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【小話集】似ている、そっくり、同じ
今回の記事はとても長いです。太文字のところだけに目をとおしても読めるように書いていますので、お試しください。なお、小話間で重複があるのは、そこが大切だという意味ですので、どうかご理解願います。
【小話0】
似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一を体感するのには、刻々と変っていく時計――アナログでもデジタルでも日時計でも腹時計でもいいです――を見つめたり、耳を傾けたり、触れたり、目をつむってその気配を感じたりするのが、いちばん分かりやすいのはないでしょうか。似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一のどれもを体感できる気がします。
【小話1】たったひとつのものが並ぶ
力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力
不気味なものを感じます。こんなことをしている自分にです。それはさておき、上の文字列を見ていて、なぜ背中がぞくぞくするのかと考えてみると、固有名詞だからかもしれません。
不気味なのは、この世でたったひとり、たったひとつであるはずのものを指す言葉が、ぞろぞろ並んでいるせいです。
*
固有名詞とは、文字どおりに取れば、固有の名詞ですから、
その指ししめす人や物が、たったひとり、たったひとつなのに(抽象・観念・頭で知っているだけ)、
ぞろぞろ並んでいる(具象・文字・目の前にある)
という意味です。
でも、それでけではありません。いまの話も、話であるかぎりは、抽象だからです。
「たった」とか「唯一」とは、「抽象と具象という物語」(物語とは抽象です、目に見えず手で触れることができない観念であり、頭で知っているだけです)だけではすくい取れないなのです。というか、抽象はするするとすり抜けていきます。
*
たとえば、あなたにとって「世界でたったひとり感」の強い人の像がずらりと並んでいるほうが、「顔のない誰か」(知らない人や親しくない人)の人影がずらりと並んでいるよりも、不気味なのに似ている。
そう言えば、お分かりいただけるでしょうか。あなたがどれだけその人を知っているかにかかっているのです。人にとって「たったひとり」とか「唯一」とはそういう意味です。
「たった」とか「唯一」は愛着と同義(具象)なのです。文字どおりの意味(抽象)ではないという意味です。具象(体感)と抽象(観念)がずれています。ニュアンスの問題だとも言えます。言葉の綾だという気もします。ようするに、「わけ」が「わか」らないのです。
「わか」る「わけ」がないと「観念」しています。いまのは言葉の綾です。
*
たったひとつであるはずのもの(たったひとつ感が強いという意味ではありません)が、ぞろぞろ並んでいるというぞくぞく――。
現在の世界は複製で満ち満ちています。大量生産、印刷、電子的なレベルでのコピーが、複製を繰りかえし、コピーが増え、コピーのコピーがまたたくまに拡散するという事態になっています。
そんな複製とコピーをめぐっての物語、話、つまり抽象が、上の「カフカ」という文字の連続として体感される(ぞくぞくは体感であり、おそらく具象です)。
抽象を体感していただけたなら、うれしいです。
*
話を変えます。
「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7)
以上の文章なのですが、そこにかぎ括弧付きで出ている「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」という言葉は、抽象と置き換えてもいいように私には思えます。
*
抽象は、「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」なのです。(つまり、「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」は、抽象なのです。)
*
ややこしい言い方になりましたが、具体的に言うと、
「自由」「不自由」「制度」「装置」「物語」「風景」「反=制度」
と、頭の中で置き換えて読んでみるのです。ただし、ゆっくりとやってみてください。
たとえば、「自由」であれば、「自由」(自由という文字つまり具象)と「自由という抽象」(自由という言葉で頭に浮ぶイメージ)が一瞬のうちに交互に入れかわりませんか?
