井の作品で「明ける」という表記と、「赤」という文字が出てくるたびに、気になってその前後をくり返し読む癖が今もあります。「明ける」と表記されているときには、なにか特別の意味があるように感じることもあるし、感じないときもあります。

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 具体的に見てみましょう。

 八つの章からなる『杳子』の最終章である「八」の第一段落に以下の文があるのは象徴的に感じられます。古井の偏愛する「明ける」と「明かり」という文字が見えるからです。

階段を昇りきったところで左手の扉をゆっくり明けると、薄暗がりの中から、階下よりも濃密なにおいが彼の顔を柔らかくなぜた。かなり広い洋間の、両側の窓が厚地のカーテンにおおわれ、その一方のカーテンが三分の一ほど引かれて白いレースを透して曇り日の光を暗がりに流していた。その薄明かりのひろがりの縁で、杳子はこちらに横顔を向けてテーブルに頬杖ほおづえをついていた。白っぽい寝間着姿だった。その上から赤いカーディガンを肩に羽織っている。戸口に立つ彼の気配を感じると、杳子は頭を掌の中に埋めたまま、彼のほうを向いて笑った。湯から上がりたてのような、ふっくらと白い顔だった。
(pp.153-154・太文字は引用者による)

 やはり古井の作品群において特徴的な「白」が、この場面の焦点を「薄暗がり」から「薄明かり」へと移し、暗を明に転じる役割を果たしているのにも注目しないではいられません。

 章冒頭の段落に見られるこの展開は、後述するように、「八」の章全体の展開をなぞることになります。

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 次に、「八」の終り、つまり文庫版の『杳子』という作品の最後の二ページから引用します。

 軀を起こすと、杳子は髪をなぜつけながら窓辺へ行ってカーテンを細く開き、いつのまにか西空にひろがった赤い光の中に立った。
「明日、病院に行きます。入院しなくても済みそう。そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なことよ。でも、薬を呑まされるのは、口惜くやしいわ……」
 そう嘆いて、杳子は赤い光の中へ目を凝らした。彼はそばに行って右腕で杳子を包んで、杳子にならって表の景色を見つめた。家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋の陽せ細ったの上へ沈もうとしているところだった。地に立つ物がすべて半面を赤くあぶられて、濃い影を同じ方向にねっとりと流して、自然らしさと怪奇さの境い目に立って静まり返っていた。
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」 
 杳子が細く澄んだ声でつぶやいた。もうなかば独り言だった。彼の目にも、物の姿がふと一回限りの深い表情を帯びかけた。しかしそれ以上のものはつかめなかった。帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていった。(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』所収・新潮文庫・pp.169-170・太文字は引用者による)

「赤い光の中に」、「赤い光の中へ」(p.169)、「赤みをました秋の陽が」「赤く炙られて」(p.170)と立て続けに「赤」が出てくるのには目を見張らざるをえません。

「あか・赤」は「あけ・明ける」と同源らしいのですが、そう考えるとイメージの鮮やかさにはっとします。美しいのです。

「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」
(p.170)

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 話は変わりますが、夏目漱石の『それから』のラストシーンに頻出する「赤」を連想した方もいらっしゃるにちがいありません。

 中条省平氏『文章読本』(中公文庫)の「心象を描写する」でおこなっている簡潔かつ俊抜な分析をお読みになることをお勧めします。

 この文章読本は、文学作品をあくまでも言語作品として読みたい人に向いていると思います。

 小説が言語作品であるのは当たり前のようですが、言語からなっているはず作品を、言語以外のもの――たとえば読み手の印象とか作者の意図とか作者の実像――に置き換えたり還元しがちな読みが、圧倒的に当たり前になっていると私は感じています。

 どう読もうと、読者の勝手であることは言うまでもありませんが。

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 話を戻します。

 さきほど見た『杳子』の最後の章である「八」のラストに出てくる「赤」の伏線と考えられるものがあります。

「紅茶とショートケーキ」(p.158)の出現です。コーヒーや緑茶ではなく「紅」茶であることに注目したいです。しかも、白いクリームと赤いイチゴのショートケーキなのです。

「紅白」という言葉を連想しないではいられません。

「紅茶」「紅茶」(p.159)、「紅潮」(p.160)、「(杳子は)ショートケーキのクリームの泡の真ん中に立つ真赤なイチゴを指した」、「彼のケーキのイチゴを指し」、「杳子の目はゆらゆらと燃え上がり」(p.161)、「ほんの僅かなクリームにも、唇が円められて」、「閉じた唇の奥で舌がゆっくりのたうつのが頬に顕われ」(p.165・クリームは「白」、唇は「赤・紅」でしょう)、「杳子はクリームの中から露出したイチゴをフォークの先でつつきながら」(p.166)、「杳子はいつまでもイチゴをつついては転がしていた」(p.167)、「赤く濡れた唇を二匹の別な生き物のように動かした」(p.168)、「(杳子は)濃くなった暗さの中に白く顔を輝かせて」(p.169)。

