「ない」文字の時代(かける、かかる・02)
川端康成の『反橋』は次のように始ります。
興味深いのは、この歌を覚えて帰った語り手の「私」の手によって歌が書き写され、それが切っ掛けとなって、絵や他の歌へと話がつぎつぎとつながっていく展開になることです。
歌が架け橋になっていると言えます。
かけはし、架け橋、掛け橋、懸け橋、梯、桟。
当然のことながら、「書く」と「かける」と「縁」という言葉が頻出します。連想が連想を呼ぶように、さまざまな絵や歌の名前が出てきて、それらにまつわる逸話が簡潔に述べられるのです。
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気になるフレーズを断片的に書き写してみます。
・(須山が)この歌をそらんじていて(……)色紙に書いたということ(p.9)
・(須山が)仏はなにか象徴と受け取ったのでありましょう。(p.9)
・私もこの歌をおぼえて帰って人からあずかっている紙に書いてみたりしました。(p.9)
・(私には)やはり須山とおなじようになにかこの歌に心ひかれるものがあったのかもしれません。(p.10)
・これを書き出しました今もなにか住吉に縁のあるものがうちにないかとさがしましたがなにもありませんので、雪華の絵を床にかけてみました。横物の月の桂で、
目には見つ手にはとられぬ月のうちの桂に似たる君にぞありける
の書きこみがあります。(p.10)
・桂の君は住吉に縁がないのでしょうけれども、雪華の歌神という絵は、
あまくだりあらひと神のあひおひを思へば久し住吉の松
など住吉の松の歌が四首も書きこんでありますが、(p.10)
こんな具合に、まるで連想ゲームのようにさまざまの作品が出てきます。
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こうした連なりを目にしていると、これぞまさに「かける」であり「かかる」だと、単純な私は感心しないではいられません。
ここで言う「かける」と「かかる」とは、懸け離れたものがつながるという意味です。
文芸や工芸や芸術の世界では、時代や地域やジャンルをこえて、さまざまな作品や品がつながっていく。そんなふうに、私はイメージしています。
個々の作品や工芸品が「かけはし」なのです。
物として存在する作品や工芸品は、思いの中でつながるだけでなく、所有や売買や譲渡という形で移り渡っていくにちがいありません。歌のように無形のものであれば、記憶や口承や書写という形で移り伝わっていくのでしょう。
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かける・かかる、わたす・わたる、つたえる・つたわる、うつす・うつる、つなぐ・つなげる
『反橋』は、そうした言葉とそのイメージを感じさせてくれる作品だと思います。
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連想であれば、ふつうは似通ったもの同士をつなげたり、それらがつながっていくのでしょうが、そればかりではないようです。
次の引用文に、いま述べたことが簡潔にあらわれていると思います。
異質なもの同士が、ある人の中で同居する。これも「かける・かかる」のありようではないでしょうか。
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次の部分にも興味を惹かれます。
歌の解釈については不明なのですが、私はこのようにして歌を自分に引きつけて読んでいく「私」の身振りに目を見張らずにはいられません。
ここにも「かける・かかる」を見てしまう自分がいます。
さらに瞠目してしまう箇所が、この直後に続きます。
なお、歌切(うたぎれ)とは「古人の名筆で書写した和歌の巻物・冊子を手鑑(てかがみ)にはりつけ、または掛物に作るために、1首もしくは数首分を適宜の大きさに切り取ったもの。」(広辞苑)だそうです。
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ここでは文字が複製としての活字ではなく、自筆(または他筆)の書としてあるわけですが、文字を複製としてとらえがちな私には、考えれば考えるほど衝撃的な意味をもって迫ってくる箇所なのです。
かける・かかる、わたす・わたる、つたえる・つたわる、うつす・うつる、つなぐ・つなげる
こうした言葉とイメージが、単なる「抽象のかかわりあい」だけでなく、物のかかわりあい」をもふくむものでもあることを教えてくれる文章です。
「うつす・うつる」で言うなら、ここで述べられているのは、「写す・写る」や「映す・映る」という影(抽象)のレベルではなく、「移す・移る」という物のレベルの話だと私は感じます。
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今は「書く」が「写す」と「映す」の時代になっています。
おもに紙の上に筆やペンで「書いていた」文字が、キーボードを指で「叩く」、あるいは画面上の模様に指で「触れる」ことで同じ画面に「映る」ものとして存在し、さらにそれが瞬時に「写る」、それと同時に「拡散」され「保存」されるのが当たり前になっているのです。
しかも、たちまち増えるのです。複製という意味です。でも、その増えた文字は「ない」のです。影だから増えても「ない」のです。
文書をふくむ情報の量(単位)をあらわすカタカナ語が、形だけのものに見え、むなしく響きます。
それだけではありません。
この数年間に自分の「書いた」文章が一行も、いや一字も印刷された「物」になっておらず、デジタル化された「情報」としてネット上のどこかに「存在」しているらしいことに気づき、がく然とするのです。
二十年前には予測していなかった事態です。
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この数年私の書いていた文字たちは影なのです。実体のない影。
影の先に立っていた私が、いつか影に先立つことになるのでしょう。影に見送られることになるときの気持ちを想像すると切なくなりますが、影が残ってくれるのであれば、それもいいかなあと思います。
文字の影、影の文字。
あなたはどこにおいでなのでしょうか。
「ない」文字、影の文字――。新たな意味での「無文字」社会の出現なのかもしれません。
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文字の長い歴史の中では、この「ない」文字のあらわれた「時代」はほんの一瞬なのでしょう。
たしかに便利にはなりましたが、「ない」文字が増えつつことで失われていくものは大きいし多い気もします。個人レベルでも、そしておそらく人類のレベルでも、です。
かける・かかる、わたす・わたる、つたえる・つたわる、うつす・うつる、つなぐ・つなげる
こうした動作と言葉とそのイメージが質的に大きく変化しているのではないか。そんなふうに感じています。
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このように『反橋』は終わります。
ゆめとうつつの隔たりは大きいようです。そのあいだを「かける」橋は、うつつにはないのかもしません。
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ところで、私には以下のセンテンスがいちばんリアルに感じられました。こわいですが、わくわくするイメージです。
この場面を夢で見られないものでしょうか。『反橋』の語り手である「私」の回想風夢想と同じく五歳の子どもになって、その目で見てみたいのです。
言葉や想いよりも、夢のほうがずっと臨場感がありますから。
言葉の夢、夢の言葉。影の夢、夢の影。夢の夢、夢、また夢。
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