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音読・黙読・速読(その2)
「音読・黙読・速読(その1)」の続きです。
今回は長いセンテンスと込み入った作りのセンテンスを読んでみます。音読や速読に適しているとは言い難い文です。かといって黙読し易いわけでもなさそうです。
◆読みやすい文章、読みにくい文章
*井上究一郎訳のマルセル・プルーストの文章
次の文を読んでみてください。長めなので、読む前に気合いを入れてくださいね。
(Ⅰ)
祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
(マルセル・プルースト『花咲く乙女たち』井上究一郎訳)(三島由紀夫『文章読本』第七章)より・以下同じ)
めちゃくちゃ長いですね。『花咲く乙女たち』(花咲く乙女たちのかげに)はマルセル・プルースト作『失われた時を求めて』の第2篇にあたります。
これで一センテンスですから、すごいです。
翻訳だから可能な文章とも言えそうです。
翻訳文は作者が書いた文章ではなく、翻訳者が作った文章なのです(したがって、翻訳を読んで作家の文体について語るのは無理があります)。
すべての文章は人が作文したものなのですが、翻訳文は「人工的に作った」文章(別の作り方もあるという意味です)だという言い方もできるでしょう。
日本語特有の生理を無視して(あるいは日本語の流れに抗って)作ったとも言えそうです。
すべての翻訳がそうだと言っているのではありません。なかにはそういう翻訳もあるという意味です。井上究一郎訳の『失われた時を求めて』は、いい意味でそうだと思います。私はこの翻訳のファンなのです。
この翻訳について書いた過去の記事の一部を以下に引用します。
〇
『失われた時を求めて』の井上究一郎訳を私が好きなのは、律儀に訳してあるからです。つまり、センテンスが長くてとても読みにくいのです。ああいうのを難しいとは私は言いません。とにかく読みにくいのです。
でも、あれよあれよという感じで気持ち良く読み進めることができました(難しいものはあれよあれよとは読めません、私の場合には)。「できました」と過去形なのが残念です。寂しいです。今は無理ですね。
井上訳を原文に忠実な訳とは言いません。フランス語がろくにできないのに、偉そうな言い方をしてごめんなさい。あれは忠実なと言うよりも、律儀な訳なのです。そもそも外国語の作品を原文に忠実に訳すなんてあり得るのでしょうか。はなはだ疑問です。
直訳という言葉を思い出しました。そればかりか、意訳、逐語訳、逐次訳、大意、抄訳、完訳、改訳、重訳、超訳、名訳、迷訳、誤訳というぐあいに、次々とあたまに浮かびます。あと、翻案というものもありますね。翻案を広義の翻訳と見なすと、パスティーシュやオマージュや文体模写まで広義の翻訳だと言いたい気分になります。
そんなことを気にしたり、本気になって調べたり考えていたことがありました。もう昔の話で、詳しいことは忘れました。翻訳家を志していた時期があったのです。身のほど知らずにも。結果的には、翻訳業を短期間やっただけで今は休業状態です。話が昔話やネガティブな方向に流れますね。ごめんなさい。
気持ちのいい話にもどりましょう。
*
あれよあれよ、まだまだ、ねえ、まだ、まだなの? あれーっ、ひぇーっ。そろそろやめてー。もうやめてください。
どんどん続きます。なかなかいかせてくれません(目的地にですよ)。はらはらどきどきわくわくの連続です。でも、中途半端な着地はしない、要するに墜落も不時着もしないので延々と続くアクロバットみたいで見ていて気持ちがいい。ときに苦しくなることもあるけど、それでもいい。
井上訳の『失われた時を求めて』は読んでいてとにかく心地よいのです。律儀に訳してありますから、センテンスが長くてもいちおうの辻褄は合います。てにをはの処理を含め、それは見事なくらいきちんと合うのです。その意味では偉業だと言えるのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、読んでいてじつに快いのです。井上究一郎氏は頭脳明晰で体力も抜群だったのだろうと想像します。案外、超敏感かつ病弱であられたりして……。コルク張り部屋伝説のマルセルのように――。想像は楽しいです。
まさに、あれよあれよの最上級です。こんなの初めて。あれよあれよ感MAXというやつ。