 こうやって見ていくと、「白」とからむ「赤」がじつになまめかしく描写されています。

 以上のように展開して、さきほどの引用箇所――作品ラストの窓辺と夕日――にいたります。

 ここでの杳(暗・黒)と赤(紅・明)と白(肌)の対比と共存(共振)は、文字通り、明明白白ではないでしょうか。

 上で述べた「「白」が、この場面の焦点を「薄暗がり」から「薄明かり」へと移し、暗を明に転じる役割を果たしている」、この章の冒頭にある三センテンスによる展開が、この章全体の展開として反復されているかのように感じられます。

 さらに言うなら、作品の最後におけるこれらの明度の高い色の対比は、この作品の冒頭での「杳」「黒」「陰」「紅」「暗」「灰」「明」「昏」(pp.8-9)、「陰」「女の蒼白い横顔」(p.10)、「その顔は谷底の明るさの中にしらじらと浮かんでいた」(p.11)、「(杳子の)肌色のアノラック」「(杳子の)黒いスラックスをはいた脚は太腿をきつく合わせていたが」(p.12)、「形さまざまな岩屑の灰色のひろがりの中に」(p.13)という明度の低い色の対比と興味深い対照をなしているかのようです。

「杳子」で始まる『杳子』という小説は、「杳」子がしだいに「明けていく・開いていく」作品ではないか。そんなふうに私は感じます。

 とはいうものの、気になるのは「輪郭」という言葉です。

そうかと言って、よく山の中で疲労困憊した女の顔に見られるように、目鼻だちが浮腫みの中へ溺れていく風でもなく、目も鼻も唇も、細い頤も、ひとつひとつはくっきりと、哀しいほどくっきりと輪郭を保っている。
(p.11)

 冒頭の谷底の場面でくっきりとした輪郭だった杳子が、最後には次のように描かれます。

帰り道のことを考えはじめた彼の腕の下で、杳子の軀がおそらく彼の軀への嫌悪から、かすかな輪郭だけの感じに細っていた。
(p.170)

 杳子は「明ける」ことで「彼」と出会うはるか前の「杳」子にもどったのでしょうか。杳杳の「杳」です。心理や性格のことではありません。作品全体の視点的人物である「彼」の目に映る「姿」のことです。

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 この作品のタイトルは『杳子』なのです。しかも作品冒頭の一語が「杳子」であることを失念するわけにはいきません。この作品における名前とその表記をあっさりと無視して、この作品を語ることができるでしょうか。

 ちなみに、杳子の杳には暗いという意味がありますが――もちろん同時に「杳」に「日」という字が見えることを看過するわけにはいきません――、暗さ、闇、黒、白、灰、明、明るさ、赤(あか)は、この作品では重要なテーマをなしていると思います。

 杳を性格の暗さという心理に還元する紋切り型で読むのではありません。テーマをなすのは、むしろ光と明度、つまり細部における色の具体的な「明るさ/暗さ」の「対比・対照/共存・共振」なのです。

 杳子と彼の心理だとか思いだとか人間関係、あるいは古井由吉の意図とか思想などという抽象に置き換えて読んだとして、それがこの作品を読んだことになるとは私は思いません。

 言葉(文字・字面)からなる具体的な作品の向こうに視線を向けて、作品に書かれた言葉以外のもの、つまり抽象や書いてないことに置き換えただけではないでしょうか。

 かなたではなく目の前にある言葉(文字にほかなりません)に目を注ぐという、この読み方は、大学生時代に受けた蓮實重彥氏――当時非常勤講師として私の在籍していた大学で教えていたのです――の授業と、その著作から学んだものです(もっとも私は誤解と曲解には自信がありますので、誤解と曲解である可能性はきわめて大きいと思います)。

 抽象をできるかぎり避けながら具体的に書かれた言葉を読むという姿勢は、私がものを書くさいにいまも心がけていることでもあります。

 とはいえ、小説の読み方は人それぞれです。どう読もうとその人の勝手です。

*明ける、開ける、空ける


 話を「明ける」に戻します。

「明ける」という表記については、最近読んでいて気づいた例があるので紹介します。手元の『川端康成異相短篇集』(高原英理編・中公文庫)に『死体紹介人』が収録されているのですが、次の表記が目につきました。

「座席があいていても(p.167)」、「眼をあいている(p.176・2箇所)」、「もう一度(行李の蓋を)あけて(p.179)」、「大きく口を開いて(p.192・「ひらいて」とも読めます)」、「(骨壺を)明けてごらん(p.202)」、「戸の明く音(p.207)」、「襖を明けた(p.210)」、「ガラス窓を細目に開けた(p.230)」。

 なお、19章からなるこの作品は1929年4月から1930年8月のあいだに雑誌で連載されたようで、そのために表記にばらつきが見られるのかもしれません。また、上の文字列が作者の手によるものなのか、印刷所で活字を拾うさいに生じたのか、編集者による判断の結果なのかは不明です。

