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くり返される身振り(好きな文章・06)

 今回は、作家がくり返し書いている身振りについて書いています。そうしたくり返しのもたらす既視感が、私はたまらなく好きなのです。


書き手の癖、読み手の癖


 このところ吉田修一の小説を読みかえしているのですが、再読するのはぞくぞくするからです。わくわくよりもぞくぞくです。

 どんなところにぞくぞくするのかと言うと、吉田の諸作品に繰りかえし出てくる動作とか場面にぞくぞくします。

 反復する、つまり複数の作品に共通して見られる身振りや風景があって、そこに差しかかるとため息が出ます。

 もちろん、全体のなかの細部、つまり全体のごく一部という意味です。

     *

 たとえ、部分だとしても、同じような、似たような細部をあれだけ何度も何度も書いているのは、書き手側に何かこだわりがあるにちがいありません。

 意味や意図があると言うよりも、それはほぼ無意識の癖だという気がします。

 書き手が書くときの癖に惹かれて、そこが読みたいから読んでいるというのは、読み手の側にも似たような何かがあるにちがいありません。

人は「何か」に「何か」を読む


 人は「何か」に「何か」を見る――。

 前者の「何か」と後者の「何か」は異なります。別物でなければなりません。

     *

 たとえば、前者の「何か」は言葉や文字であり、後者の「何か」は、模様、形、光景、イメージ、意味、ストーリー、ドラマだったりもしますが、この場合には、人は「何か」に「何か」を読むと言えそうです。

 さらに言うなら、人は「何か」に自分が見たいものや見たくないものを、読みたいものや読みたくないものを、見てしまったり読んでしまう気がします。

(「人は」だなんて人類を語るような言い方をして、ごめんなさい。こういうことについて観察したり話せる人類は自分しかいないのです。)

     *

 たぶん、見るというよりも見てしまう、読むというよりも読んでしまうのです。

 してしまう、しまう。しまう、終う、仕舞う、了う。

「しまう」は「あれよあれよ」という展開を指すようです。いったんそうなって「しまう」と取り返しがつかない感じでしょうか。

 でも、だから、またやって「しまう」のです。

「見る」や「読む」は、自分の思いや望みを超えた動きをしそうな気がします。

既視感


 してしまう。
 ……していて、……してしまう。

 既視感を覚えます。

 ……しようとして、……してしまう。

 あれです。

 であって、でない
 であって、ではない
 でありながら、ではなくなってしまう

 ……であって、……でない
 ……であって、……ではない
 ……でありながら、……ではなくなってしまう

 たぶん、私はこういうリズムというか言葉の身振りが好きなのです。自分のなかにある「何か」、自分に流れている「何か」と、ともぶれ(共振)している気がします。

 思えば、「好きな文章」というこのシリーズの第一回が、「してしまう」でした。

ストーリー、筋、物語


 ところで、私はストーリーを追うのが苦手です。筋よりも細部に目が行くようです。読書のさいには筋を追わないので、途中から読むことがよくあります。

 あと、読むのを中断して放置している小説がけっこうあるのですが、気が向くと手に取ってぱらぱらめくり、面白そうなところだけを少し読みます。

 全体を読みとおしたという記憶のある小説はありません。断片的な記憶しかないのです。エッセイや学術書でも、そんな感じで読んできました。

     *

 たぶん、意識が散漫なのです。この文章の書き方をご覧になると分かると思いますが、話がやたらと飛びます。重複も多いです。ごめんなさい。

 自分のなかでは連想という形でつながってはいるのですが、ひとさまから見ると飛躍に感じられるだろうと思いつつ書いています。

 話をもどします。

吉田修一の小説の魅力的な細部


 吉田修一の小説で頻出し、いい意味で私が気になる動作や仕草や口調を挙げます。

・汗が流れるように出る。汗が吹き出る。汗でびしょ濡れになる。これはいちばん目につくシーンでしょう。吉田の作品では、水と火(火はとくに初期の作品です)も特別な意味を持っている気がします。「ひ」(火・日)と水があるから汗が出るわけです。ぎらぎらと輝く太陽の下で汗が光るみたいに。

・他人の家に入る。留守番もあれば、居候もあるし、不法侵入もあります。ほとんどの作品にこの「テーマ」が出てくるのです。エロチックな意味も感じます。このテーマについては、近いうちに記事にするつもりです。

・階上の窓やベランダから下を見る。眼下に道路を眺める動作が多いです。階段の上から見おろすというバリエーションもあります。この身振りを吉田が書くと、じつにチャーミングなのです。

・「あっ」という間投詞。これをタイミングよく口にするときの登場人物が、またチャーミングなのです。

・「りょ、良介くん、な、泣いてる?」(『パレード』)とか、「ど、どうなさったの?」(『横道世之介』)とか、「も、戻ってくるよ。」(『怒り』)といった口調も好物で、そういう会話を読みたいだけのために吉田の本をめくることがあります。

・誰かが誰かの背中を押す。背中を押しながら、前に進むようにうながすという行為も頻出します。同性同士だけでなく、男性が女性を、女性が男性の背を押す場合があります。不思議なくらいよく出てくる仕草です。

・ビデオカメラや写真のカメラで、目の前のものを撮影するシーンもよくあります。ファインダーで覗いた映像と、撮影された対象である現場が同時に描写されることもあり、その対比を楽しんでいるような筆致を感じます。こういう場面を読んでいると軽い目まいを感じて好きです。

     *

 吉田修一の作品は、今後何度か、引用をまじえながら記事で取りあげていく予定なので、今回は総論にとどめます。

何度も読みかえす


 似たようなシーンや動作が出てくるから興味を惹かれるのか、そもそもそういう身振りや場面が好きだから何度も読んでいるのか。よく分からないのですが、吉田修一の作品を繰りかえし読んでいます。

 寝入り際の夢うつつや夢で見ることもあります。それを楽しみにしてもいます。

 自分の読書を振りかえると、私はその時々に読みたいものだけを読んでいるし、読みたいものの読みたい部分だけを読んでいるようです。かつて読んでぞくそくしたところを、何度も読みかえしています。

反復からくる既視感


 どうやら、書かれているものをまんべんなく読むのではなく、まばらに、そしてまだらに読み、その結果として、すかすかな読書をしてきたようです。

 こうした読書については、拙文「小説は絵に似ている(小説の鑑賞・08)」でも触れているので、よろしければお読みください。

 そうしたまだらな読み方――細部を断片的に繰りかえし読むという意味です――に適した作家の作品を読んできたのかもしれません。

 書棚や段ボール箱には、たとえば、スティーヴン・キング、宮部みゆき、古井由吉――反復からくる既視感を覚える作家たちです――の本がたくさん残っています。その中には、まだ読んでいないものもたくさんあります。

 なお、書き手としてのスティーヴン・キングと宮部みゆきの小説に出てくる癖(反復)については、拙文「小説の執筆をライブで見る(小説の鑑賞・05)」で詳しく触れています。

 スティーヴン・キングの作品がホラー、宮部みゆきの作品がミステリー、古井由吉の作品が純文学だと思ったことは一度もありません。

 ただ好きなのです。だから、くり返し読んで「しまう」のです。


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