それが具象(文字)と抽象(意味やイメージや観念)を行き来するイメージなのですけど。「(目の前の)ここ」と「(ここではない)向こう」を行き来する感じ。
*
話を複製にもどします。
複製、複写、転写には変異がともなうと言われています。コピーにはエラーとズレとノイズは不可避だという意味です。
複製が複製だというのは、抽象(ここでは「ありもしない」とか「ヒトの頭の中にしかない」くらいの意味です)なのです。
複製とは、じっさいには「似たもの・似せたもの・にせもの」くらいがいいところでしょう。意識的なエラー、つまり改ざんもありますね。フェイクとも言えます。
生物レベルでいうと、例の変異も複製のさいに起きるズレだそうです。いまいましい変異……。ウィルスのことです。私もひどい目に遭いましたよ。
冒頭の文字列で、カタカナのカのひとつが、漢字の「力」(ちから)であっても不思議はないし、見た目には分からないのです。ひょっとすると、ぜんぶが「力」(ちから)かもしれません。
いまはそういう時代なのです。
本物と偽物のさかいが不明なのも、複製拡散時代の特徴です。
似せたものか、にせものか、似たものかも分からないのです。起源や本物の意味がなくなるとも言えます。私の好きな言葉で言うと、起源のない引用、引用の引用の引用……、本物や実物のない複製、複製の複製の複製……、です。
コピーのコピーに満ちているからです。言葉と同じです。
言葉に本物はありません。ぜんぶコピーなのです。ぜんぶ真似たものだという意味です。誰もが生まれたときに既にあったのですから、当然です。
「真似る」が「真似る」を「真似る」のです。
【小話2】似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一
複製が複製だというのは抽象(努力目標でもいいです)です。じっさいには「似たもの・似せたもの・にせもの」くらいのネーミングがいいところでしょう。
複製とは、「似ている」MAXの「そっくり」であり、ほぼほぼ「同じ」であっても「同一」ではありません。「同一」はこの世(世界でも宇宙でもいいですけど)でたったひとつ、つまり「それ自体」のことです。
人は「似ている」という印象の世界に生きています。「そっくり」は「似ている」の最上級でしょうが、「活用」(おこ、激おこ、激おこぷんぷん丸という活用を思いだしてください、似ている、激似、そっくり)しただけです。
一方の「同じ」と「同一」は印象の世界にいる人には、器具や器機や機械をつかわないと確認できません。
*
「同じ」と「同一」は学習の成果だとも言えるでしょう。赤ちゃんにとって「似ている」という印象はあっても「同じ」かどうかは知りません。たぶん。
わからないというより、知らないのです。「同じ」かどうかは教えてもらうのです。誰もがそうやって育ってきました。
「同じ」かどうかは、知識や情報として「教わるもの」なのです。学校とは「同じ」かどうかを学ぶ場と言えるでしょう。
*
たとえば、柴犬とキツネが動物という点では同じでも同じ種類ではなくて、ドーベルマンとポメラニアンが同じく犬なのは(人が勝手に名付けた結果である分類であれ、遺伝子レベルで機械やシステムが「はかった」結果であれ)、教わって知ったのです。
その意味で、知識や情報は抽象であり、体感でも印象でもありません。
「同じ」か「異なる」かは、世界や森羅万象の切り分け方によって異なり、文化であったり学問であったりします。文化や学問はローカルなものです。ある特定の集団が「決めた」ものだからです。抽象であっても普遍では、ありません。
そんなわけで複製は「そっくり」とか、ほぼほぼ「同じ」なのです。つまり印象であり努力目標(絵に描いた餅)というか……。
「同じ」複製をたくさんつくることは、人には荷が重すぎるようです。「同一」の複製とは言葉の綾ではないでしょうか? 言葉をつかうと何とでも威勢のいいことが言えますから。
*
人は「似ている」という印象の世界に住みながら、「同一」の世界に憧れています。
この憧れは悲願であり彼岸でもありますから、オブセッションになっています。「同一」の世界に憧れつつ、それが容易ではないため、人はブレない「杓子定規」の世界をつくり出しました。
ブレない機械をつくり、ブレない機械に「杓子定規」な言葉(プログラミングみたいなものでしょうか)でブレない動きをさせるのです。
その結果、「自然界にあるものもどき」をたくさんつくってきました。「自然界にあるものもどき」をつくるさいに使うのが、広義の機械とシステムです。いろんな機械があります。疲れない、ブレない、杓子定規、が優れた機械の特徴です。
自然界にあるものもどき(広義の複製のことです、大量生産の産物であり製品であり商品のことです)は、自然界にあるもの「そっくり」なのですが、もちろん「似せてある」だけの「にせもの」ですから、自然界にあるものと「同じ」ではないわけです。でも、人は「似ている」の世界に住んでいるので、満足します。
自然界にあるものもどきをつくる機械への命令や、機械とのやり取りは、「杓子定規」な言葉(プログラミングみたいなもの)(もちろん人がつくったものです、こんなものを他に誰がつくるでしょう? いつか機械がつくるかもしれませんけど)をつかいます。この言葉は普通の人には通じません。私も知りません。
*