たぶん、あれは翻訳だからこそ可能な技だという気がします。もともと日本語で書かれた作品だったら、ああいう文章はあり得ないと思うのです。語弊のある言い方になりますが、反則に近いと言えそうです。いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか。それだけにすごいです。すごすぎます。
翻案でない限りどの翻訳にもある種の違和や不自然さを感じるという意味での、人工的な日本語の妙味――すべての言葉は人工的なので恥ずかしいほど当たり前のことを言っていますが、翻訳という言葉につられて出たレトリックということでお許し願います――と言いましょうか。
とはいえ、決して否定も非難もしません。気持ち良さの点では、この上もないからです。ただ長時間の読書には向かない気がします。あの長い長い作品が長時間の読書に向かないというのではなく、あくまでも井上訳の話です。
というか、『失われた時を求めて』と『源氏物語』は、誰の訳で読むか、あるいは原文で読むかにかかわらず、長時間の読書ではなく長期間の読書に適していると私は思います。
ところで、フランス語を母語とする人たちはあの長編小説をどう読んでいるのでしょう。ああいう長いセンテンスをどのように感じているでしょう。興味津々ですが、知りません。きっと人それぞれでしょうね。謎は謎のままにしておいて、勝手気ままに想像を楽しむことにします。
*
欧文には、論理性をそこなうことなくかなり長いセンテンスを組み立てる力があることは、英語の例からおわかりのことと思うが、さらにドイツ語の二、三の特性は、それにさらに輪をかけて長いセンテンスを組み立てることを可能にする。(中略)たとえば第七章三二一ページの<このように夕べの息吹が>から、三二三ページの<わたしの上に降りてくるそのとき>までは、純粋なワン・センテンスとはかならずしも言い切れないが、とにかく終止符はひとつもない。これはさすがの<現代>日本語もおつきあいできない。第一に、これに合わせてセンテンスを組んだら、どんな日本語ができるだろうか。第二に、日本語の句点(マル)はあきらかにフル・ストップではない。
(「ブロッホと「誘惑者」」(古井由吉著『日常の”変身”』所収)より)
ドイツ語で書かれたヘルマン・ブロッホ作の『誘惑者』を訳した古井由吉の言葉は参考になります。邦訳の三二一ページから三二三ページまで――実際には三一四から三一六ページまでです――続くセンテンスに終止符がひとつもないとは、どんな原文だったのでしょう。それを古井はどんな日本語の文にしたのでしょう。
原著はありませんが、最近古井訳を手に入れたので、ときどき読んでいます。古井が述べている箇所は句読点のある文章になっています。
*長い一センテンスを分解して読んでみる
さきほどの長い一センテンスに話を戻します。
祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
こうした長いセンテンスの文章は黙読しても頭に入りにくいし、まして音読もしにくいし、音読を聞いてすんなり理解する人は聖徳太子以外にいないと思います。
大切なことを言います。読みにくい理由は、飾りが多いからです。平たく言うと、ごちゃごちゃしてるのです。
ややこしく言うと、日本語本来の飾り方とは異なる飾り方で、文章をつづってあるのです。いかにも人工的な感じ(作ったような感じ)がするのは、そのせいです。
*
上の文にちょっと手を加えます。
(Ⅰ)
祖母の部屋は、私の部屋のように直接海に面してはいないが、三つの異なった方角から、即ち堤防の一角と、中庭と、野原とから、そとの明りを受けるようになっており、かざりつけも私の部屋と違って、金銀の細線を配し薔薇色の花模様を刺繍した何脚かの肱掛椅子があり、そうした装飾からは、気持ちのいい、すがすがしい匂いが、発散しているように思われ、部屋にはいるときにいつもそれが感じられるのだった。
飾りを取り去ると、上の太文字の部分になります。ただし、プルーストの文章は、飾りが命なので、飾りを取ると味気ない文になります。でも、読みやすくはなると思います。
元の長いセンテンスの飾りを取りはらい、分解してみましょう。
・祖母の部屋は、外の明りを受けるようになっていた。
・(部屋には)何脚かの肱掛椅子があった。
・(椅子に施された)装飾からはすがすがしい匂いが発散しているように思われた。
・(部屋にはいるときに)それが感じられた。
