ヒトは動物園にいない
動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを動物と見なしていないからでしょう――。
今回は、上で述べたことをめぐって思うことを書いてみます。
人
動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを動物と見なしていないからでしょう。
上の文章をいじってみます。
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動物園に人間はいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それは人間が自分たちを動物と見なしていないからでしょう。
動物園にホモ・サピエンスはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはホモ・サピエンスが自分たちを動物と見なしていないからでしょう。
動物園に地球人はいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それは地球人が自分たちを動物と見なしていないからでしょう。
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ヒト ⇒ 人間 ⇒ ホモ・サピエンス ⇒ 地球人
「人」や「人類」と言い換えることも可能ですが、びみょうに意味合いが違って感じられます。
いや、ぜんぶ同じだ。ぜんぶ同じものを指し示しているという人もいるでしょう。人ぞれぞれです。
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いま「人」という言葉をつかいましたが、複数の国語辞典を読むと、「ひと・人」という日本語には、「ヒト、人類、人間、ホモ・サピエンス」、「世の中の人、人びと」、「他人、他者」などの意味があります。
あと、「そうやって、あなたはいつも人のせいにするのね」というときの「人」は「他人」寄りの「自分・わたし」という気がします。また、「いい人できたのね」の「人」は恋人寄りの人のようです。
動物
動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを動物と見なしていないからでしょう。
上の文をいじってみます。
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動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを生き物と見なしていないからでしょう。
動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを生物と見なしていないからでしょう。
動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを動植物と見なしていないからでしょう。
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動物 ⇒ 生き物 ⇒ 生物 ⇒ 動植物
「生き物」を「いきもの、生きもの、生物」のように書き分けることもできますが、びみょうに意味合いが違って感じられます。
いや、ぜんぶ同じだ。ぜんぶ同じものを指し示しているという人もいるでしょう。人ぞれぞれです。
私はひとさまの語感に口出しはしません。されるのが嫌だからです。
動物園
A)動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを生き物と見なしていないからでしょう。
B)動物園にヒトはいません。いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。それはヒトが自分たちを動物と見なしていないからでしょう。
A)とB)をくらべると、B)にはこの文を書いた人の皮肉が私には感じられます。
それは「動物園」と「動物」という文字列が一致するからでしょう。「動物園にヒトはいません。」と、しれっと言っておいて、「いるにはいるけれど、常時檻や柵の中にはいません。」と肩すかしをして、「それはヒトが自分たちを動物と見なしていないからでしょう。」と皮肉るわけです。
私は、この文を書いた人は人が悪いと思います(「人が悪い」というときの「人」は、「悪い人」の話をしているわけではないので、「性格」という意味のようです)。
もちろん、この皮肉が通じない人もいます。通じすぎて腹を立てる人もいるでしょう。人それぞれです。
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「動物園」と「動物」という文字列が一致するから皮肉に聞こえるとすれば、それは日本語の問題だと言えます。言葉の綾とも言えるでしょう。
もし皮肉が通じたとすれば、これは日本語だから可能な当てこすりだということです。英語にすれば、皮肉は半減するか、消えるでしょう。
人を語る
私には、自分の体験をもとにしながら、「人は……である」「人は……する」というふうに書く悪い癖があります。
自分のことを語りながら、人類を語っているのですから、これは語りというよりも騙りでしょう。
私は人との交際がきわめて薄い人間です。言葉のありようを観察するのが趣味なのですが、言葉を観察していると同時に人の観察もすることになります。
そのときに、ついつい「人は……である」「人は……する」とか「人は……するものだ」と書いてしまうのです。
観察できるほど親しい人類が自分しかいないのに、というか、自分しかいないために、自分のことを語りながら人類を語ってしまうということです。