「同一」の世界に憧れつつ、人は「杓子定規」な言葉をつかって、疲れない、ブレないさまざまな機械にいろんなことをさせています。
たとえば、機械特有のぎこちなさを感じさせない、自然界に見られるのとそっくりなしなやかな動き(まことしやかなしなやかさ)を二次元でつくる。
それを見て、人は三次元の空想つまり錯覚に浸ります。人にとって大切なのは空想と錯覚(「そっくり」を思いうかべたり思いえがく)なのです。
最近では仮想現実という「まことしやかなしなやかさ」を感じさせる(「感じさせる」だけですが、基本的に「似ている」しか感じられない人にとっては、これがいちばん大切なのです)錯覚製造装置(「似ている」と「そっくり」を思いうかべたり思いえがくための仕掛けです)までこしらえました。
また、人の知能もどきである――「そっくり」なのですが「同じ」ではありません、とはいえ「似ているMAX」の「そっくり」なうえに、学習機能を装備し、日に日に性能を向上させていますから、人は嫉妬や怒りや諦めや蔑視や罵倒や差別や賞賛や媚びという、きわめて人間的な、つまり機械に通じない感情を機械相手に募らせ(非生物相手に近親憎悪でしょうか、というか擬人化は人の得意とするところです)、ぶつけるしかありません――、AIというブラックボックスも進化を続けています。
とはいえ、人は依然として「似ている」という印象の世界に住んでいます。そのため、人はどうあがいても逆立ちしても、「杓子定規」にも「疲れない」にも「ブレない」にもなれません。
自然そっくり、知能そっくり、人そっくりという具合に、人は「そっくり」を相手に、「そっくり」という印象の世界にとどまっているのです。これが人としての枠なのですから致し方ありません。
自然の代わりに自然もどき、知能の代わりに知能もどき、人の代わりに人もどきで済まし、澄ましているしかないのです。
*
人間の「杓子定規」化、「杓子定規」の人間化。
人間の「同じ」化、「同じ」の人間化。
人間の「同一」化、「同一」に人間化。
人間の「そっくり」化、「そっくり」の人間化。
人間の「もどき」化、「もどき」の人間化。
人間の「複製」化、「複製」の人間化。
人間の「機械」化、「機械」の人間化。
人間の「にせもの」化、「にせもの」の人間化。
*
話がだいぶ逸れてきましたが、人がせっせとつくっている複製というものが、私たちの多くが想定しているほど「同じ」ものではない、ましてや「同一」ではありえないという点が大切です。
複製は「似ている」だけ、せいぜい「そっくり」なだけ、つまり「にせたもの」という意味での「にせもの」なのです。ただし、この場合の「にせもの」の裏には、必ずしも本物や現物があるわけではありません。
本物とか現物と呼ばれているもの自体が、何かに似せたものだったり、人にとって何かに似ているものだからです。
すごく短絡した言い方をすると、人が認識しているものはすべてが「何か」に「似ている」ものであり、その「何か」が保留されているというか不明なのです。
人が住んでいるのは、「似ているだけがある世界」だと言えそうです。
わけがわからない(つまり恐ろしい)から、とりあえず(必然性はないという意味です)名前を付ける(声を掛ける)のだと思います。手なずけるためです。
*
手なずけるために名づける――。このように掛詞は、なつかないものを手なずけるために名づけて飼いならそうとするさいの取っ掛かりになります。言葉を掛けることに賭けるのです。
言葉を掛けることに賭けると書けることがあります。いまがまさにそうです。無い、足りない、欠けるが書けるに転じるのです。欠けているから書けていると感じる瞬間が多々あります。いまがそうです。
掛詞は私のような芸の無い人間が多用します。無芸小食の身にとって詞芸は至芸なのです。芸無の達人を目指しております。
ちなみに、駄洒落やオヤジギャグとは掛詞の別称であり蔑称でもあります。
【小話3】見たことがないものが並ぶ
卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡、卡夫卡
中国語では「カフカ」がこうなるそうです。
てっきり私は「可不可」だと思いこんでいたのです(可もなく不可もなくの可不可)。自分の名前が見たこともない文字で記されて複製され拡散しているのを知ったら、ご本人はさぞかしびっくりなさるでしょうね。
もちろん、日本語の表記である「力フ力」も含めての話です。
*
有名になるとは、名前を奪われ、作家であれば、作品を奪われるようなものかもしれません。
自分のまったく知らない人たちが、自分の名前や作品名を知っていて、その名前を口にしたり書いたりするし、さらにはそれぞれの言語や訛りやアクセントや文字で表記したりするからです。
その人たち、ひとりひとりが、私(だけ)の「〇〇」という具合に、固有名詞(人名や作品名)についてのイメージをいだいているはずです。
有名になるとは、有名になった自分の名前と作品名が増えて広がると同時に、自分と分身がばらばらにされる、つまり自分と自作の名前が奪われることなのかもしれません。
しかも、小説であれば、読んでもいない人が作品名を口にして読んだ読んだと言うことがおおいにありえます。自分の手を離れてやりたい放題にされているという意味です。
いずれにせよ、名前と作品名が無限に複製されて拡散するのです。知らないところで名前が奪われてしまうのです。
