音読不能文について
「音読・黙読・速読」という連載(全三回)をしました。このシリーズをした理由の一つは「音読不能文」の存在を訴えたかったからです。
・「音読・黙読・速読(その1)」
・「音読・黙読・速読(その2)」
・「音読・黙読・速読(その3)」
音読不能文
音読がしにくい文章から音読が不可能な文章までをひっくるめて、私は「音読不能文」と勝手に呼んでいるのですが、次のようなものをイメージしています。
・センテンスがかなり長いために音読しにくい。または、センテンスが込み入っているために音読しにくい。⇒「音読・黙読・速読(その2)」&「音読・黙読・速読(その3)」
・文章の中で約物(ルビを含む)が用いられている部分が、音読しにくかったり、音読ができなかったり、音読しても相手にうまく伝わらない。⇒「音読・黙読・速読(その3)」&「立体、平面、空白(薄っぺらいもの・05)」
・文章の中で掛詞(駄洒落)や言葉遊びが用いられている部分が、音読しにくかったり、音読ができなかったり、音読しても相手にうまく伝わらない。⇒「音読・黙読・速読(その2)」
・表記(ひらがな・漢字・カタカナ・ローマ字・数字・記号)と、それらに添えられた絵・図・表・写真・動画、そしてレイアウトやタイポグラフィ(書体やフォント)、さらにはブックデザインや造本(印刷・装丁・製本)に意図的な工夫――こうした要素には音声化できない部分が多い――がほどこしてあるために、文字だけを目で追って音読してもその意図や効果が相手につまく伝わらない。⇒「書物の夢 夢の書物」
「音読しにくい」と「うまく伝わらない」は曖昧な言い方です。相手があっての問題ですから、時と場合によっても異なるでしょうし、人それぞれだと言えます。
「音読できない」とは誰にも音読できない、または意図や効果を誰にも音読という手段では相手に伝えられないという意味です。
印刷物の文章とネット上の文章
たとえば、上のセンテンスの「音読できない」の鉤括弧(「 」)という約物の効果を音読によって聞いている相手に伝えることはまずできないと思います。
鉤括弧という太文字の効果や意図(私は強調するつもりで太文字にしました)も、また(「 」)という部分も音声化することは不可能だと考えられます。
音
読
で
き
な
い
音
読
で
き
な
い
音
読
で
き
な
い
いま上で書いたレイアウトというかタイポグラフィックな工夫も、相手に見せればその視覚的な工夫は伝わりますが、音読で伝えることは無理であり、そのような工夫とした意図となると、これはなかなか伝わらないのではないでしょうか?
ところで、声に出せばどれもが「おんどくできない」となる上の三つのフレーズですが、書かれている内容(「書かれている形態が音声化できない」というメッセージ)に、「音読できない」という字面(形態)が擬態しているようにも感じられます。さらに言うなら、逆にその内容がその形に擬態しているとも言えるのです。
以下の例でも同じです。異なる表記を並べることで、いわば文字列のメッセージと文字列の形とが擬態し合っていることが体感できます。【※私はこの種の擬態が大好きです。だから井上究一郎訳のマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と蓮實重彥の文章に惹かれるのだと思います。】
音読デキナイ
音読出来ない
音読できない
音読、できない
音読、できない。
上の例だと、音読した場合にはどれもが同じになるでしょう。もちろん、表記の説明を加えれば相手に伝わるでしょうが、そうなると音読とは言えません。
音読できない
音読できない
音読できない
上の三種類のルビの使い方は異なりますが、下の二つの例はけっして珍しいものではありません。
*
以上の例からお分かりになると思いますが、音声化できない要素が使用されている「音読不能文」とは、特殊なものではぜんぜんなく、印刷物でもネット上でもありふれたものになっています。
とりわけレイアウトやタイポグラフィ的な多様性となると、ネット上にあふれているのではないしょうか。あと、さまざまな言語の文字と約物を駆使した絵文字による創意も忘れてはなりません。
noteでも、特に詩歌におけるユーザーさんたちの工夫と創意と情熱の結果としての多様性には目を見張るものがあり、私はその豊かさを楽しんでいます。こうした傾向は小説でも同じで、そのレイアウトと表記は印刷物とは比べものにならないほど多様です。
あと、縦書きへの根強い愛着とこだわりも目立ちます。工夫をして画像として縦書きの作品を note の記事に載せていらっしゃるのです。そうした方々にとっては横書きと縦書きの違いという音声化できないものが、絶対に譲れない作品の要素としてあるにちがいありません。
