【読書感想文的エッセイ】神様みたいに良い人2
大学生になれば、変わると思っていた。しかし何も変わらなかった。結局、高校生と同じだった。おそらく高校生の頃から遊んでいた奴は、フットワークの軽い、チャラチャラした奴になった。わたしは文学部で本当に良かったと思う。社会学部だったら、ぼくは死んでいたかもしれない。そう思うくらいには、学部の文化というか風土が違っていた。誰だよ「遊ぶん学部」とか最初に言い出したの。
とにかく、ぼくはいつか自分が日の目を見ることを期待していた。しかし大学生活もこのまま終わると思うのだ。しかし、今はそれも良いかなと思っている。高校生のときに、ホモソーシャルへの加入を拒否していたわたしにとって、モテるモテないは些細な問題であった。ちょっと説明するのはめんどくさいなと思ってしまって、大学の友達には「女性と話すのは苦手」と言っている。ごめんな、友達。
冒頭で、「ぼくは大庭葉蔵なんじゃないか」と書いた。ここまで読んでくれた人は分かると思うのだが、ぼくの一体どこが『人間失格』の主人公、大庭葉蔵だと言うのだろう。彼は生来のモテ男だ。『人間失格』はうがって読めば、「モテ男はつらいよ」という話になるだろう。でも、それじゃやはり『人間失格』を読んだことにはならないと思う。あの話は、人というものを信じられなくなった少年が、大人になって、この人だ! という人に出会うのだけれど、結局、その人自身が信じることは罪であるという葉蔵のテーゼを証明してしまい、葉蔵の人生は破滅に向かっていくという話なのだ。ただのモテ男の回想録などではない。まあ、わたしが改めて言うようなことでもないか。
『人間失格』には、いろいろな問題が混ざっている。それはもうぐちゃぐちゃに。そもそも大庭少年が笑えなくなったのは、侍女たちの性的虐待だ。お道化るようになったのは、父親が気難しい人だったからだ。美術学校に通うようになったのは、親への反抗心からだ。そこで悪友堀木と出会う。堀木は葉蔵にいろんなことを教える。酒、煙草、女、博打、共産主義……。葉蔵は共産主義者の地下アジトを居心地が良いと言っている。彼は「お前はお前だ」と、誰の息子とか関係なく「お前は大庭葉蔵だ」と言ってくれる仲間がほしかったんじゃないかと思う。やっとヨシ子という女性と出会えたのに、彼女は強姦に襲われてしまう。おそらく葉蔵は「自分と結婚したばかりに……」と自分を責めただろう。作中でヨシ子は人を疑うことを知らない女と書かれていた。だから知らない男を家に上げてしまい、その結果、性犯罪の被害者となった、という感じに読めてしまう。しかし「信頼は罪なりや」とは、ヨシ子が自分と言う男を信じてしまったことがよくなかったと、そう言いたいのではないか。葉蔵と結婚したことと強姦に襲われたことの因果関係はないはず—人妻の方が魅力的に見えるとか、そういう話をしたいのではない—なのだが、心を病むということは、そういう繋がりが混線してしまい、なんでも自分のせいだと感じてしまうことを言うのかもしれない。
ぼくが『人間失格』を読んだのは、2020年2月。ぼくはこのとき、いや、おそらくずっと、それこそ小学生くらいの頃から、病んでいたのかもしれない。だから『人間失格』を読んだとき、「ぼくは大庭葉蔵なんじゃないか」と思ったんじゃないか、そう思うのである。大庭葉蔵は境界性パーソナリティー障害という愛着障害があるという話をなにかで聞いたか、読んだ記憶がある。ぼくはその話を知って、彼についてもっと知りたくなった。だからぼくは、岡田尊司先生の著書を何冊か読んだのだ。そしたらどうだ。「これはぼくのことじゃないか」と思うような、特徴がズラリと書かれていたのである。巻末に簡易な診断テストがあった。やってみた。さあ、どうだ! ぼくは不安型愛着障害と出た。もちろん実際に診てもらったわけじゃない。質問に3つの回答が用意されてあって、選ぶとポイントが加算される。Aがいくつ、Bがいくつ、Cがいくつという風に。それぞれのポイントの大小関係によって、自分の愛着の傾向を見て取るというテストだ。でも、なぜか気が楽になった。社会への馴染めなさを説明してくれたような気がしたから。逸脱には慣れている。理由さえ分かれば、もうこっちのものだ。
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