自分が見知らぬ誰か、自作があずかり知らぬ「何か」になるのかもしれません。その複数どころか無数の「誰か」と「何か」が、自分と自作の名前を引用しているのです。でも、うらやましいですよね。
名前も言葉であり、外にあり、外から来て、外であるものと言えそうです。自分のお名前で想像なさってください。「外である」とは自分の思いどおりにならないという意味です。
作家は、自分の分身であるはずの自分の名前や作品でさえ思いどおりにできないし、じつは奪われているのです。
名前や作品名や要約という言葉や文字列として引用され、複製され、拡散されるからです。
簡単に言えば、有名になることで、名前や作品が自分の手から離れるのですから手放しで喜べないようです。でもうらやましいですよね。
*
作家に限らす、有名無名を問わず、人は名前や番号(数字)として引用=複製=拡散=保存されます。
その発言も行為も作ったものも、言葉として要約され、名前や数字とともに引用=複製=拡散=保存されます。
言葉と化した人間は無視されたり忘れられたり処分されるのが普通です。言葉が残った人が、「有名」人であったり偉人であったり悪名高き人であったり歴史上の人物なのです。
いま人と書きましたが、言葉なのです。人名ほど言葉感のない言葉はないようです。
あなたは大切な人や尊敬する人の名前を書いた紙を平気で踏めますか? 私には無理です。
人名ほど言葉感のない言葉はない、とはそういう意味です。名前を言葉として見るというよりも、人と名前を同一視しているのです。ただし、親しい人ほどです。
これは人類が一貫して呪術の時代に生きている証しだと私は理解しています。太古から現在にいたるまで一貫してです。
これは恥ずかしがることでも恥ずべきでもないと私は考えています。
*
ちなみに私は例の作家(冒頭で名前を列挙した作家のことです)の作品を読んだことはありません(「読んだ」と嘘をついたことは何度もあります)。「読む」は私にとって、とても重い言葉なのです。
苦手で読めないのです。読んだという人がたくさんいるので驚きます。そもそも「読んだ」は抽象です。「読む」なんて本当にできるのでしょうか。「見た」に近い「読んだ」もある気がします。「斜め読み」とも言います。私がそうです。
興味深いのは、ある作品を「読んだ」とおっしゃる人たちが似たような、あるいはほとんど同じ感想を口になさったり書いたりなさっていることです。
何かを複製しているとしか感じられないのです。人は読んだもの(ほぼあらゆる小説や文書が複製です)に似てくるのではないかと思えるほどです。
似ているがそっくりに似てきて、だんだんそっくりになっていく感じ。
あの作家やあの作家の作品について、決まり文句や感想の定型があるのではないかと疑りたくなります。
とはいえ、確実に読んだ日本人がいます。名前も調べれば分かります。翻訳した人です。
そうとう丹念に読まないと翻訳はできませんから、「読んだ」人と言えます。翻訳書は物ですから具象と考えてもいいでしょう。
翻訳書は訳者が「読んだ」という物証、エビデンス、動かぬファクトです。心から尊敬しています。
【小話4】たったひとつではないものが並ぶ
マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ、マ力口ニ
こちらも十分に不気味ですが、カフカという固有名詞よりもぞくぞくが少ないとすれば、それは「世界にたったひとつのもの」ではないからでしょう。
ヒトにとっては、たとえばニワトリがずらりと並んでいるのと同じです。そのニワトリをペットにしているのなら話は別ですけど。
「たったひとつ」と「たったひとつではない」とは、人にとっては、それくらいの意味なのです。愛着があるかないか、とか、よく知っているかいないか、にかかっているのです。
女優のブロマイドと、商標の付いた缶スープの絵を並べて見せた例のあの「有名な」芸術作品は、発表された時点ではおおいに衝撃的であったはずです。
女優はたったひとりの人(固有名詞と同じ)ですから、上の「力フ力」に相当します。缶スープは大量生産された商品ですから、上のマカロニに当たります。
「たったひとつ(ひとり)」と「あちこちにたくさんある」の両者が複製されてずらりと並ぶと、「たったひとつ」も「その他おおぜいのひとつ」もコピーという点で同列になるという衝撃です。
複製拡散時代の到来をアートの作品という形で示していたと言えるでしょう。
*
目の前に複製がずらりと並ぶどころか、世界中のあちこちで複製やにせものや似たものが無数に並んでいるのが、現在という時代です。そのさまを想像すると、あっけにとられて言葉を失います。
話はそれだけにとどまりません。
上のマカロニがマカロニではなくマ力口ニであったとしても分からないのですが、体感していただけたでしょうか。カタカナのカと漢字の力、そしてカタカナのロと漢字の口の区別は難しいです。私には無理です。
複製に見えるまがいものがあります。複製という名のまがいものもあります。言葉の綾ではなく具象つまり物としてです。
現在では、ずらりと並んでいる複製に見えるものさえ、それが果たして複製なのかどうかが怪しくなっているという意味です。完全なコピーなど抽象であるという意味です。
現在は、複製における変異、エラー、ノイズ、意図的改ざんの時代なのです。
代理・代用品・代替品であるはずのコピーが復讐しているのかもしれませんね。一種の代理の反乱です。
