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何も言わないでおく

 今回は「簡単に引用できる短い言葉やフレーズほど輝いて見える」という話をします。内容的には、「有名は無数、無名は有数」という記事の続編です。

 前回の「名づける」の補足記事でもあります。


*「「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか?」


 学生時代の話ですが、純文学をやるんだと意気込んでいる同じ学科の人から、純文学の定義を聞かされたことがありました。

 ずいぶん硬直した考えの持ち主でした。次のように言っていたのです。

・描写に徹する。
・観念的な語を使わない。たとえば、神、愛、心、魂、真理、真実、心理、(哲学的な意味での)存在。
・固有名詞、とくに著名人や名所の名前はできるだけ避ける。
・決まり文句と定型を退ける。
・比喩を使わない。

 たしかこんな観念的なことを熱っぽく語っていました。

     *

 いまこうやって思いだして書いてみると、魅力的なスローガンに見えてきます。そんな文章を書いてみたいという気持ちになるのです。

 それどころか、自分の中で理想とする文章があるとすれば、まさにそうしたものではないかとすら、思えてくるのです。

 透明な文章、零度の文体、純粋な写生文、なんていう言葉とイメージが浮かんできます。

     *

 そういえば、その人について思いだしたことがあります。

「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか? 家族を登場させないで、家族を描いてみないか?

 そういう意味の誘いを受けたこともありました。もちろん、受け流しましたが。

 面白い人であることは確かでした。いまどうしているのでしょう。会ってみたくて仕方ありません。

     *

 以上は、拙文「描写・反描写」からの引用です。

「「神」という言葉を使わないで、神を書いてみないか?」というその人の言葉をこのところ頻繁に思いだします。『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の読書感想文を続けて書いているからにちがいありません。

*「名は言説の《おわり》なのである」

だから、「古典主義時代」にあって、「語るなり書くなりすることは、物を言いあらわしたり自己を表現したりすることでも、言語をもてあそぶことでもない。それは、命名という至上の行為へと進むこと、物と語とが物に名をあたえることを可能にする共通の本質のなかで結ばれる場所まで、言語をつうじて赴くことなのだ。だが、ひとたびこの名が言及されるや、そこまで導いてきたすべての言語、それに達するために人が通過してきたすべての言語は、この名のうちに解消して消滅する」という自己廃棄の運動として「言説」が成立するのだ。「名は言説の《おわり》なのである」。それ故、不在の顔、中心的な空白、特権的な欠落は、「言説」それ自身に含まれる「命名」の遅延の機能によって、宙に吊られたまま無限に後退しつづけることになるだろう。
(蓮實重彥「空位・凍結・逆行」「3――言説とその分身」「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(河出文庫)所収・p.60・太文字は引用者による)

『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』でもっとも刺激的な部分の一つです。引用箇所ではフーコーの文章が引用されています。よく見ると二箇所からの引用なのですが、文意が取りやすいようにつなげてあります。

 とはいえ、自分の問題として考えようとすると苦労する話です。

 不遜な言い方になりますが、私は蓮實重彥を読むさいには、自分の問題として考えるように常に努めています。具体的に読もうと努めるという意味です。私の印象では、蓮實の文章は「具体的であれ」と常に促しているように思えます。

 今回は、上の引用文について私の思うところを書きますが、できるだけ自分の問題として具体的に書く努力をするつもりです。

*短くてみんなが聞いたことがある言葉やフレーズ


 あることについて書こうとするときに、そのことを一言で言うとか、数語でまとめるような言い方を避ける場合があります。私にもありますし、他の人の文章を読んでいて、そう感じることもあります。

 どういう言葉を避けるのかですが、例を挙げます。

・人名、タイトル、地名、製品名、集団の名前といった固有名詞
・ある人や作品や現象や集団に貼られた通称、レッテル、決まり文句
・専門用語、学術用語
・神、愛、正義、自由、存在、無といった漠然とした観念を指す語

 以上は、よく見聞きする語やフレーズで短いもの、とまとめることができそうです。

 それは○○のようだ、まるで○○だ、まさに○○だ、それは○○だそうです、そういうのを○○という、それに○○を感じる、それは○○に似ている、○○と同じだーーこんなふうに使います。

・短くてみんなが聞いたことがある言葉やフレーズ
 
 そうした言葉やフレーズは、その意味を説明しろと言われても説明できない場合もあれば、説明できる場合もあるでしょう。説明できない場合には、ただ言葉として知っていることもあるにちがいありません。