私が中途の重度難聴者だからかもしれませんが、私はみなさんの文章の内容だけでなくその書き方に目が行くほうだと思います。
「このレイアウトはすごいなあ」、「この約物の使い方はユニークだから今度真似てみよう」、「この表記は、もはや哲学としか言いようがない……」、「ルビでこんなことができるとは!」なんて感じです。
こうした楽しみや驚きは、印刷物だけで文字を読んでいた時代には経験することができなかったものです。活版印刷が主流だった時代の産物(あるいは副産物)だったであろう約物や約束事が、いまやネット上の文章で新たな意味と存在価値を持って、往年の用法を離れた形で使用されているのです。
かつて遠く西欧において音読不能文の先駆者だったステファヌ・マラルメやローレンス・スターンもびっくり、あるいは比較的近年において音読不能文の「冒険者」だったジャック・デリダも真っ青の音読不能文ではないでしょうか。日本語の表記でできることはすごいのです。
半分冗談はさておき、ネット上では案外誰もが音読不能文を意識せずに書いているなんてこともある気がします。音読不能な約物の使用が好例です。
文字の表情と手触り
手書きで、あるいはキーボードを操作して文字を入力したり文字の転換をするときには、私たちは瞬間瞬間に無意識のうちに表記の選択をしていますが、この表記による違いも音読不能なものです。
上の文は表記の違いを意識して書いたものでしょう。音読して伝えるのは難しいと思います。
私は上のような文字の表情と手触りが感じられる文章が好きです。現実を見て写した文ではありません。写実でも描写でもないという意味です。
言葉と文字だけの世界観なのです。私にはこうした世界観が病的に好きだという自覚があります。私にとって文字と文字列と文章は読むというよりも「見るもの」なのです。
以下の拙文には、私の文章に対する見方がよく出ていると思います。よろしければお読みください。個人的にとても愛着のある記事です。
私にとって小説とは、時間の芸術であると同時に(⇒「『雪国』終章の「のびる」時間」)、絵画と同じく視覚芸術でもあります。
*
人名としてのキラキラネーム(キラネーム・DQNネーム)の使用もそうでしょう。バンドの名前でも、字面つまり文字の顔や表情や手触りのようなものを感じさせるものがあります。
ただし、名前の場合には文字の形だけでなく「音」も楽しんでいますから、贅沢な言葉と文字の楽しみ方だと言えそうです。こんなことが可能な日本語が好きです。
書き取り
かつてフランス語を学んでいた頃に苦労したのが書き取りでした。特にフランス人の先生の授業では、やたらと名文のたぐいを暗唱させるし、やたらと書き取りをするのです。
音と文字の間を行き来させるわけです。音と文字の両方を徹底的に教えこもうという熱意が伝わってきました。
で、フランス語の書き取りなのですが、日本語の書き取りと大きな違いがあります。
日本語での書き取りでは、主にひらがなを漢字に「当てる」という形でおこなれていますが、フランス語の書き取りの場合には先生が音読して口から出す音を文字に「置き換える」のです。
フランス語の字面を見ると、なにやら不規則なアルファベットの文字列に見えますが、厳格な綴りの法則があってそれを覚えると、ほぼ完璧に音から文字へと置き換えることができます。
・かな・仮名・仮字 ⇒ 漢字・真名・真字
文字 ⇒ 文字
視覚 ⇒ 視覚
当てる(文字と文字という同質なもの同士)
・音・音声 ⇒ 文字
聴覚 ⇒ 視覚
置き換える(聴覚的な音声と視覚的な文字という異質なもの)
上のように図式化すると、書き取りという行為における日本語の文字の体系とフランス語の文字の体系の違いが「見える化=視覚化」できると思います。「仮⇒真」という転じ方も興味深いです。
両者の隔たりは大きいです。日本語を母語とする私が、たとえばジャック・デリダの文章が体感できないのはその隔たりがあるからではないかと考えています。ぴんと来ない話ばかりなのです。
まとめ
文字やフレーズや文章には、次のようなものがありそうです。
音読しにくいもの
音読にふさわしくないもの
音読できないもの
音読しても伝わらないもの
そもそも声に出せないもの
そもそも声に出しても伝わらないもの
*
現在の日本では音読不能なもの、正確に言うと音声化できない表記にきわめて敏感になっている傾向が一部に見られる気がします。それにはインターネットの普及が大きく影響しているようです。
句点は音読できない
句点は音読できない。
試しに、上の二つのセンテンスを誰かの目の前で音読してみてください。いがみ合うのではなく、丸く=円くおさめたいものですね。
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