以上、マ力口ニという具体的な文字列から、複製というまぼろしのまやかしと、新しい形の代理のありかた・ありようを体感していただけたなら幸いです。
【小話5】なぜか「ないもの」が「ある」
力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、 力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力、力フ力
これも気になります。なんであそこが抜けているのだろう。なんか意味があるのだろうか。意味なんてないのだろうか。
なぜかあるべきところに「ないもの」が「ある」ことは人を不安にさせるようです。
*
よろしいでしょうか? 「ないもの」はないのではなく「ある」のです。「ない」という言葉が「ある」からですが、おそらくこれは人だけに通じるギャグでしょう。
これは、人にとって「似ている」はあっても、「異なる」と「同じ」は「ない」のと同じ、いや似ています。
簡単に言うと、人にとって基本は「似ている」であり、「異なる」は「同じ」や「同一」のように学習した知識であり情報なのです。教わったものなのです。
詳しく言うと、人にとっては「似ている」と「その他もろもろ」だけがあり、「その他もろもろ」は、「似ていない」でも「異なる」でもなく、むしろ「見えても気に掛けない」とか「見ていない」とか「見えない」とか「気づかない」であり、じつは「見ようとすれば、怖くて不気味で見たくない」(この場合には「手なずける」ためにとりあえす「名付ける」のです)であり「見てもわからない」(気掛かりになるとちゃんと見てつまり観察して「分けて」、やはり手なずけるためにとりあえず名付けますが、「分けた」段階で「分かった」と「決める」ことが多いようです)なのです。
*
見た目には「似ている」柴犬とキツネが動物という点では「同じ」でも「同じ」種類ではなくて、つまり「異なる」種類であり、一見して「似ていない」ドーベルマンとポメラニアンが「同じく」犬であって、キツネとは「異なる」のは、教わって知ったのです。その意味で知識や情報は抽象であり、体感でも印象でもありません。
純粋に「似ている」世界にいるヒトの赤ちゃんは、ヒトが決めた決まりである「同じ」と「異なる」を学習しながらヒトのおとなになっていくと言えます。
生まれたての赤ちゃんには、たぶん急須と湯飲みの「違い」も、玩具と動物の「違い」もわからないでしょう。というか、「知らない」でしょう。
万が一、ヒトの赤ちゃんがオオカミやコビトカバに育てられたら、いま述べた「違い」は「見えても見えない」とか「見えても気にかけない」のではないかと私は想像しています。ひょっとするとどちらもが「似ている」なのかもしれませんね。
「見る」は「見る」でも、「見える」は「見える」でも必ずしもなくて、見ない、見えない、見損なう、見損じる、見間違う、見誤る、見逃す、見外す、見過ごすと同時に並行して起きている気がします。
「見る」は「見る」なの、すごくシンプルなわけ、なんて言い切る勇気が私にはありません。
*
意味と無意味とは、紙一重とか裏腹とか一心同体とか見方次第とかじつは同じ(いや、そっくり)だなんて感じがしてきます(具象と抽象にそっくりです)。
無意味を辞書で調べると意味があったりして、よけい混乱します。
【小話6】独り占めしたい言葉
話し言葉(音声)と書き言葉(文字)に加えて、視覚言語と呼ばれることもある、表情と身振りと標識・記号というふうに、私は言葉を広く取っていますが、ここでは話し言葉と書き言葉に話をしぼります。
とはいえ、ややこしくなりそうなので、さらに書き言葉を中心に話を進めます。
*
文字は「同じ」どころか「同一」と言っていいほどの抽象性を備えた複製としてもちいられます。
同時に、筆跡の違い、筆か鉛筆かペンのどれで書くかといった違い、印刷物やネット上であれば書体やフォントやレイアウトの違いがあるのも事実です。
このように抽象と具象が同居しているのを、文字の存在で目の当たりにすると、抽象と具象が別個に存在するというのは抽象ではないかと思うほどです。
文字は、そのありようによって抽象であったり具象であったりする気がします。
これが、話し言葉であれば、「わたしはねこが好きだ」というふうに文字に置き換えることのできる音声の発声は、話す人によって個人差があります。
声紋レベルでの差もあれば、訛りや、その時点での感情や体調による差もあるでしょう。その意味では抽象と具象が同居しているとも言えそうです。
*
話は飛びますが、人には言葉を独り占めにしたいと思うことがあるようです。
言葉の抽象的な側面に注目すると、同じ言葉を多数の人が共有していると言えます。たとえば、「いぬ」という言葉(音声と文字)を多数の人がつかっているのです。「いぬ」という言葉を、独り占めはするわけにはいきません。
「わたしはいぬが好きだ」は誰もが口にできるし文字にできます。「わたし」を「ぼく」や「あたい」にしても、「いぬ」を「ワンコ」にしても、「好きだ」を「好きです」「好きやねん」にしても同じです。
それなのに、人が独り占めしたがる言葉があるように私には思えてなりません。
固有名詞(人名、タイトル、地名、商品名、集団名など)や専門用語やいわゆるビッグワードや流行語のことです。