この装飾だらけの文に「装飾」という言葉が使われているのは象徴的です。文がその内容に擬態している、あるいは逆に内容が文に擬態しているかのようです。そうした擬態の雰囲気がプルーストの文章にはあり、それを井上究一郎訳は律儀に日本語に置き換えようとしていると言えるかもしれません。
こういう文章もあるのですね。
・飾り本位の言葉や文章がある。
・飾り本位の文章が好まれたり読まれることもある。
・ただし、音読には向かない。
・黙読しても読みにくい。
この「音読には向かない」がもっとも大切なことだと私は思います。速読にも向かないことは言うまでもありません。
でも好きなのです。大好きでたまりません。私は井上究一郎訳の『失われた時を求めて』の大ファンなのです。
もちろん、読みとおしたことはありませんし、音読もしたことがありません。細部を楽しむしかありませんが――しかも黙読するしかありませんが――、それでいいのだと私は思います。
音読しない、黙読するだけの文章があっていいと私は信じています。というか、現にあるではないですか。
後述しますが(「その3」)、文章は音読されるためにだけ書かれるわけではありません。「音読・黙読・速読(その1)」の最後に触れた「音読不能文」とでも言うべきものがあるのです。
実はこの「音読不能文」について書きたくて、この連載をしています。
*込み入った文章を整理して読んでみる
次の文は、上の長いセンテンスの後に来る、これまた長いセンテンスなのですが、気合いを入れて読むというよりも、ざっと目を通してみてください。
(Ⅱ)
そして、一日のさまざまな時刻から集まってきたかのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明りは、壁の角をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打際の反射と並んで、箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色どりの美しい休憩祭壇を置き、いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい翼を、内側にそっとやすませ、太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている小さい中庭の窓のまえの、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、肱掛椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取りはずしたりするように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、丁度そんな時刻に、散歩の仕度の着換えのまえに一寸横切るその部屋は、外光のさまざまな色合を分解するプリズムのようでもあり、私の味わおうとしているその日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散るのがまざまざと目に見える蜂蜜の巣のようでもあり、銀の光線と薔薇の花びらとのふるえおののく鼓動のなかに溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。
これも長いですが、(Ⅰ)よりもずっと読みにくく感じませんでしたか? (Ⅰ)に比べて飾りが多く、しかもその飾りがややこしく絡んでいるからなのです。
*
手を加えてみましょう。
(Ⅱ)
・そして、一日のさまざまな時刻から集まってきたかのように、異なった向きからはいってくるそうしたさまざまな明りは、壁の角をなくしてしまい、ガラス戸棚にうつる波打際の反射と並んで、箪笥の上に、野道の草花を束ねたような色どりの美しい休憩祭壇を置き、いまにも再び飛び立とうとする光線の、ふるえながらたたまれた温かい翼を、内側にそっとやすませ、
・太陽が葡萄蔓のからんだように縁取っている小さい中庭の窓のまえの、田舎風の四角な絨毯を温泉風呂のように温かくし、肱掛椅子からその花模様をちらした絹をはがしたり飾り紐を取りはずしたりするように見せながら、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであるが、