 ただ言葉として知っていて使う言葉やフレーズがあるのです。

 あっさりと書きましたが、これはすごいことであり、恐ろしいことでもあります。

 そういう言葉やフレーズを言うのと、あえて何も言わないでいるのと、区別できないからです。

*何も言わないでおく


 ある人がある言葉やフレーズを口にしている姿を思い浮かべてみてください。

 会話や話の途中に、ある人が「○○」と口にして、

「実にすばらしい作品(人・もの・こと)です。感動(感謝)という言葉しかありません」

なんて、もっともらしい表情を浮かべているのです。

 そんなときに、「あなたは、「○○」についてどれだけご存じなのですか?」なんて言えるでしょうか? 言い方にもよるでしょうが、角が立ちそうな質問です。言われた相手の顔つきがこわばるさまが目に浮びます。

 あと、「もう少し、話してくださいな。興味津々です」というふうに意地悪く、あるいは文字どおりの意味で質問することもできるかもしれません。そう言われた相手の顔つきがこわばるさまが目に浮ぶのは、私の性格が悪いからでしょう。

     *

 小説で考えてみましょう。小説は名前とキャッチフレーズで読むもので、作品で読むものではありません。

・〇〇作のXXですね、
・文豪(△△賞作家)ですよね、
・◇◇◇◇(本の帯や解説や評判で読んだフレーズが入ります)ですね、
とりあえず感動したって言っておきましょうか、
・いや難解でしたがいいかも、
・読んでいない(さっぱり分からなかった・つまらなかった)ことがばれないように気をつけよう、

という感じです。

 的確な(あるいは率直な)感想を述べるという危ない橋を渡って墓穴を掘ったり突かれるよりも、名前と短い文言を引用(借用)するだけで事足ります。なにしろ作品を読んでいない機械にも、立派なもっともらしい感想文が書けるみたいですから。

 固有名詞(とくに人名)とキャッチフレーズは最強で最小最短最軽の引用だと痛感します。
(拙文「有名は無数、無名は有数」より)

「的確な(あるいは率直な)感想を述べるという危ない橋を渡って墓穴を掘ったり突かれるよりも、名前と短い文言を引用(借用)するだけで事足ります。」という引用文にあるセンテンスですけど、要するに、

・簡単に引用できる短い言葉やフレーズほど輝いて見える

と言えます。だから、みんなが手軽に使っているのです。もちろん、私も常用者です。癖になります。

 そして、こうした短い言葉やフレーズを使用するのは、

・何も言わないでおく 

に等しいと言えるでしょう。

 つまり、楽なのです。

 そういう言葉やフレーズを言うのと、何も言わないでおくのとを、区別できますか?

     *

 話は飛びます。

・「とりあえず名づける」としたジャック・デリダの身振りは、
・「「命名」を遅延させる」とか、「「命名」を装う」

としたほうが適切だと考えられます。
(拙文「名づける」より)

 このように前回の記事で書いた「身振り」に似ているような気がします。

「とりあえず名づける」行為をくり返す、または常用する。これはある意味、楽でしょう。

(※「「命名」を遅延させる」とか「「命名」を装う」なんて、ややこしい行為は別にしての話です。)

 同様に、輝いて見える簡単に引用できる言葉やフレーズを、とりあえず口にしたり書いてその場をやりすごす形で「何も言わないでおく」という生き方も楽なのではないでしょうか?

 というか、実のところ、みんなそんなふうにして生きているようです。私もしょっちゅうそういうふうにしています。

(※もちろん、以上のいわば処世術は、ジャック・デリダとはぜんぜん関係ありません。念のため、ここでお断りしておきます。)

     *

 いずれにせよ、多弁でありながら何も言っていないみたいなことは、日常の会話以外に、本でも、テレビ番組でも、演説でも、答弁でも、講演でも、ネット上の文書やパフォーマンスでも、よく見られる気がします。この記事が好例です。

*とりあえず名づけることをくり返す


 話は飛びますが、次のような状況を頭に浮かべてみてください。架空の話です。

     *

 ある現象がこの国で起きはじめた。ちまたでも、ネット上でも、そしてもちろんテレビや新聞でも騒ぎだした。

 いろんな人がいろんなことを言いはじめた。ああでもないこうでもない、ああだこうだ、と。

 そんなときに、みんなから何か言うのを期待されている人や、みんなから何か言うのを期待されていないのに声のでかい人は、どんな行動を取るでしょう?