おもに名詞であるという点が興味深いと思います。動詞や形容詞を独り占めしたがるという状況は考えにくいのです。いや、流行語ならあるかもしれませんが……。
*
固有名詞とは世の中で「たったひとつ」または「たったひとり」であるはずですが、人の同姓同名や事物の同名は意外とあるようです。いずれにせよ、たいていの場合には「たったひとつ」であったり「たったひとり」を想定してつかわれています。
よろしいでしょうか? 「唯一」とされているものや人を指す言葉を、共有しているのです。歯ブラシを共有するようなものだとは言いませんが、なんとなく嫌な気分がしませんか。言葉も歯ブラシも口で含むものですから。
自分が好きでたまらないアイドル(キャラクターでもいいです)、自分がかなり聞き込んでいるアーティスト(よく読んでいる作家やエッセイストでもいいです)、この人のことならその辺の人よりもよく知っていると言える人――そういう人の名前を、その辺の誰かが得意そうに口にしている。
そんなとき、「えーっ、それは違うんじゃない」、「わかっちゃいないなあ」、「何を偉そうに」、「〇〇さん(ちゃん・さま)は私だけのものよ」という気分になる人がいても、不思議ではない気が私にはします。
*
自分にとって大切な人物の名前を、他人が、あるいはたくさんの人たちが口にしたり書いたりしているのです。
「むきーっ!」とまでは言いませんが、悔しかったり、腹立たしかったり、舌打ちしたい気持ちになるという感情は、私にはよくわかる気がします。
もちろん、同じ考えの人がいてうれしいという心理もあるでしょうけど。
専門用語やビッグワードや流行語だと感情はもっと高まり、争いは熾烈になります。ネット上だと炎上する場合さえありそうです。
具体例を挙げるのは遠慮させていただきます。胸に手を当ててお考え、またはご想像願います。
とにかく、ホットなのです。誰もが真剣に熱っぽく口にしたり語ったり議論しているからです。まわりやネット上をよくご覧ください。
本当の〇〇、真(真実)の〇〇、本来の〇〇、「いいかい、そもそも〇〇っていうのはな」、「あなたは言葉のつかい方をまちがえています、〇〇を正確に定義するとですねえ……」、「あんたねえ、〇〇のことをXXだって言っていたけどさあ」――。こんな感じです。
ようするに、独り占めしたいのです。ここで私がやっていることも例外ではありません。みなさん、「複製」というのはですねえ――なんて眉根を寄せ酸っぱそうな顔をして口を尖らせています。
*
このように、言葉で語ろうとすると言葉に騙られることになります。
言葉でかたろうとしながら、言葉にかたられてしまう。
語るをしながら、語るではなくなってしまう
語りのつもりが、語りではなくなってしまう
語るが、語られ騙られるになってしまう
蓮實重彥の指摘した安岡章太郎的「存在」の身振りにそっくりです。この点については、「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」をご覧ください。
非人称的でニュートラルな存在である言葉は、人に対して分け隔てをしないとも言えます。言葉でかたろうとする人に対し、言葉はある意味平等で公平なのです。
*
話をもどします。
〇〇という人名、〇〇という専門用語やビッグワードは、みんなで共有している抽象なのです。誰もが自由につかえるし、じっさいにつかっている、これが言葉の共有の実態です。抽象だから共有できるのです。歯ブラシ(具象、つまり具体的な物)とはそこが異なります。
〇〇という言葉は、誰が口にしようと、誰が文字にしようと、〇〇なのです。
誰もがいとも簡単に(たとえその言葉が指すものや人を知らなくても、極端な場合にはその言語を知らなくても、さらには機械やAIやオウムでさえも)引用し複製し拡散し保存できるのです。これが抽象です。
「同じ」であり「同一」だからです。これが抽象なのです。
以上、言葉の抽象(言葉の抽象的な面)について体感していただけたのならうれしいです。
*
あ、ひとつ言わせてください。
言葉を独占したいと思うときには、言葉が「同じ」であったり「同一」であったりするという抽象を、人はたいてい「似ている」とか「そっくり」という体感と印象(要するに具象)でとらえているようです。
人は抽象を感情で受けとめることはできない気がします。いったん具象に変換する必要があるみたいです。
【小話7】とりとめなく
*みかんと、さんまと、にわとり
みかんがずらりと並んでいるより、さんまが並んでいるほうが不気味に見えるのは、さんまに目があるからかもしれない。顔があるからと言うべきか。
人の顔がずらりと並んでいても、それがそっくりな顔ばかりなのと、それぞれが違った顔つきに見えるのとでは、気味の悪さに違いがある。知らない顔と親しい人の顔でも違う。
有名人は顔を売ってなんぼの世界に生きているから、同じ顔が並んでいても違和感を覚えることはないが、見知らぬ人の同じ顔だとぎょっとするにちがいない。
親しいどころか大切な人の同じ顔がいくつもいくつも並んでいたら、心穏やかではない。鳥肌が立つくらいで済みそうもない。有名は無数、無名は有数だからだ。
有名人は複製されてなんぼの世界にいるからかまわないが、無名の人が複製されるのはそこに何かの企みを感じないではいられない。
*
にわとりやさんまの顔を見分けられる人は少ないだろう。にわとりをペットにした経験のある人なら、飼育されているおびただしい数のにわとりを見て、かつて飼っていたにわとりの面影を思いださずにはいられないはずだ。