 いずれにせよ、上の文字列(表記)をふくむテキスト(文書)として作品は目の前に存在し、読者はその文字列を目にするしかないのです。

 個人的には表記の揺れとか揺らぎと呼ばれているものが好きです。その時々の作者の筆致を感じてぞくぞくします。

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 表記の揺れと言えば、澁澤龍彦の文章を思いだします。

 私もかつては校正者として他人の本の校正をしていたものだが、いまでは著者として自分の本の校正をしてもらう側の人間になってしまった。だから校正者の気持もよく分かるつもりなのだが、やはり腹が立つときは腹が立つものである。
 近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。「生む」と書こうが「産む」と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである。
(澁澤龍彦「校正について」『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)所収・p.38)

『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫)の「初出一覧」によると「校正について」という文章は1984年に書かれたもののようです。

*異和感、違和感


 古井由吉の文章に戻ります。

それなのに、今では窓を残らず明けて、部屋の境いのドアも明けて、吹き抜けの中に横になっていても、肌がじっとり汗ばんでくる。
(古井由吉作『杳子』(新潮文庫)p.105)

 さきほど、引用したのと同じ文ですが、今度は太文字をほどこしてありません。

 どうでしょう? 表記に異和感を覚えますか? 文字の向こうにある意味だけを、あるいは視覚的なイメージだけを追っていると――意味もイメージも「どこか」「かなた」にあって「いま」「ここ」にはないものです――違和感を覚えないかもしれません。

 ただ今の私の文章では、一つの段落に二通りの表記がありました。混在しているのです。

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 ところで、あなたは違和感派ですか、それとも異和感派ですか? 

 古井由吉の作品では「異和感」という表記で統一されている気がします。たとえば、『槿』(講談社文芸文庫)ですとp.10に、『先導獣の話』(『木犀の日』所収)では、講談社文庫版のp.22、『杳子』(新潮文庫)だとp.134に見えます。

 村上春樹も「異和感」派みたいです。ファンの方ならご存じかもしれませんが、私がたまたま目にしたのは『1973年のピンボール』(講談社文庫)のp.12で、そこには三つ続けて出てきます。

 吉田修一もそうみたいです。一例を挙げると『東京湾景』(新潮社文庫)の p.13 をご覧ください。他にもあると思っていましたが、先日『怒り 下』(中央公論新社)を読みかえしていたところ、p.143 に「違和感」がありました。

 もともと新聞に連載されたものだからでしょうか。新聞なら異和感に違和感を覚える読者が多数いそうです。新聞社としてはメールや電話の対応に追われるのを避けて、無難な表記を作者に求めるだろうと想像します。

*文字の「顔」


 話を戻します。何度も戻して申し訳ありません。古井由吉の『仮往生伝試文』に戻します。

 この連載で読んでいる「物に立たれて」という章に「一時間あまり前に、火ののこる灰をその中へ明けてしまったらしい。」(p.283)という一文があります。

 古井由吉は下書きを鉛筆で書いていたようなのですけど、その削りかすをクッキーの入っていた空缶に煙草の灰といっしょに放りこむ習慣があり、ある日火が削りかすに移って缶が発熱した。そんな話が「物に立たれて」に書かれているのです。

「空けてしまった」ではなく「明けてしまった」とあるところに、鉛筆で文字を書いていたそのときの古井由吉の身体の身振りを感じないではいられません。

 言葉の身振りから身体の身振りが迫ってくるのです。その振りに私が振れる――。

 振りに振れる。一種のともぶれ(共振)だと勝手に思っています。

「明けてしまった」と書いた時の古井の指がなぞっていた身振りをなぞっているようにも感じます。

 こんな時の私が、文字を「読んでいる」というよりも「見ている」のは確かだと思います。読んでいては「顔」に出会えないからです。文字の「顔」のことです。

*まとめ


 十二月二日、水曜日、晴れ。

 今回も上の箇所を読みました。このようにゆっくりと進めていきますので、どうかよろしくお願いいたします。

 では、今回のまとめを以下に書きます。

 月、日 ⇒ 日、月 ⇒ 明 ⇒ 明・赤 暗・白
 古井由吉の文章では、「明ける」という表記が目につきます。「開ける」と「空ける」という書き方が標準的な文脈でも「明ける」と書かれることが多いのです。
「なぜ」と問うことは簡単ですが、その言葉を飲みこみ、古井の書いた文字の連なりに目を向けることのほうが、ずっと大切だと私は思います。
 私の中では、「明ける」は待つ姿と重なります。夜の静けさの中で耳を澄ませ文字をつづっていく。そして明けるのを待つのです。
 樹の下に陽が沈み、長い夜がはじまる。机に向かい鉛筆を握る。目の前には白い紙だけがある。深い谷を想い、底にかかる圧力を軀に感じ取り、さとい耳を澄ませながら白を黒で埋めていく。

     *

 この「「物に立たれて」を読む」というシリーズは、こんな調子でマイペースに進めていくつもりです。なお、記事は不定期に投稿します。

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