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「読む」と「書く」のアンバランス(薄っぺらいもの・07)


◆第一話


 文章を書くのは料理を作るのに似ています。天才と呼ばれる人は別なのでしょうが、私なんかはずいぶん苦心して文章を書いています。

 勢いに任せて殴り書きする癖があるにしても、文章を書くのには手間と時間がかかるのです。

 料理も手間隙かけてせっかく作ったのに、ぺろりと平らげられる場合があります。あっけないですが、作ったほうとしてはうれしいものです。

 書くのに時間と労力を要するのに、さっと読まれてしまうことがある。それどころか、ざっと読まれることもある。

 これが、「書く」と「読む」のアンバランスです。

 似たことを書いた記事があります。「小説が書かれる時間、小説が読まれる時間(小説の鑑賞・06)」なのですが、よろしければざっと御一読ください。

◆第二話


 文章を読んでいる時の人と、文章を書いている時の人は別の時空にいるような気がしてなりません。

 時空ですから、異なる空間と「ここ」だけでなく異なる時間と「いま」にもいるという意味です。

 もちろん同一人物における話なのですが、人格が変るのです。運転すると人が変るというのと少しだけ似ている気もします。

 いまあなたはこの文章を読んでいるはずです。その「いま」「そこ」にいるあなたはどんなふうにして、この駄文を読んでいるでしょうか? 

 駄文、拙文、文章――どれも同じはずですが、私は区別して使っています。ひとさまの文章を駄文とは言いません。

「ああ、つまらない記事だなあ」とか、「へたくそな文章だなあ」と思いながら、ひとさまはこの文章をお読みになっているにちがいありません。

     *

 ところで、檸檬とレモンと Lemon は同じでしょうか? 檸檬と檸檬レモンはどうでしょう?

 猫とネコとねことネコちゃんとにゃんこは、どれも同じなのでしょうか?

 たとえば、梶井基次郎の『檸檬』という作品で、檸檬がぜんぶレモンと書かれているさまを想像してください。あるいは Lemon と。

『檸檬』は青空文庫でも読めますので、ちらりと字面だけでもご覧になってください。

 檸檬とレモンと Lemon と檸檬レモンにこだわるのが、書いている時の人です。

 別に詩を書く人やコピーライティングの現場に身を置く人だけが、こうした言葉の選択とか組み合わせとか言の葉の手触りみたいなものにこだわっているのではありません。

 誰もが文章を書く時には文字の世界に入りこみます。文字にこだわらずに文字は書けないのです。

     *

 一方、読んでいる時の人は別にどれもいいと考えているのではなく、ある文章で「檸檬」と書かれていれば「ああ、檸檬ですね、はいはい」、「レモン」と表記してあれば「はいはい、レモンですね」とあっさりと受け入れる人になっているのです。

そして、十年が過ぎた。

 上のように書かれていれば、「ああ、十年過ぎたのですね、はいはい」と受け入れるしかないのが読んでいる時の人なのです。

 なかには「「檸檬」だって? 何て読むの?」とか、「「檸檬」ねえ、なんだか気取っているなあ」とか感じる人もいるはずですけど。

 いずれにせよ、そんな人も、いったん書かれている文字を受け入れないことには、疑問や批判、場合によっては否定といったリアクションは起こせないわけです。

 人が文字を受け入れるというのは、それくらいの意味です。いましている話は、複雑であったり込み入っていたり、あるいは深遠なものではぜんぜんなくて、誰もが日常的に経験していることです。

 薄っぺらい文字にまつわる話は、文字がぺらぺらな存在であるだけに、聞けばがっかりするしかない、とりとめのないものばかりだと言えます。深遠こそ、ぺらぺらな文字とはもっとも遠いものでしょう。

 たとえば、ジル・ドゥルーズの『意味の論理学』は、そういう「ぺらぺらしたもの」についてのがっかりするしかない話をしている気が私にはします。

 だからこそ「ぺらぺらしたもの」、特に文字と映像(両者が人の作ったもの、つまり人工物であることが決定的に重要です、自然にあるものではないのです)は恐ろしいし、油断はできないのです。

     *

 これは文学作品を読むさいにはきわめて重要な点です。
 読み手は自分が読んでいるものが文字(言葉)であることを、つい忘れてしまうからです。文字はそれが文字だと意識しなくても読めるし、文字だと意識しないほうが読めるものだからに他なりません。
 これは、書き手が書きつつあるとき、自分が相手にしているものが文字(言葉)であると常に意識しなければ文字が書けないのと対照的です。誰もが読み手になり書き手になれることも忘れてはなりません。
 小説とは、あくまでも文字(言葉)を組み立てて作る作品なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。
 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
(「タブロー、テーブル、タブラ(『檸檬』を読む・02)」より)