人と動物
たとえば、「人に動物を感じる」とか「人に動物を感じるとき」というタイトルとテーマで記事を書こうと思ったとします。
この場合には、人間、人類、ホモ・サピエンス、ヒトという言葉を避けて、または捨てて「人」を選んでいます。どうように、けもの、獣、けだもの、獣類という言葉をあえてつかわない選択をしたことになります。
「人間、人類、ホモ・サピエンス、ヒト、人」はぜんぶ同じだし、「けもの、獣、けだもの、獣類、動物」もぜんぶ同じだ。こうした語感の人にとっては、なんの問題もないし、悩むことではぜんぜんないにちがいありません。
一般化する
人が人を語るとき、人が動物を語るとき、そして人が人と動物を語るときには、ある種の一般化をしています。
もし私が「人に動物を感じるとき」というタイトルの文章を書くとすれば、日本語という枠のなかで、人と動物についてのある側面を一般化しなければなりません。
あらゆる一般化は、ある特定のローカルな言語をつかって、つまり、ある特定のローカルな言語の枠内で一般化をめざさなければならないと言えます。
ある言語で、言葉をついやして語れば語るほど、記述すれば記述するほど、その言語の言葉の綾にとらわれることになります。つまり、「一般(化)」とか「普遍(性)」とか「客観(性)」からどんどん離れていくのです。
そのさまは「ボロが出る」という言い回しに似ています。滑稽なのです。
このことに敏感だったのは、たとえばジャック・デリダだったという気がします。
指し示す「何か」が不明
ジャック・デリダの文章を日本語訳で見れば一目瞭然です。または、ジャック・デリダについて書かれた文章をちらりと見るだけでも感じ取れます。
日本語の枠のなかで異物性とか畸形性という言葉で形容したくなるような様相をていします。「日本語」であるはずの言葉の指し示すものが不明であったり不在であったり不可解な「何か」として立ち現れるのです。
いま述べたことが翻訳不可能性などという楽観的な(抽象だという意味です)言い回し――それ以前にそもそも言葉が不可能性そのものなのですから――と無縁であるのは言うまでもありません。
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上で述べた「日本語の枠のなかで異物性とか畸形性という言葉で形容したくなるような様相」については、以下の引用文をご覧ください。
以上の断片を含む段落、およびその前後の段落の言葉たちは、きわめて刺激的な身振りを演じています。長くて引用できないのが残念です。
振りをする、振りを装う、振りを演じる
話をもどします。
ある言語で、言葉をついやして語れば語るほど、記述すれば記述するほど、その言語の言葉の綾にとらわれることになります。つまり、「一般(化)」とか「普遍(性)」とか「客観(性)」からどんどん離れていくのです。
一般化をめざすだけでなく、普遍をめざす、客観性をめざす――こうした一連の作業は、ローカルでしかありえない特定の言語をもちいての操作になるというわけです。
という文も一般化の試みにほかなりません。
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数式やある種の記号をもちいるとか、数式やある種の記号を言葉にまじえて科学や客観性を装うという言辞(レトリック)や、機械語をもちいるという曲芸もあるみたいですが、詳しいことは知りません。
どの言語も数字を含む記号も、人のつくったものである以上、人のために人に合わせてつくられているのですから、ローカルな気がするだけです。その意味で機械もローカルな存在です。
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ヒトは神ではありません。ヒトは神の振りをしたり、神の振りを装ったり、神を演じることはできます。
振りをする。これはヒトのもっとも得意としている曲芸です。何の振りも、誰の振りもできます。とくに「見たこともないもの」と「目の前にないもの」の振りが得意なようです。
そっくりですね。文字にそっくりです。ヒトと文字はその振りがそっくりなのです。
ヒトは文字に自分をうつしている(移すではなく映すと写す、というか移すの代わりに映すと写す)のですから、その振りがそっくなのは当然なのかもしれません。
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人のつくるものは人に似ている。
人のつくるものに人は似ていく。
これは、文字についても言えそうです。
居直る
一般化をめざしながら、特殊化をめざしてしまう。
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であって、でない
であって、ではない
でありながら、ではなくなってしまう
……であって、……でない
……であって、……ではない
……でありながら、……ではなくなってしまう
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一般化をめざしながら、一般化ではなくなってしまう。
一般化という言葉がありながら、一般化について語られることはない。
こうなると、居直るしかありません。忘れた振りを装うのです。演技・遊戯・演奏・賭け(play)と割り切るのです。ただし、忘れた振りを演じていることを忘れたくはありません。自覚的していたいです。
そんなわけで、私は居直って「人に動物を感じるとき」という記事を近いうちに投稿しようかと思っています。
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