     *

 この場合の、「みんなから何か言うのを期待される」行動というのは、

・一言ですぱっと気の利いたことを言う
・一言が無理なら、なるべく短い言葉やフレーズでみんなが納得するようなことを言う
・よく分からないけど、難しいそうな言葉でみんなが「へえーっ」とか、「ふむ――」とか、「なるほど……さすがだ――」とか、「はあ?」とか、「……」というふうなリアクションが返って来そうなことを言う

みたいなことです。

     *

 もちろん、どんな行動を取るかなんて人それぞれですが、具体的には以下の二つの場合が考えられます。

 A)とりあえず名づける
 B)名づけないで、観察したことや分析したことを述べる

 A)が受けるのは言うまでもありません。誰もが名前が好きです。ぶっちゃけた話が、名前とは名札でありレッテルです。

 固有名詞(とくに人名)とキャッチフレーズは最強で最小最短最軽の引用である――。

 さきほど上で引用した拙文にあった言葉なのですが、短い言葉やフレーズこそが、名札とレッテルの条件です。

 世間で偉い人だと言われている人物なら、B)でもかまいませんが、相当な大物でないと無視されます。

 同じくらいの知名度と信用がある二人の大物であれば、A)の方法を取った方が受けるに決まっています。特に現在はそうです。

 文字からなる文書の投稿・配信、複製、拡散、保存がほぼ一瞬に、ほぼ同時におこなわれる時代です。しかも、その文書の数が、無数とか天文学的数字なんて言葉では物足りないほどの数になっている時代なのです。

 さっと読めるどころか、さっと見られるほど、短い言葉とフレーズがもてはやされるのは当然でしょう。

*ネーミングがうまくなければならない


 ネーミングのうまさと巧みさが必要になります。短ければいいというわけにはいきません。

 口調や語呂や字面がいい、覚えやすい、見て聞いてその意味がぱっと把握できる、インパクトがある。

 要するに、広告文(コピー)でのキャッチフレーズと同等のネーミング力が要求されるのです。

 ネーミングのさいには、次の方法が考えられます。

・造語する
・昔あった言葉を借りて新たな意味で使う
・外国語から借りる

 つまり、新語、古語(リユース)、外来語です。

     *

 まわりを見れば、いま挙げた三つの例はたくさんあるのではないでしょうか? 近年の「新語・流行語大賞」を調べれば――語というよりもフレーズやセンテンスと言っていいものもありますが――、この三つのどれかに分類されそうです。

 A)とりあえず名づける
 B)名づけないで、観察したことや分析したことを述べる
 

 新しい現象を論じるさいに、A)が有利なことは明らかでしょう。

 A)的要素の強いB)も、ありだと思いますが、その場合にもA)が前提となると考えられます。

「アレ」「ナニ」「例の現象」では、観察も分析も話として成り立ちません。

*みんなが同じ言葉とフレーズを使う社会

 
・とりあえず名づけて広める
・とりあえず短く受けやすいフレーズを作って広める

 この二つがくり返される社会は、みんなが同じ言葉とフレーズを使う社会です。そして、それは「いま」「ここ」でもあります。

 分かりやすく、通じやすく、通りやすく、見やすく、聞きやすく、口あたりがよく、耳あたりがよく、人あたりがよく、読みやすく――名札はこうしたものでなければなりません。
 蓮實の文章に見られる言葉たちとその書かれ方は、そうした「しやすく」と「あたりよく」に抗っているように私には感じられます。
(……)
 社会や共同体に上下左右に広がり染みこんでいる通念が、あたりのいい言葉とイメージで、物分かりがいい人を作るのを助長しているというのも分かりやすい話だと思います。
 それだけではなく、あたりのいい言葉とイメージが、物分かりのいい扱いやすい人たちからなる社会をさらに固めて補強し強化していく――「しやすい」と「あたりがいい」には親和性がありそうです。
 言葉とイメージの通じやすさと分かりやすさが優先される社会では、コストパフォーマンスが重要視されているとも言えます。現在はこの傾向に拍車がかかっているようです。
(拙文「読みやすさについて」より)

 なんで、こうなるのでしょう?