・丁度そんな時刻に、散歩の仕度の着換えのまえに一寸横切るその部屋は、外光のさまざまな色合を分解するプリズムのようでもあり、私の味わおうとしているその日の甘い花の蜜が、酔わすような香気を放ちながら、溶解し、飛び散るのがまざまざと目に見える蜜蜂の巣のようでもあり、銀の光線と薔薇の花びらとのふるえおののく鼓動のなかに溶け入ろうとしている希望の花園のようでもあった。
たぶん、このセンテンスは三つに分かれるように思います。思うだけです。原文と訳文を照らし合わせたわけではないので、曖昧な言い方になるのをお許しください。
1)「(外からの)さまざまな明りが、箪笥の上に、美しい休憩祭壇を置き、光線の、温かい翼を、内側にそっとやすませた」
※「休憩祭壇」とは、たぶん原語は reposoir で、聖体つまりキリストの体とされるパンと葡萄酒を安置する祭壇のようです。カトリックのお祭りで使うものらしいです。この言葉はフランスの文芸ではよく出てきます。きらめく美しい装飾の「代名詞」とも言えるような気がします。以下の資料には写真もあります。
話を戻します。
どうやら、光線が鳥の翼のようだ、とたとえているみたいです。いわゆる比喩が使われています。プルーストは比喩が大好きなのですが、読むほうは付いていくのが大変です。
外から祖母の部屋に差す明りによって、ガラス戸に反射する光が箪笥の上に陽だまりを作り、そこに集まった光がまるで翼を休め温めている鳥のように見えたということでしょうか。
*比喩は一種の駄洒落
ここで、言い訳をします。比喩は翻訳者泣かせなのです。なぜなら、比喩とは一種の駄洒落(掛詞とも言います)だからです。
駄洒落(掛詞)とは、AをBに置き換えるとか重ねるとか、たとえることです。
たとえば、「アルミ缶の上にあるミカン」みたいにアルミ缶(A)とミカン(B)が二重写しになるわけです。また「パンダが食べるのはパンだ。」では、パンダとパンが頭の中で二重写しになるわけです。
これを英語に訳せますか? 柳瀬尚紀先生ならたぶん執念でやったと思います。英語から日本語への話ですが、洒落は洒落として訳すのがポリシーの翻訳家でした。すごい人でした。
もっとも、知性と鋭い洞察に裏づけられた駄洒落や言葉遊びは美しいです。
一例を挙げると、クロード・レヴィ=ストロースの著作名である「La Pensée sauvage」です。「野生の思考」とも「三色スミレ、パンジー」とも取れる言葉遊びになっていますが、美しいし、すごいと素直に思います。
また、ジャック・デリダが「 différence」(差異)に掛けて「造語」した「différance」(差延・さえん)があるそうですが、すごいらしいです。外国語でのギャグだと教えてもらって、ぎこちなく笑うしかないギャグのようで、私にはよくその「すごさ」が体感できないのが残念です。冴えない話で、ごめんなさい。
*
言葉の音の面での類似や一致をつかった二重写しが駄洒落(掛詞でもいいです)や言葉遊びなのですが、比喩は聴覚的な類似だけでなく、視覚(形態)、触覚(手触り)、味覚(味わい)、嗅覚(におい)、および直観や無意味に訴える要素を用いて二重写しを試みます。
簡単な例を挙げましょう。即席に作文してみます。
彼女は赤い薔薇のような人だった。彼女の深い情愛は赤く燃え、その腕や脚は蔓そっくりにしなり、時にはたわんで、私の目をとらえて離さず、気難しい性格が棘となって私を苦しめるのだった。
はあ、とため息が漏れるほど陳腐な文章です。今どき、女性を赤いバラにたとえる人がいるでしょうか。月並みすぎます。
とにかく、ある女性をバラにたとえ、そのバラという比喩が赤い色、蔓、そして棘という具合に増殖し(エスカレートし)、女性を植物であるバラに二重写しするというわけですね。
・彼女は赤い薔薇のようだった。【直喩】
・彼女は赤い薔薇だった。【隠喩】
直喩であろうと隠喩であろうと、二重写しにするという点では変わりません。
繰り返しますが、「アルミ缶の上にあるミカン」でアルミ缶とミカンが、そして「パンダが食べるのはパンだ。」でパンダとパンが頭の中で二重写しになるのと構造は同じです。
*
ある言語での駄洒落(掛詞でもいいです)や言葉遊びを別の言語での駄洒落や言葉遊びにするのが至難の業であるように(こういうことを上述の柳瀬尚紀先生は執念で実践なさっていたのです)、比喩の翻訳はきわめて難しいのです。
なにしろ、駄洒落でも比喩でも、それ相応の説得力が要ります。
読者や相手が白けて乗ってこなければ埒が明かない、つまり不発に終わるという意味では、文学道における比喩も、一般人のささやかな楽しみである駄洒落道も大変ですね。芸の道は厳しいようです。