 以上のことを書いた拙文がありますので、ご興味のある方はぜひお読みください。

 文字どおりの駄文です。

     *

 読む時には文字が文字だと意識しない。意識すると読めない。書く時には文字を文字だと意識しながら書く。意識しないと書けない。

 これが、「読む」と「書く」のアンバランスです。 

・文字を文字だと意識すると文字は読めない。
・文字を文字だと意識しないと文字は書けない。

 読む時と書く時では人が変る、人格が変るのです。別の空間にいるし、おそらく別の場所にいるのです。何がって、意識がです。

 人とは意識なのです。文字を読み書きする時の話ですけど。文字(たぶん映像も、両者は人工物です)の前で、人はぺらぺらの意識になるしかないという感じ。

 申し遅れましたが、意識とはぺらぺらなものです。これもまた、がっかりするしかない話です。

◆第三話


 読む時にも書く時にも、集中していればいるほど、人は心がここにあらずの状態になっているようです。

 意識がどこかに行ってしまっている気がしてなりません。

 ある意味、その時には人が変っているとも言えそうです。ここはどこ? 私は誰? いまはいつ? なんて感じです。

 読み書きする時の人は、文字に乗っ取られているのではないか? 私はそうにらんでいます(おそらく映像を閲覧する時の人も映像に乗っ取られている気がします)。

 心がお留守になった人に一時的に寄生するのです。そんな時の人はきわめてアンバランスな状態にいるのかもしれません。

 これが、もっとも気掛かりなアンバランスです。

     *

 最近、人の世界を支配しているのは文字だという気がしてなりません。

(おそらく映像もそうです。文字と映像の共通点は薄っぺらいことです(さらに大切な点を言うと、自然物ではなく人の作ったものであることです)。実体がないのではなく、ただぺらぺらなのです。人の作るものは人に似ている。人は自分の作るものにますます似ていく。

 確かにヒトは増えていますが、それよりも文書の数がヒトとは比べものにならないほど増加しているもようです。

 なにしろ、入力と投稿と複製と拡散と保存が同時にしかも一瞬に起きている時代なのです。

 いまや、文字が文字を育てて、文字を増やすようになってもいます。ヒトはもう要らない。自分で増えていく。

 文字は殖えているのです。きっと主導権は文字にあります。人は文字を書いているのではなく、文字に書かされているのです。

 人類は未だに自分たちと文字との関係を総括もしていないし清算もしていない――。たぶん文字を目にしていても見ていないし見えていないのです。それが「ぺらぺらしたもの」のいちばん恐ろしいところだと思います。

(人は内なる意識だけがぺらぺらですが、人の外にある文字の場合には、内も外もなく(ぺらぺらはその定義からして内も外も深さも奥行きも前も後もありません)、文字そのものがぺらぺらなのです。)

 文字のなすがまま。文字のひとり勝ち――。

 ヒトの影が薄れて、文字の影が濃くなっていく。アンバランス。

◆三つの話(再掲)


 以下は拙文「わける、はかる、わかる」からの再掲です。

第一話:直線上で迷っているネコがいた。


 直線上で迷っているネコがいた。家に付いているネコは板にも付いていた。

 家の中でネコは板に見入っていた。ネコは板に見入られていた。板に見入るネコの格好は板に付いていた。

 板には影が映っていた。

 ネコは尻尾のないサルを飼っていた。ネコが板に浮んだ影に見入っていると尻尾のないサルが邪魔をして、ネコを引っ掻いた。

「痛っ!」とネコが叫んでも無駄だった。板に浮んだ影に見入るというネコのギャグは、尻尾のないサルには通じなかった。

 引っ掻かれるたびに同じことをくり返している気がしたが、すぐに忘れてまた板に見入った。

 ネコは外でも板に見入っていた。うつむきながら板を見つづけた。板もネコに付き、ネコに見入っていた。

 家に帰ると尻尾のないサルが寄ってくるので、えさと水をやった。

 尻尾のないサルは、板に見入るネコの邪魔をするだけでなく、板を攻撃することがあった。何度か板が台無しになった。

 同じことをくり返している気がしたが、ネコはすぐに忘れた。

 眠くなるとネコは板を抱いて眠った。尻尾のないサルは外に出かけた。ネコは板に映っている影の夢を見た。別に不満はなかった。

第二話:直線上で迷っている人がいた。


 直線上で迷っている人がいた。一日のうちで夢うつつでいる時間が増えていた。

 目をつむれば画面が浮んだ。画面に映る影の模様をながめ、聞こえてくる音を聞いていた。

 目を開けると霧がかかったように何も見えなかった。音も消えた。

 たまに、どこかで物を食べている気配がした。ときおり、どこかで排泄をしている気配があった。

 ひょっとして――という思いが浮んだが、深くは考えなかった。

 流れていく。流されていく。流れはどこから来るのだろう。どこへと流れて行くのだろう。

 そんな考えが浮ぶたびに、目の前の画面が消え、聞こえてくる音もやんだ。

 お腹が空くと、どこかで物を食べる気配がして、それで空腹はなくなった。

 ときどき痛みと痒みがあったが、少しすると、ふわりとした感じとともに痛みも痒みも消えた。

 目をつむれば画面が浮んだ。画面に映る影の模様をながめ、聞こえてくる音を聞いていた。

 同じことをくり返している気がしたが、すぐに忘れた。別に不満はなかった。

第三話:直線上で迷っている影がいた。


 直線上で迷っている影がいた。影は砂漠をひたすら歩いていた。歩きながら、あるじのことを思いだした。

 影の先に立った日の、あるじ。影に先だった日の、あるじ。影が見送った日の、あるじの姿。

 影は砂漠をひたすら歩きつづけた。ある日、呼ばれた気がしてあたりを見まわすと、遠くの木のうえに黒いものが動き回っているのが見えた。

 影が木に近づくと、尻尾のないサルが下りてきた。木には赤い実がたくさんなっていた。

 四つん這いになっていた尻尾のないサルが立ち上がった。尻尾のないサルには影がなかった。

 尻尾のないサルが影の先に立った。尻尾のないサルが歩きだし、影はそのあとにしたがった。ついていきながら、同じことが前にもあった気がしたが、すぐに忘れた。

 尻尾のないサルは真っ直ぐに進んでいく。別に不満はなかった。

 
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