複製としての文字
前回の「文字を書いてもらう」でお話ししたことを箇条書きにまとめてみます。
・機械は「同じかどうか」を基本とする「はかる」世界にいる複製である。だから、杓子定規に作動する。
・人は「似ている」を基本とする印象の世界で生きている。だから、適当であり、いい加減である。
・人の書く文字には個人差があるので「似ている」世界にある。
・活字は「同じ」であるように人がつくったため、文字としては例外的に「同じ」かどうかの世界にある。
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文字を二つにわけてみます。
・人の書く文字:人と同様に、「似ている」を基本とする印象の世界にある。いわば「やさしい複製」。
・(人のつくった機械がつくった)活字:杓子定規な機械と同様に、「同じ」かどうかを基本とする世界にある。規格の統一された複製。
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上の文は活字で書かれています。もちろん、同じ文を紙の上にペンで書くこともできます。私は悪筆なので、上の文を私が書けば、ひとさまには判読しにくいだろうと思います。
私の悪筆問題はさておき、上の文で、「マカロニ」が「マ力口二」であったり、「カフカ」が「力フ力」だったりしても、気がつく人はまずいないだろうと想像しています。
実は、上の二組の文字列のペアで後者はフェイクなのです。後者には、カタカナではなく漢字が混ぜてあります。
「いや、気がついたよ」なんておっしゃる方がいても驚きません。人それぞれです。そんな特技をお持ちの方もいるにちがいありません。
「カタカナのカ」と「漢字の力」は似ています。同様に、ロと口も、ニと二も、私にはそっくりに見えます。
エと工も、タと夕も、トと卜も、ハと八も、ヒと匕も、ヘとへも、ぺとペも、べとベも、似ていたりそっくりだったりします。
文字は複製であるにしても、活字は「同じ」かどうかの世界にあって、杓子定規にできていますから、その識別は厳格になされているはずです。文字コードとかいうものがあるらしいのですが、私は名前だけでしか知りません。
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「同じ」かどうかの世界にある文字、つまり活字の識別は、「同じ」かどうかの世界にある機械やシステムに任せたほうがよさそうです。
実際問題として、「似ている」という印象の世界にいる私は、その判断を外部委託(外注)するしかありません。
やってみましょう。
"マカロニ"
"マ力口二"(フェイク)
"カフカ"
"力フ力"(フェイク)
一致検索のために、ちゃんと" "でくくってグーグルで検索してみるのです。
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フェイクかどうかは、検索したさいのヒット数と、検索でヒットしたサイトの内容でわかります。
フェイクの場合だと、ヒット数は圧倒的に少なく、ヒットしたサイトは、例のマカロニやカフカについてのものではないはずです。内容がどこか変なのです。
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何度もくり返して恐縮ですが、人は「似ている」を基本とする印象の世界に生きているので、活字のフェイクを本物だと見間違えます。
虫眼鏡かなにかで、よーく見れば別ですが、文章の中に混じっていれば見間違えるのが普通です。
フェイクだと気がついた人は杓子定規な機械やシステムに近い視覚機能や認知機能を備えているにちがいありません。特殊な才能に恵まれているとも言えるでしょう。
そもそも文字は、とりわけ活字は見るものではありません。読むものなのです。
・目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
・目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。
私は趣味は活字を見ることです。そうやって文字のありようを観察しています。私の記事はその観察記録だと言えます。
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まとめます。
私が記事によく書く、
・「似ている」を基本とする印象の世界
と
・「同じ」かどうかを基本とする世界
の違いを体感していただけたでしょうか?
「同じ」かどうかの世界は、「似ている」を基本とする印象の世界にいる私たちはなかなか体感しにくいものですが、たとえば文字列が「フェイクかどうか」を機械やシステムに検索させることで体感できると言えそうです。
大切なのは、たとえ機械やシステムが検索するのを見ているにしても、私たちは常に「似ている」を基本とする印象の世界にいることです。私たちが機械やシステムを「つかっている」にしてもです。私たちは機械やシステムではないのです。
その意味で、機械やシステムは常に人の「外にある」し「外である」と言えます。外は未知だとも言い換えられるでしょう。たとえ、人が「つくった」ものであるにしてもです。
ですから、私たちは常に、予想外、想定外、未知の事態に備えることが必要だと思います。相手(人がつくったもの、人がつかっているもの)はあなどれないから、高をくくっていてはならないという意味です。
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付け加えたいことがあります。
「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)は、「はかり」である以上、言葉の定義からしても複製だと言えます。私は、ここに文字も含めていいのではないかと思います。
文字が何を「はかる」のかについては、別の記事に書く予定ですが、おそらく文字自体だという気がします。
いずれにせよ、ここで強調したいのは、文字という複製もまた、人がつくり、人がつかっているものでありながら、人の人の「外にある」し「外である」ことです。
文字を観察していると、そのありようは不思議で不可解で不気味ですらあります。得体が知れず、正体不明なところがあるのです。
その文字に人類がこれだけ取り憑かれているのも大きな謎です。実際、人の世界は文字だらけじゃありませんか。ありとあらゆるものを人は文字にしています。
この点についても、これからまた書いていきたいと考えています。
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実は、私はこの記事の一部を書き直しています。
本物の「マカロニ」と「カフカ」と、フェイクの「マ力口二」と「力フ力」をコピペしているうちに、どっちがどっちなのかわからなくなってしまったのです。
途中でトイレに立ったり、その帰りに台所で水を飲んでいたのがいけなかったようです。
ついでに言いますが、記事を書いている途中だったのを忘れたのです。こういうことが最近よくあって困っています。
とはいえ、安心してもいます。自分が機械でも複製でもなく人間だと痛感できたからです。
今回の記事は、私も人の子だったというオチのお話でした。
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オチと言えば、もう一つオチがありました。忘れていたのです。
フェイクの"マ力口二"と"力フ力"を検索して、ヒットした怪しげなサイトをスクロールしながら眺めていたら、私が以前に note でこのフェイクネタをつかった記事がヒットしたのです。
冷や汗が出ましたよ。
自分のやっていることがバレバレだったというオチでした。
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note にも大変優れた検索システムが装備されています。フェイクとフェイクではないものをちゃんと見分けるのです。
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