さきほどの「彼女は赤い薔薇のような人だった。」で始まる文章なんか、説得力なしですよね。読む人は乗ってくれないでしょう。「アホか?」と言われるのがオチです。
以上、お分かりになっていただけたでしょうか。ややこしい話をして申し訳ありません。苦情は、プルーストさんに言ってください。
*小説は新しい(novel)形式の文学
次に参りましょう。
2)「太陽が、絨毯を温泉風呂のように温かくし、家具の装飾の魅力や複雑さを却って増すのであった」
参りましたね。こう読んでいいのか、正直言って、自信がありません。詩みたいじゃないですか。実際、詩と考えて読んでもいいのかもしれません。
要するに、お日様が注ぐおばあちゃんの暖かくてお風呂に浸かっているようないい気持ちになり、語り手は、のぼせてぼーっとしているのではないでしょうか。
というか、家具に施された複雑な模様がより複雑に見えてくるなんて、尋常ではありません。駄洒落乱発じゃなくて、比喩がめちゃくちゃエスカレートしてきている、としか思えません。
ぼけーっとしているより、ラリっていると言ったほうが正確な気がします。
とはいうものの、こうした込み入った比喩というのは言葉でしかできません。言葉だからできるエスカレーションなのです。その意味で私は積極的に比喩を支持します。
*
3)「その部屋は、プリズムのようでもあり、蜜蜂の巣のようでもあり、希望の花園のようでもあった」
後半でほっとしました。これなら分かる気がします。比喩(くどいですけど駄洒落の一種です)が穏当なところに落ち着きましたね。ぜんぜん共感は覚えませんけど。
*
プルーストのこうした凝った文章は推敲というか加筆を重ねた結果なのでしょう。
「作家」と呼ばれる個人、つまり一人の書き手が文章をいじくりまわして作る小説という形式は、比較的新しい(novelな)ジャンルだと言われています。
小説は書き手が書き言葉をいわば「物のように」彫琢することが可能なジャンルなのです。たとえば、ギュスターヴ・フローベールのように、です。
複数の人によって口承という形で語り継がれてきたり、何種類もある写本で伝わってきた物語とは大きく異なるわけです。
「作品」とは基本的に単一かつ単数のもので、それを複製していくことで複数にそして多数にそして無数になるのですが、そうした観念は、「基本的に一人の作家が書いて完成させる形式のジャンルである小説」――粗雑な言い方で申し訳ありません――と共に誕生したと言えます。
あっさり書きましたが、今述べたところは大切です。文学を勉強なさっている学生さんや元学生さんならご存じだと思いますが。
◆すごい人たち
いやいや、すごい人です。誰がすごいかって、マルセル・プルーストじゃなくて、訳者の井上究一郎さんですよ。
あの長い長い、そして駄洒落、じゃなかった、比喩と飾りだらけの小説『失われた時を求めて』を律儀に翻訳された井上究一郎さんはすごい。
敬服いたします。しかも個人訳ですよ。すごすぎます。柳瀬尚紀先生と並ぶほどの駄洒落の達人ではなかったかと想像しないわけにはいきません。
*
いやいやすごい人ですよ。誰がすごいって、
ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』を翻訳なさった丸谷才一、永川玲二、高松雄一各氏はすごい。
同じくジョイス作『フィネガンズ・ウェイク』の個人訳を成し遂げられた柳瀬尚紀先生はすごい。
ローレンス・スターン作『トリストラム・シャンディ』を個人で訳された朱牟田夏雄さんはすごい。この脱線と逸脱だらけの小説は私の愛読書でして、多大な影響を受けています。
ヘルマン・ブロッホ作『ウェルギリウスの死』を翻訳なさった川村二郎氏はすごい。
『源氏物語』を世界に先駆けて英訳したアーサー・ウェイリーはすごい。この方は、現代の日本語は話せなかったらしいのですが、平安朝の日本語なら話せたという話――単なる噂なのか嘘っぽい話だと思いますけど――を何かで読んだ記憶があります。
上記の翻訳をすべて読んだわけではぜんぜんなく、ただ名前を知っているか、部分的に読んだけである私が言うのも僭越極まりないのですが、私はその訳書から間接的および直接的に多くのものをいただきました。
また、そうした訳業が、現在の日本語と日本文学のありように大きな寄与をしたことは間違いありません。感謝の気持ちでいっぱいです。
(つづく)
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