愛着のある物や生き物はそうたくさんあっていいわけではない。ましてや、ずらりと列を成しているはずがない。
自分の名前が活字になってずらりと並んでいるのもいい気持ちではないだろう。いろいろな名前が集められている名簿ならまだましにしても。
知り合いの名前や大切な人の名前が活字となってずらり並んでいるとすれば、これは非常事態ではないだろうか。いったいどういう意味なのか。何が起こっているのだろうと不安に襲われるにちがいない。
不条理すら感じる光景だ。名前に顔を見てしまうからかもしれない。
*数字
数字はどうだろう。
自分が数字に置き換えられて活字となり、どこかで処理されたり処分されたりする。これはおおいにありうる話だ。そうなっていなければ、行政も統治も成り立たない。
人間の文字化。文字の人間化――。
刑務所では名前の代わりに番号で呼ばれるらしい。刑期を終えた人が、運転中に前の車のナンバープレートにかつての自分の番号を見つけたらどう感じるだろうか。
数字で呼ばれた人にとって、その数字は生涯特別な意味を持つにちがいない。
誰もがいつか数字に置き換えられる運命にある。〇〇者〇名。
人間の数字化。数字の人間化――。
人を数字として処理し処分する人がいる。数値であれ、番号であれ、それには顔がない。名前であるとさえ感じられないにちがいない。
簡単に処理し処分できるはずだ。処理、処分、駆除、抹消。
処理しているのが数字だと考えれば、ボタンも押せるはずだ。顔が浮かんでいては容易にボタンは押せない。少なくとも躊躇するだろう。人なら。
*
名前、言葉、数字、記号、絵、写真。人にとって自分を指し示すものは、人の外にある。自分の手から離れていて、自分の思いどおりになるものではない。
自分を裸眼で見たことがある人はいない。
人にとって自分は見られるものであり見るものではない。個人のレベルでも、人類のレベルでもそうだろう。
同様に、人にとって自分は指されるものであって指すものではない。個人のレベルでも、人類のレベルでもそうだろう。
人にとって自分とは他人と、他の生きものや生きていないものをふくむ世界とのかかわり合いの中にしかない。
*名指す、名付ける
「見る」も「指す」も自分に関して言うなら、つねに人の外にある。自分は見られて指されるだけ。
世界でいちばん気になる存在は徹底した受け身にさらされている。そうであるとするなら、世界が受け身であるのとほぼ同義ではないか。
そんな無力さは、できれば直視したくない。だから誰も見ないか、見ても忘れる。人は簡単に壊れないようにできている。
壊れなくするものが懐かしさだ。懐柔と言うではないか。
冗談でもおふざけでもない。懐柔を辞書で調べると「てなずける」「だきこむ」という言葉が見える。
*
人は世界と森羅万象を手なずけるために名づけるが、名前は人にしか通じない。
森羅万象はそう簡単には飼いならされない。なれないのだ。なづけても、なつかない。冗談でもおふざけでもない。
人は世界と森羅万象に人を見ることがある。人に擬する。一方的で一方向のギャグ。人を馬鹿にした話だ。いや、馬鹿にした話だ。
百科事典を見ると、いかに人があだ名をつけるのに長けているのかが分かる。
名前、名称、学術名、通称。笑いたくなる名前があり、悪意を感じるものすらあるが、そう感じるのは人しかいない。陰口に似ている。楽屋落ち。
*
森羅万象を写したり映すとき、人は相手を人に擬す。世界を鏡に見立てている。
目に映るものすべてが自分に似たものになる世界。それが人の世界だろう。人の世界はあだ名と顔に満ち満ちている。
気に掛かる。気に掛ける。話し掛ける、声を掛ける、手を掛ける。相手との間に橋を架けようとする。これが言葉であり、あだ名なのだろう。
相手を見る。相手に自分を見る。勝手に見る。人は似ているという印象の世界に生きている。
似ているか、その他もろもろ。その他もろもろは見ない。まともに見れば自分が壊れてしまうのを知っているから見ない。
*世界は顔で満ち満ちている
人にとって世界は顔で満ち満ちている。どこか親しい、どこか近しい。なづける前に感じるなつかしさ。
誰もが生まれて間もなく感じる懐かしさ。母の懐(ふところ)の懐かしさ。
懐かしさは顔。赤ちゃんにとって世界は「ある」のではなく「似ている」。
「似ている」は顔。「何かが」も「何かに」もない「似ている」だけの世界。それが顔に満ち満ちた世界。
「何かが」も「何かに」も、切り分けることを覚えてからの話だろう。
「似ている」だけの世界は「懐かしい」の世界。なぜか懐かしい世界。懐かしいだけの世界。
懐かしさは人が壊れないための砦なのかもしれない。子が崩壊しないための母の懐なのかもしれない。
壊、懐。この文字の顔を見てやってほしい。文字にも顔があり表情がある。
*
懐かしさは顔にちがいない。
赤ちゃんにとって世界は「ある」のではなく「似ている」。「似ている」は顔にちがいない。
*
あだ名は相手に通じないにしても、顔は相手とのかかわりの切っ掛けである気がする。
なぜか懐かしい世界。顔に満ち満ちた世界。
赤ちゃんは生きもの、生きていないもの、人の分け隔てなく、笑い掛ける。笑みは世界との架け橋。
笑う門には福来たる。
人は顔に満ち満ちた懐かしい世界になじんでいく。なれ、親しんでいく。
*
