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邪馬台国はなぜ見つからないのか? ③~九州説の弱点は「東遷」 前編~
今回は九州説について書きます。
邪馬台国の候補地は、九州北部の筑紫平野や福岡平野、宇佐、南九州の宮崎や阿蘇地方など諸説あり、九州説の中でも分かれています。
それでも、九州のどこかに邪馬台国があって、神武天皇の時代に畿内に遠征してヤマト王権を築いたという結論は同じです。
(少数意見ですが、「九州内の抗争で邪馬台国と狗奴国が争い、邪馬台国は敗れた。神武天皇は狗奴国の末裔である」という説もあります。しかしこれを裏付ける物的証拠がないのでここでは採り上げません。)
九州説を否定する意見としてよく聞かれるのが、有力な候補と呼べる遺跡が未だ見つかっていないことです(吉野ヶ里遺跡は弥生時代中期、邪馬台国以前の時代の遺跡)。
また、仮に邪馬台国が九州にあったとすると、日本列島の中でかなり限定された地域の政権になるという点も弱点です。卑弥呼が魏の皇帝から「親魏倭王」の金印を貰った点からみても、倭国内にいくつかある地方政権の一つ、という存在ではないはず。
これらの疑問を解消するためには、九州で邪馬台国にふさわしい巨大な遺跡が見つかり、なおかつ西日本の広域にわたって影響を及ぼしていたという有力な証拠を見つけたいところです。
ところで九州説のキモは、神武天皇が「実在」し「神武東征」があったという点です。
これは『古事記』や『日本書紀』の記述に基づくもので、有力な根拠といえます。少なくとも「神武東征はなかった」という畿内説よりは数段説得力があります。
しかしなぜか東征ではなく「東遷」と表記する人が多いようです。つまり九州にあった王権が東に勢力を拡張し、大和に遷都したという主張です。
日本の歴史上、遷都は何度かありました。
藤原京から平城京へ、平城京から平安京への遷都などです。しかしこれらはいずれも同一体制の中で「都を遷した」ものであり、武力による政権交代の結果ではありません。
たとえば承久の乱は、現政権である鎌倉幕府に対し後鳥羽上皇が反旗を翻しました。しかし反体制側はあえなく敗れ上皇は隠岐に流されました。
この後、鎌倉政権は上皇や天皇がいた京に移ったでしょうか?
答えはノーです。幕府は鎌倉にあって政治の指揮を執りながら、京には六波羅探題を置いて朝廷を厳しく監視しました。
同様のことが、権力を掌握した後の豊臣秀吉や徳川家康の行動にも見て取れます。
関白豊臣秀吉は、小田原攻めで北条氏を滅ぼした後は大坂に戻りましたし、徳川幕府初代・二代将軍の徳川家康・秀忠親子も、大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させた後は駿府や江戸に帰りました。
つまり遷都はしていません。
では日本の歴史上、政権側が敵対勢力を倒したのち、敵の根拠地に都を遷したという事例はあるでしょうか?
(後編につづく)
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