 一つには、人は枠の中で生きる生き物だからだという気がします。

*自分に備わった枠に合せて枠のあるものを作る


 人の作るものには必ず枠があります。

・時間的な枠:

 始まりと途中と終わりがある。本にも、ドラマにも、動画にも、映画にも、楽曲にも、始まりと途中と終わりがあります。

 これは人生(ライフ・life)を模倣しているとか擬態していると言えそうです。

 過去から現在に至るまでの、無数の個々の人間のライフサイクル(life cycle)が集まったのが、人類の歴史(history)という物語(story)でしょうか。

・空間的な枠:

 視界(view・sight・range)、ヴィジョン(vision)、額縁(frame)のことです。

 人は画面、スクリーン、パネル、プレート、つまり板を見て暮らしています。板を見て何をしているのかというと広義のプレイ(play)です。⇒「人が物に付く、物が人に付く」

 その板はたいてい薄っぺらいものでもあります。⇒「薄っぺらいものが目立つ場所(薄っぺらいもの・04)」

 その板には枠がありますが、これはヒトの目の視野を模倣しているとか擬態しているのだろうと思っています。

 おそらく、人は個人レベルでも、集団や共同体レベルでも、人類レベルでも、限られた視野と視界があるのでしょう。それが画面として、具現化されている気がします。

 しかもその空間的というか平面的な画面には時間的な枠もあり、常に更新し続けているのです。ネットニュースの画面のニュース一覧、テレビのニュースの最初に現われる一覧、新聞の一面(記事一覧付き)をイメージすると分かりやすいかもしれません。

 次々に変わるのです。ヒトの一瞬一瞬の認識とか認知とか意識には限度、つまり枠があるのですから、致し方ありません。

     *

 ヒトは自分に備わった枠に合せて、枠のあるものを作っている。枠のないものをヒトは扱えないのです。たとえば、無限、無意味、無、空間(空白ではなく)は、ヒトにとって絵に描いた餅(つまり絵です)でしかありません。

 ヒトに備わった枠と、それに合せてヒトの作る枠は、時間的なものであると同時に空間的なもの(とりわけ平面的なもの)なのですが、要するに期限(寿命)であり、果て(縁・ふち)であると言えます。

 だから――飛躍と短絡をしますが――、ヒトは名づける、つまり、名前を作るのです。

 名前にも、その言葉と文字としての長さ(始まりがあって終わりがある)のほかに枠があるではありませんか。期限(寿命)とローカリティ(局所性)のことです。

 うろ覚えで恐縮ですが、どこかで蓮實が、人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けないという意味のことを書いていた記憶があります。ひょっとすると、これは古井由吉のよく使う「偽の記憶」かもしれませんが。
(拙文「読みやすさについて」より)

 人は一度に一つの言葉しか口にできない、あるいは一つの語しか書けない――。

 これが人にとって、基本的な「枠」なのかもしれません。だから、短い言葉と文字にこれだけ執着するのです。

 人にとって究極の枠、それは名前でしょう。最期の一息で口にできるのも名前です。普通は……。普通でないのも人生にちがいありません。

À bout de souffle

*じらす、名づけを遅らせる、描写する


 本記事は前回の「名づける」の補足としても書いているのですが、蓮實重彥にはしばしば何かを描写しているような筆致で文章を書きだす癖があります。

 あれは蓮實の戦略なのです。

 この著作は三部構成になっています。
・「Ⅰ肖像画家の黒い欲望――ミシェル・フーコー『言葉と物』を読む」
・「Ⅱ「怪物」の主題による変奏――ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読む」
・「Ⅲ叙事詩の夢と欲望――ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』を読む」
 ところが、これら三部のそれぞれの冒頭では、一見して何について話しているのか分からないような文章――この印象も人それぞれですけど――が書かれているのです。三部に共通する特徴と言ってもいいでしょう。
(拙文「名づける」より)

 あの出だしの描写が私は好きです。蓮實の文章の醍醐味だとさえ思います。  

 じらす、名づけを遅らせるとでも言うべき、その書き方に私は嗜癖しているようです。

 私の場合には、あのような冒頭の描写があるから、蓮實の著作を読んでいると言っても言い過ぎではありません。

 名前は描写の対極にある言葉であり、文字のありようだと思います。

 ただそのことが言いたくて、本記事を書きました。

     *

 ここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。

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