とはいえ、人は世界になつきはしない。世界も人にはなつきはしない。なまえが人と世界のあいだにあるかぎり、どんなになづけてもなつきはしない。
名づけることで、切り分けを学び、笑みはしだいに分け隔てあるものに移っていく。
名を持ってしまったために、人はこの星で孤独なギャグに生きるしかないのかもしれない。
「見る」も「指す」も自分に関して言うなら、つねに人の外にあるように見える。
世界は見てくれているのだろうか、指や視線や肢や触手や触角で指してくれているのだろうか。後ろ指だけはさされたくないが、そう望むのは贅沢なのだろうか。
たとえ、世界がなつかなくても懐かしさだけは共有してくれていると信じたい。
*name、shame、blame
名づけて手なずけることが難しいもの。そもそも言葉にするのが難しいもの。
difficult to name、difficult to tame、difficult to frame
The Unnamable/L'Innommable
name、fame、shame、blame
shameful、shameless、nameless、namefool
calling names is such a lonely game to play
when it's time to pray
what a shame
what a nameless name that we've given to each of our tameless neighbors
namely we are to blame
shame on us
【小話8】抽象を体感する、具象を体感する
眠れぬ夜によく考えることがあります。
定番は、地動説を体感できるかとか、脳が脳を思考するとはどういうことか、です。最近では、具象と抽象とか、具象と抽象を行ったり来たりとか、愚笑と中傷とは?とか、です。頭がさえて眠れなくなることもあります。
先日は、外と中について、考えていました。あっちとこっちと同じく、相対的なものです。向こうから見れば、中が外になります。
こそあど。こっち、そっち、あっち、どっち。here、there、where。
こういうのも不思議でよく考えます。言葉の綾と言葉の抽象と言葉の具象の間を行ったり来たりするのです。そのうちに眠くなります。
*
「そと」と「なか」だけなら、まだいいのですが、「よそ」と「うち」を加えて考えるとまた眠れなくなります。
上下もそうです。「うえ」と「した」ならいいのですが、「かみ」と「しも」を考えるととたんに目がさえてきます。邪念や雑念や妄念――こういうのは言葉の綾という名の抽象ではないかと睨んでおります、いや踏んでおります――でいっぱいになります。
外は外なの、中は中、上は上、下は下、真実と事実はシンプルなの。なんて言い聞かせても無理みたいです。
どうでもいい、つまり不毛なことにこだわって、不毛の二毛作三毛作どころか、不毛の多毛作になってしまうのです。毛がないのに。私のことです、誤解なさらないでください。
*
昨夜というか今朝というか、トイレに立ってベッドに戻り、眠れないので寝返りを打っていたところ、上と下が気になり始めて、仰向けになって体感する上と下と、うつ伏せになって体感する上と下と、右を向いて寝ていて体感する上と下と、左を向いて寝ていて体感する上と下とが、異なって感じられることに、この歳になってはじめて気づき、唖然となり、七転八倒していました。ベッドで逆立ちは危険なのでしませんでした。
いまこの文章を読んでいらっしゃる方は、たぶん立っているとか座っていると思います。その状態で上と下を想ってください。考えるというかイメージしてみてください。次に仰向け、うつ伏せ、横向きに寝て、やはりイメージしてみてください。
訳が分からなくなりませんか。とくに、うつ伏せです。次に「かみ」と「しも」で試してみてください。こっちだと、どの姿勢でも、あまり違いはありませんよね。人それぞれですけど。
個人的には、うえとしたは具象で、かみとしもは抽象ではないかと踏んでおります、いや睨んでおります。
具象は体感に左右されます。天動説がそうです。抽象は体感には関係なく観念として記憶されている知識や情報だという気がします。地動説がそうです。
今夜、また考えて、いやイメージしてみます。
*
ところで、無重力空間ではどうなんでしょう?
あと左右も気になってきました。
ぐるぐる回りながら左右が分からなくなったこどもの頃の記憶がよみがえってきました。時計の針の方向に、つぎはその逆に、という具合に回るのです。
右が左に、左が右になったりします。しまいにぶっ倒れると、左右が上下になったりします。左右上下は単なる言葉じゃないかなんて言いたくなります。
それはさておき、みぎとひだりは、右大臣左大臣の、左右とは違うみたいです。政治的なみぎひだりとも違う気がします。どっちかというと右往左往のほうみたいです。私の人生そのものじゃないですか(足腰が弱まり最近は千鳥足も加わりました)。
これから、ちょっと久しぶりにぐるぐる回ってみます。転倒に気をつけながら。
◆次回について
次回は、「人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化」をテーマに書く予定です。
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